第8話 越前

瓏凪ろうながハルを誘う数時間前。

主要な教科を別クラスで受ける特進科の越前えちぜんは、四限目の手前でやっと自分のクラスへ戻ってきた。

席に着くと、さり気にその目が窓際へ向く。

だがすぐに手元に視線を戻し、分厚い参考書と薄いノートパソコンを丁寧に鞄へ戻し始めた。


「よ、お帰り」


一つ前の席に腰を下ろした瓏凪が声をかけてくる。

悪戯っぽい目が、口以上に物言いたげに見上げてきた。


「…なに」

「そんなに気になる?」


越前は一瞬何を言われたのかが分からなかった。

だが瓏凪の黒い瞳は、明確に指し示すように窓側のハルの席に向いた。

斜めに引かれた椅子はそのままで、主の姿はない。


「別に気にしてるわけじゃ…」

「ウソ。今も教室に入るなり笠井のこと探しただろ?先週もずっとそうだったよな」


温かな風が流れ込み、教卓の花瓶に生けられたかすみ草が歌うように揺れる。

瓏凪はそれを眺めながら、さり気に言った。


「あいつさ、何か聞こえんの?」


越前の神経質そうな細い眉が少し寄る。

だが二人の間で隠し事をしないのは絶対のルールだ。

越前はしばらく考えてから静かに答えた。


「逆だ」

「ん?」

「音以外、何も聞こえない」

「音?」


意味が分からず聞き返したが、瓏凪ろうなは思わず言葉を飲んだ。

窓の外を見つめる越前の横顔をそよ風が撫でていく。

艶の乗った前髪は微かに揺れ、見え隠れする涼やかな瞳には滅多に見ることのない嬉しそうな笑みが浮かんでいた。


「越前…?」


呼ばれて振り返るのはいつも通りの無表情。

今の穏やかな微笑みは、きっと越前自身も無意識だったのだろう。


「笠井ハル、か」


瓏凪は俄然ハルに興味が湧いた。

越前にあんな顔をさせるとは、彼には一体何があるのだろうか。

だが見る限りぼっち街道真っしぐらなハルと、自分からは決して他人に近寄らない越前とでは仲良くなる機会さえ訪れないだろう。


「…しょうがない、俺がひと肌脱ぐかぁ」


顎に手を添え呟いたが、すぐにその手を越前に掴まれた。


ろう、余計な事はしなくていい」

「別に余計ではないと思うけど?」

「もし瓏が関わったりしたら…」


濁された言葉の先は痛いほどよく分かる。

それでも瓏凪は、越前が見せたあの表情の意味が知りたかった。


「ま、とりあえず軽く昼飯誘うくらいにするさ。心配しなくてもクラスの奴らには見られない様にするし…って、笠井のやつ、そういや毎度毎度どこで弁当食べてるんだ?」


明るく言うも越前からは反応がない。


「そんな顔すんなよ越前。何かあったら、二人で護ればいいだろ?」


悪戯っぽく片目をつぶったが、越前はやはり浮かない顔だった。


チャイムが鳴ると、ハルは意気揚々と教室に戻ってきた。

席についたものの、後ろから見てもどこかソワソワと落ち着きがない。

瓏凪はそんなハルの背中眺めながら、昼休みはどう声をかけるべきかあれこれ考えた。

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