第6話 ハルと博士


鉛色に空を埋める曇天の朝。

土曜日だというのに、ハルは早朝から駅前通りを彷徨い歩いていた。


「んー。確かこの辺のはず…」


スマホに送られてきた住所と地図、それからシャッターが下りた店の羅列を見比べる。

閑散とした商店街に音を立てるのは、ハルのスニーカーの踵とスズメの鳴き声だけだ。

路地裏では低く飛ぶ燕が雨が近いことを予感させ、足取りは心持ち速まった。


「アサカハイツ、アサカハイツ…と。ここを右かな」


店と店の間に伸びた道に入ると、排気口からいい香りが漂った。

誰もが幸せを感じる焼きたてパンの匂いだ。

空腹を感じながら商店街を抜け、細い路地を進んで行くと目的の建物を見つけた。


「あった!…けど」


古い看板にアサカハイツと書かれた建物は、時代を二つほどまたいだのか見事に錆びれていた。

もはや半壊したブロック塀や腐り落ちそうな階段に、ハルの足が二、三歩下がる。


「博士…、ほんとにこんな所に引っ越してきたんやろか」


踏み込むのを躊躇っていると、頭の上から場違いなほど元気な声が降りかかった。


「ハル!!ハル、こっちなのである!!」


静かな朝を堪能していた野良猫達が迷惑そうに塀の向こうへと消えていく。

ボロハイツの二階の窓からは、小さな体を目一杯乗り出した老人が両手を振っていた。


「待っていたである!!遠慮せず来なさい!!」

「さ、さ、佐護さご博士!?あ、あぶっ、危ない!!すぐ行くから窓閉めて!!」


ハルは身振りで閉めてと示してから、しっかり手すりを持ち階段を駆け上がった。

五つしかない扉の中から203号と書かれた表札を探す。

だがどれも数字が薄い上に蜘蛛の巣まで邪魔をして読みにくい。

手前から201と考えて、ハルは三つ目の扉をノックした。


「博士…!!」

「おぅ、待っていたである」


古い扉が軋みながら開かれる。

どうやら当たりだったようだ。

玄関先からハルを見上げてきたのは、一目で分かる奇人変人な老人だった。

背はハルの半分ほどしかなく、ふっさふさな白い髪と髭が足元まで伸びている。

左耳の上には何故かいつも三角定規が差してあり、顔の半分を覆う大きなサングラスのせいで人相もはっきりしない。

極め付けが引きずりながら歩くぶかぶかの白衣だ。


「まぁ、入れ。丁度ベーグルが焼けたからご馳走様するである」

「やった。お腹空いてたんだ」


ハルは段差の浅い玄関で靴を脱ぐと、擦れた畳の部屋に上がった。


「それにしても、まさか本当に博士までこっちに引っ越してくるなんて…」

「当たり前じゃ!ハルは我輩の永遠の研究材料だからの!ほれ、食べながらでいいからいつもの始めるぞい!」

「はぁーい」


手を洗ってから折りたたみ式の机の前に座ると、ほかほと温められたベーグルが紙皿の上に乗せられた。

ハルがそれにパクつくと、佐護博士は手のひらサイズのカメラを三脚に設置して録画を始めた。


「これでよし、と。それではハル。本日の報告をするである。環境が変わって何か変化はあったか?」

「うーん。別に変わらんかなぁ」


もぐもぐと口を動かしながら、初日から何の変哲もなかった一週間を思い返す。


「あ、でもそういえば一回だけ変な現象が起こったかも。同じクラスの人に指が当たった時に、こう、視界がバーって白くなったというか…」

「むむ…」


博士は髭をもふもふしながら考え込んだ。


「それは、ハルの友だちであるか?」

「え?ううん」


まさかとでも言いたげにハルが首を横に振る。

博士は意味深に口を閉ざしたが、代わりに床に転がっていた消しゴムをテーブルの上に置いた。


「PKはどうであるか?」


ハルはベーグルを紙皿に戻すと膝の上で両手を握りしめた。

瞳孔に変化が現れ、消しゴムが弾かれたようにまた床に落ちる。


「うむ。代わりないであるな」

「うん、そうみたい」

「吾輩が入れたアプリは?ちゃんと空でハルを守ってるであるか?」


ハルは最後の一口を食べ終えるとちょっぴり不満そうに体を揺すった。


「標高が上がっても気圧の変化は感じないし、呼吸も楽だから体への負担はないかな。気温差はもう少し緩和してほしいけど」

「ふむ。またアップデートするである」

「それからさ。上からしか隠せないの、そろそろ何とかならん?」

「バカモノ!!光学迷彩は衛星から探知されるのを遮る優れものであるぞ!!なんたる言い草であるか!!」

「だってあれじゃ夜しか飛べんし」

「人は普通、夜でも飛べないものである!!」


ごもっともである。

ハルは両手を合わせてご馳走様をしてから投げやりに足を伸ばした。


「あーぁ、青い空を飛べたらなぁ」

「もう少し待つである。一応開発途中なのだ。それよりハル、あっちの方は最近どうであるか?」

「う…」


ハルの頬は思い切り引き攣った。


「ま、まぁ。今のところやらかしてない、はず」

「気をつけるであるぞ。ハルの場合はが一番の問題なのだから」

「わ、分かってるって」


博士はサングラスの奥の小さな目で、ひたとハルを見つめた。


「ハル、さっきの話であるが…」

「ん?」

「確かに気をつけねばならぬが、人と深く関わるのを諦めることはない。そろそろ親しい友人くらい、作ってもいいであるぞ」


真摯な声が優しく言い諭す。


「人が育つには人の力がいる。それは家族だけでは足りぬのだ」


見つめ返すハルの瞳には、一人ぼっちの憂いなど微塵もない。

だがそれは無垢な赤ん坊のように澄み過ぎている。


「定期報告は以上であるな?」

「え、あ、うん」

「では今日は終わるである」


博士は勝手に切り上げるとハルに立ち上がるようせっついた。

ハルはまだ小首を傾げていたが、とりあえずぺこりと頭を下げた。


「ごちそうさまでした」

「うむ。また来なさい」


窓から見送ろうとする博士を止めてから外へ出ると、軽い足取りで駅前通りまで戻る。

その鼻先にポツンと冷たい一粒が空から落ちてきた。


「雨…?」


見上げた空は厚い雲のせいで今日は低い。

あの先にあるのは、果てしなく青い空。

清浄な色に想いを馳せて目を細める。


行きたい。

あの向こうへ。

やろうと思えば出来ること。

でもそれは決してしてはいけないこと。


「絶対しちゃいけんことって、なしてこんな魅力的なんやろ」


少しだけ唇を尖らせながら、ハルは人通りの増えてきた商店街を早足で抜けて行った。

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