第5話 空へ
長かった初日は、とりあえず最後まで何事もなく平和に終わった。
それでも疲れ切ったハルは机に突っ伏し、心の中でやっと帰れると呟いた。
だがその見通しは甘く、担任の大島はハルを呼びつけ、今からこの学校について説明するという。
暴挙だ…。
ハルはまたもや心の中でつぶやく羽目になった。
いかにも世話焼きといった四十絡みの女教師が、一刻も早く帰りたいハルを連れ回す。
「…というわけで、笠井さんも早く学校に馴染めるといいですね」
「は、はい」
「あ、言い忘れていましたが、旧校舎には立ち入り禁止の場所もあります。床が腐って危険ですから絶対に入らないでください」
「はい…あの」
「何ですか?」
「俺そろそろ…」
今日一番の思いきりで切り出す。
窓から覗く日はすっかり傾いているのだ。
担任はハルの言いたいことに気付くと、豪快に笑いながら調子良く肩を叩いてきた。
「あらやだ。喋りすぎちゃったわね。そうね、早く帰りなさい」
「はい…!」
「また明日ね。笠井さん、さようなら」
「さよなら」
勢いよく頭を下げると脱兎の如くその場を立ち去る。
「廊下は走らないように」と担任の声が追ってきたが、構わず階段を駆け降りた。
下足室まで速度を落とさず、靴も大急ぎで履き替える。
自転車置き場から赤いマウンテンバイクを引っ張り出し、ようやくハルはゆっくりと息を吐いた。
「はぁ、やっと解放された…」
校門を抜ければブラスバンドの鳴らす、ぷぁーと抜けた音も遠くなる。
押していた自転車にまたがり、帰りは国道目指してペダルを踏んだ。
道路を行き交う沢山の車。
奥まった敷地の中に建つ市立病院。
学生の出入りが目立つ本屋。
看板のライトが灯り始めた飲食店。
町の景色がゆったりと流れ、全てが等しく茜色のヴェールに包まれていく。
赤く伸びる雲に、ハルは何か言いたげな目を細めた。
町と町の境目を越えて国道から離れれば、景色はがらりと変化した。
葉の生い茂る山が増え、住宅地の先には田んぼが緩やかに広がっている。
橙と混じる若い緑が目に優しい。
車輪のそばで心地いい豊かな水音が跳ね返った。
溜池から引かれた用水路だろう。
歩道を彩るのはツツジとサツキ、そして風に揺れるハナミズキ。
土の匂いに仄かに混じる蜜の香りは、幼い頃の祖母との記臆を引き出した。
今が散歩の途中なら、ハルは迷わず目を閉じ、もっと鼻先に神経を集中させたことだろう。
「…きもちいい」
少しずつ、ハルの五感が花開きほどけていく。
この時間帯なら尚更敏感に。
こんな時に狂おしい程に思うことはただ一つ。
「飛びてぇ…」
はちきれそうに膨らみ、行き場を探すハルの思いが薄くあけた唇からこぼれ出る。
代わりに胸の空白を埋めるように、細く長く酸素を吸い込んだ。
触りたい。あの雲に…。
日の沈む空が、ハルの音にならない声を受け止めた。
自転車は明かりの少ない方へと車輪を向け田んぼを目指した。
大幅な寄り道だ。
力を込めてペダルを踏むうちに、まだ植えたばかりであろう細い苗たちが視界いっぱいに揺れた。
撫でるような湿気に誘われ、サドルから降りると畦道に入る。
踵のへたったスニーカーがつゆくさを踏んだのか、甘い匂いが追いかけて来た。
周りは既に蒼然暮色。
空と山の輪郭は混じり合い、のっぺりとした夕闇がハルの前に広がっている。
空に浮いた三日月は朧雲に覆われ、電池切れ間際の懐中電灯みたいだ。
ハルは自然と口元に笑みを浮かべた。
今から起こる事への期待が、気持ちを高揚させていく。
手に持つスマホはポケットへ。
深呼吸をしてから一番星を瞳に映す。
ゆっくりと瞼を下ろすと、その中で瞳孔が僅かに収縮した。
唐突に、ハルの足元から地面が消え失せた。
手も足も、頭も胸も、淡い光の中へと溶けながら重力から切り離されていく。
まるで蒼い洞窟に満ちた、どこまでも深く透明な水の中へ落ちたみたいだ。
……来る。
胸の奥底にまで明かりが差すと、ハルは自分の体が急速に浮かび上がる実感を得た。
淡い光は瞬時に掻き消え、代わりに渦巻く風がハルを空へと押し上げる。
気温も風の匂いも、体を震わすほど冷たく変わっていく。
それでもどうしようもなく愛しさが込み上げてくるのは、大空がハルのもうひとつの故郷だからだ。
高く細くヒュウと鳴る風と共に、弱々しく感じていたはずの月明かりが眩しさを増していく。
身体中が明るい光に包まれると、ハルは閉じていた瞼をそっと開いた。
真っ先に目に飛び込んだのは、くっきりと輝く三日月。
気ままな風は、どうやらハルを雲の上まで招待したようだ。
層の薄い朧雲はつま先に触れると二つに割れた。
ハルはたっぷり開放感に浸りながら雲の下を見下ろした。
伸びやかな大地に根付くのは、ネオンが彩るハルの町。
「…この町も、好きになれるかな」
囁きが流れる雲に乗り遠くへ運ばれていく。
町は更に輝きを増し、遥か上空に浮かぶ一人の少年を静かに歓迎したようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます