巡回

北見崇史

巡回

 夜の学校は静まり返っている。

 すべてが押し黙り、ただ呆然として暗闇に包まれていた。その暗さと静寂さは、昼間の喧噪と対比すると、じつに圧倒的だ。

 夜の校内では、そこに巣食う暗黒から良からぬものが芽を出し、むやみに侵入してこようとする輩に対して、邪まな眼差しを向け始める。

 それらは不穏当な手段を駆使しても、そこがある種の聖域であることを認識させようとする。耐え難い寂しさと積年の恨みが具現したそれらは、排他的で身勝手な存在として、いつまでもそこにあり続けようとしていた。



「そして、最後にこのカードを読み取り機器にあてて機械警備をセット状態にする」

 汗かき体質の小太りの男が背伸びをして、手にしたカードを機器に読み込ませようとしていた。彼は、委託された設置業者がどうしてこんな高い位置に警備機器を取り付けたのか、額に汗粒を浮かばせながら心の中で舌打ちしていた。

 通常、学校には児童・生徒用の巨大な玄関とは別に、職員用のこじんまりとした玄関があり、機械警備の機器も、まずそこに取り付けられている。

「ふう、これでOKだね」

 玄関の外壁に設置された警備システム機器は、クレジットカードの読み取り端末に似ていた。ICチップ内蔵のカードを受信機のセンサーにかざし、カードが情報を読み取ると、点灯していたランプが青から赤に変わった。

「これでセンサーがオンの状態になったから、もし賊が学校内に侵入したりすると信号が本部にとどくわけだ」

 いまどきの学校には、不測の侵入に備えて要所要所に警備センサーが取り付けられている。センサーの種類には磁気、衝撃、熱源探知などがあり、それぞれが出入口のドアや窓ガラス、天井などに設置されている。

 どれもが精巧な電子仕掛けであり、故障でもしないかぎり職務には忠実で、異常事態には情け容赦なく反応する。とくに熱源センサーの威力は抜群で、感度を最高にすると、観葉植物の枯葉が落ちただけで反応してしまう。空気中の熱の、わずかな揺れを感知するのだ。

「わかるね」

 先輩警備員の鍋島が言った。見習い警備員である佐々木は、この汗かきの男に三日間おなじ説明を受け続けていた。職員玄関を施錠し機械警備システムを稼働させてから、二人は車に向かった。

「もう何度も同じことを言われてイヤになっていると思うけど、明日からは君ひとりだからね。佐々木君のことをおもって何度でも念を押しているんだよ」

「それは、どうもすみません」

 そう言いながらも、佐々木はイヤになっていた。

 鍋島の恩着せがましい言い方は常に癪に障るし、それに今日を含めた三日間の研修で、巡回警備員の手順をほぼ手中にしたと思っていた。仕事内容は単純で、汗臭い小太りの先輩が何度も念を押すほど困難なことではないと考えていた。

 二人の警備員が乗り込んだ警備車は、例えばパトカーや自衛隊の戦闘車みたいな一見して特別なものではなく、市販の安い小型車に警備会社の名称とシンボルマークを貼り付けただけの簡易なものだ。遠目に見ただけでは一般の車と大差ない。屋根に突き出した業務無線のアンテナが、せいぜいの主張だった。

「404から101どうぞ」鍋島が無線機に言った。

 無線は誰が傍受しているかわからない。だから安易に個別の名称を電波にのせるわけにはいかないのだ。暗号とはいわないまでも、数字などの記号を用いてやり取りするのがっ通例となる。404は巡回している警備員、101は警備会社の司令本部のことだ。

「101です、どうぞ」一呼吸おいてから、無線機が返事をした。

 すると鍋島が、自らは話さないで助手席の佐々木に無線機を渡した。そのいかにもやらせてやるといった態度が不快だったが、いまは仕事を教えてもらっている身なので付き合うしかないと諦めていた。感情を顔に出さないようにマイクを受け取ると、仕方なくという感じで言った。

「33番、異常なし。これで本日の巡回を終了しました」

「了解しました、ご苦労様です」

 すぐに司令本部の声が返ってきた。事務的で温かみはなかったが、不必要なねちっこさがない分だけ、すっきりと伝わった。

「はい、よくできました、満点だよ。これで佐々木君も一人前の警備員だ。英語で言うと、ザ・ガードマンだよ。よかったね」

「・・・」

 佐々木は返事をしなかった。どうせ明日からは一人で巡回するのだし、このねちねちとした男と一緒にいるのもあと少しだと思うと、無理に気をつかうのがバカらしくなっていた。

 二人が乗った警備車は、ひどい霧の中を警備会社に向かっていた。ねっとりとした湿気が狭い車内にまで入り込んで、男たちに執拗にまとわりついていた。通りの家並みも信号も白くぼやけて、窓から顔を出すとむせてしまいそうなくらい濃厚なガスである。遠く真っ暗な海から、ボーボーと陰鬱な呻きが町全体に響いていた。その重苦しい霧笛が、この小さな町の性質を物語っている。

 運転をしているのは佐々木だった。鍋島は靴を脱いで両足をダッシュボードの上に投げ出して、だらしなく座っている。気まずい沈黙が車内を圧迫していた。せっかく先輩が褒めたのに、見習いが返事をしなかったために二人の会話は途切れていた。

 それでもやはり同僚ということなのだろう。佐々木は気にしないつもりだったが、鍋島がわざとらしく咳をし始めたので、仕方なくあたり障りのない会話をすることにした。

「もし発報があったら、一人で現場に行くことになるから、よっぽど気をつけたほうがいいですよね。危ない奴がいるかもしれないし」

 発報とは、機械警備システムが異常を感知した状態だ。一般的には警報のようなもので、警備員は直ちに現場へと駆けつけなければならない。

「まあ、発報してもほとんどは誤報だけど、たまに不審者に出くわすことがあるよ。そんな時は、まちがっても取っ組み合いなんかしちゃだめさ。安月給なんだから、命をかけたって損だし、それに怪我をしても誰も褒めてなんかくれないよ」

「じゃあ、どうすれば」

「警察が来るまで見張ってるんだね」

 すべての警備員が犯罪者と立ち向かい、格闘戦を想定しているわけではない。

たしかに、頑丈なヘルメットと防刃防弾チョッキを身にまとい警棒を手にした姿の警備員もいるが、それは現金輸送や要人警護の場合だ。

 交通誘導の警備員は車を誘導するだけだし、施設の巡回常駐警備は、いちおう物件を守るという大義はあるが、実際は見回りが業務の主たるもので、賊との格闘など想定外だ。だいたいが自他ともに体力に自信のない者が多く、しかも一般的に年齢も高めである。

 佐々木が勤め始めた警備会社は、市内のすべての小中学校を契約物件としてもっていた。それらの施設警備が業務のほとんどで、たとえば現金輸送や人身の警護といった、いかにも警備屋的な仕事はまったくなかった。

 小中学校の警備は基本的に夜からであるが、各学校に一晩中警備員を配置しているわけではない。

 以前は宿直の先生が泊まりこみで見回った時代もあったが、現在は人のかわりに警備機器が監視をしている。要所に侵入などの異常を感知するセンサーが設置してあり、例えば不審者が無断で校内に足を踏み入れたりすると、電子機器がその形跡を探知し、すかさず電話回線やインターネット回線を通じて警備会社に通報される仕組みだ。

 異常信号(発報)を受け取ると、警備会社は巡回中、あるいは待機している警備員を該当施設に急行させ、不審者の形跡はないか、施設が破壊されていないかを確認させるのだ。もし怪しい人間が潜んでいたり、建物を壊されていたら、警備会社が警察を呼ぶことになっている。

 しかし戸締りが不完全な場合や、機械警備システムのスイッチが入れられていなければ、そもそも意味がない。鍋島や佐々木の仕事は、校内に残っている最後の人間が帰った後に、学校を一周して窓やドアの施錠忘れを見つけ処置をすることだ。したがって、学校職員が帰らなければ警備員は施設を巡回することができない。しぜん、巡回警備員が活動する時間帯は夜遅くになってしまう。

「話は変わるけれど、佐々木君は幽霊とかは大丈夫なのかい」

「幽霊って、巡回先にそんなものが出るんですか」

「さあね、ぼくはね、この仕事を四年やっているけどまだ見たことはないね。話によると、いるところにはいるってことだけども」

 佐々木はそういう類の話題には興味がなかった。仕事には関係ないし、下ネタと同じくらいくだらないと思っていた。

「学校って、よくそういう話があるじゃないの。なんとか伝説でもないけど、小学生はやたら好きだからね。ぼくもね、五年生のときに流行ったのよ。そういえば佐々木君はどこの小学校だっけ」

「別に」佐々木は素っ気なく答えた。

 そんな見習い警備員をみて、鍋島はそれ以上話を続けなかった。怪談話に食いついてこないのでシラけてしまったのだ。佐々木は幽霊話と共に、自身の出身小学校の話もしたくなかったが、それは鍋島にはわからなかった。

 二人の警備員が乗った車が警備会社に帰ってきた。会社に着いたといっても、そこは本社などではなく、ましてや支社や支店ですらもなく、ただの小さな営業所である。市内中心地にある七階建ての古い雑居ビルにあり、しかもその六階部分の一部屋を借りているのに過ぎなかった。

 営業事務所を兼ねている警備本部は、ただでさえ狭い空間をアクリル板で区切って、その隔離されたスペースを使っていた。広さでいうと、ちょっと幅のある畳を横に三枚ほど並べた程度で、立ち食いそば屋のスペースと同じくらいだ。

 机が横に四つ並んでおり、すぐ後ろが仕切り版なので、イスに座っても後方にはほとんど動けない。姿勢は良くなるが大変窮屈だ。奥の大きな机は司令員専用で警備業の要となる場所だが、パソコン一台とたった二つのモニター画面しかない。その液晶画面には契約している施設の現在の警備状況が、びっしりと表示されていた。

「ただいま、帰りました」

「どうもお疲れさまです」

「やあ、ご苦労さん」

 パソコンのキーをカチカチと叩きながら、司令員の木戸が二人を出迎えた。顔はモニター画面に向けたまま、声だけの歓迎であった。

 木戸からもっとも離れた椅子に座った鍋島は、警備日報を書きはじめた。見習いである佐々木は、とくに何をするわけでもなく手持無沙汰だった。時刻は午前一時を少し過ぎた頃だ。

 木戸がモニター画面から顔を離し、小さなカップにサーバーからぬるくなったコーヒーをそそぎ、佐々木の机の上に置いた。鍋島には淹れなかった。

「いよいよ明日から一人で巡回だけれども、大丈夫そうかい」

「ええ、まあ。道順と仕事の要領は覚えたので、大丈夫だとおもいます」

 佐々木は先輩の指導が良いからと、心にもないことを言おうとしたがやめた。この三日間の木戸の態度から、鍋島はそれほど信頼されていない人間だと判断できた。だから下手におもねったりしなくても、自分の立場は悪くならないだろうと考えた。

「それじゃあ帰りますわ。お疲れさまでした」早々と日報を書き終えた鍋島が帰った。

 木戸は軽くため息をついた。煮詰まってエグい味のするコーヒーをすすりながら、モニター画面を見てはキーを叩いている。仕事が終わった佐々木も帰ってよいのだが、昨日と一昨日は一時間くらい警備業について木戸と話をしていた。木戸も、久しぶりに真面目でそれなりにやる気のある若者が自分の配下についたことを、うれしく思っていた。

「もう慣れたようだね。佐々木君は覚えが早いよ」

「そんなことはないですけど」

「まあ、そんなに難しい仕事じゃないから、佐々木君には物足りないかもしれないね。仕事は夜になるけど、だいたいこの時間には帰ってこれるし、巡回する学校も一コース十一、二件だから、そんなにも疲れないしね」

 この警備会社が抱える施設警備の物件は、市内の小中学校、市立高校などの教育機関のみで、民間の施設はもっていない。二十数か所ある学校を、二人の警備員が各コースに分かれて巡回している。

 ちなみに、さっきまで佐々木が巡回していたのはAコースで、Bコースはもう一人別の警備員が巡回していた。昨日は会って二言三言の挨拶をしたが、今日はもう仕事を終えて帰ったのだろう。司令は木戸一人で毎日だが、巡回の警備員共々、週に一回の休日があり、その時は警備主任が夜勤務となり代わりにつくことになっていた。三人の巡回警備員と一人の司令で、全警備物件を受け持っているとのことだった。

「そういえば、ぼくたちが帰った後に待機の警備員が一人いるってことですけども」

 二つのコースの警備員は、巡回を終えると家に帰ってしまう。巡回中に発報があればすぐ現場に急行するが、帰宅しているのであればどうにもならない。司令員は朝まで寝ずの番だが、この事務所からは出られない。人がやってくる朝まで、待機の警備員が最低一人は必要なはずである。

「ああ」

 木戸は気のない返事をした。わざと興味なさそうな態度をしているような感じだった。

「もうすぐ戻ってきますかね」

 戻ってこないのは佐々木も知っている。なにせこの事務所にきて三日目になるが、その警備員とは、まだ会ったことはないのだ。

「まだ来ないよ。三時過ぎに戻ってくる。まあ、佐々木君が会うことはないと思う」どことなく、つれない言い方だった。

「三時から出社するってことですか」

「いや、違うよ」

「じゃあどこに」

「まあ、待機かな」

 どうも木戸は、待機の警備員についてあいまいにしようとする態度だった。

「どこかで待機しているのだったら、ここで待っていたほうが何かと都合がいい気がしますけど」

「・・・」

 少しばかりの沈黙があった。木戸はこの話を打ち切ろうと沈黙を続けたが、佐々木が辛抱強く待っているので、仕方なしに話し始めた。

「数は少ないけどね、A,Bコース以外に中途半端な物件があるんだ。うちの会社が扱うから、もちろん学校なんだけれども。それがね、真夜中にけっこう発報するんだよ。だから事務所にいるよりも、その近くで待機していたほうがなにかと都合がいいからね」

「発報するって、よく不審者が侵入するのですか」

「いや、そうではないよ。全部誤報なんだ。例外なくね」

 発報したもの全てが誤報というのも、おかしな話だと佐々木は思った。

 たしかに誤報は多いが、たまには本当に何者かが侵入することもあると鍋島が言っていた。イタズラ目的で学校に入り込む輩と、特殊な場所でスケベ行為がしたくて侵入するカップルが多いらしい。もちろん、泥棒目的も少なからず存在する。それが例外なく誤報と木戸は言うのだ。

「よほどセンサーの感度がいい学校ばかりなんですね」

「そうだね」

 木戸はそれ以上話そうとはしなかった。モニター画面を厳めしく見つめ不機嫌そうにキーを叩きながら、その話題にふれたくないという空気を発散していた。その雰囲気を察して、佐々木も深追いすることはしなかった。


 佐々木が一人で巡回するようになって一か月が過ぎた。

 各学校への道順がはっきり思い出せず当初はまごついたが、すぐに慣れて素早く移動できるようになった。鍋島やもう一人いる中年の警備員より実直に働いていたので、木戸や警備主任への受けもよかった。逆に先輩たちから、そんなにがんばってどうするのだと少しばかり嘲笑されたりもしたが、彼は気にしなかった。まじめに仕事をすれば評価も上がるし、もともと手を抜いたり中途半端なことが嫌いな性分だった。

 そんなある日、佐々木はいつもの帰社時間よりも、かなり遅れて帰ることになった。その日に限って発報が三件も連続して起こったのだ。しかも、それらのすべてが誤報ではなかった。

 ある小学校ではガラスが何枚も割られて、廊下や教室に複数人の汚れた足跡とビールの空き缶が残っていた。チンピラ連中が面白がって侵入したのだ。市内でもっとも新しい校舎の中学校では、どこから入ったのか、ホームレスが職員室で冷蔵庫のお菓子を食べていた。またほかの中学校では、近所の無職中年男が女子生徒の下駄箱から上履きを収集するというヘンタイ行為をしていた。

 現場に急行し、さっそく校内を点検していた佐々木は、ガラスを割った危険な連中には遭わなかったが、ホームレスとヘンタイ中年男には遭遇してしまった。死ぬほど肝を冷やしたが、幸運だったのは、駆けつけた警備員を前にして二人とも暴れることなくあっさりと降参したことだ。

 その後、不審者の処置は通報を受けた警察がしてくれたが、後片付けや再度の点検にかなりの時間がかかってしまった。だから、すべての物件の巡回が終わった頃には、午前三時になっていた。

 心身ともに疲れきった佐々木が事務所に戻った時刻は、午前三時を過ぎていた。だが仕事はまだ終わっていない。警備日報を書かなければならないのだ。木戸は、今日はもういいから家に帰るように言ったが、佐々木は日報を書き終えてからと言い張った。

「明日、少し早目に出てきて書けばいいよ。今日は発報だらけで疲れているんだから、もう帰りなさい」

「いえ、もう少しですから」

 佐々木は、今日の仕事は今日中に終わらせなければ気がすまない性分である。まじめなのはよいのだが、融通が利かないともいえた。

 そんな新人を横目で見て、木戸はイラつき始めた。佐々木は、仕事をする分にはいくら遅くなってもかまわないと考えていた。そして、そのひたむきさを木戸が褒めてくれると、バカまじめな性格にありがちな勘違いもしていた。先輩が心の中で舌打ちしている音を、彼は聞くことができない。

 佐々木が発報事件の詳細を文章にまとめるのに苦労していると、どこからか人の気配が近づいてきた。事務所前の廊下を歩いてやってくる人間がいる。いま午前三時過ぎだ。ざわついた喧騒はこれっぽっちもなく、ビルの中も外も静まりかえっているので、たとえネズミの足音でも充分目立つのだ。

 日報を書いていた佐々木はそれに気づき、一瞬おやっと思ったが、とりあえずそのまま作業を続けた。すると、ドアが開いて事務所に誰かが入ってきた。しかし、警備本部はアクリル板で仕切られた個室になっているので、それがどういう人物だかわからなかった。

 木戸が、ピーと音をさせながら鼻から息を吐き出した。この男独特の溜め息の仕方だった。佐々木は、ここに誰かが入ってくることを予期した。きっと待機の警備員だろうと見当をつけた。今まで会ったことはなかったので、仕事の話しでも聞こうかなと気楽に思っていた。

「うっ」

 だが司令本部に入ってきた人間を見て、佐々木は凍りついてしまった。そして驚きのあまり、しばし絶句してしまった。出会った同僚には必ず挨拶するという信条も忘れて、パイプ椅子に座ったまま、その男をただただ見上げていた。

「ただいま帰りました」

 そう言って警備本部に入ってきたのは、五十代くらいの警備員だろうか。いや、正確な年齢を定めることができなかった。なにせ顔がはっきりと判別できない状態だからだ。

 その男の見かけは異様だった。服装ではない。顔だ。帽子をとった顔の表面に、びっしりと文字が記されていた。意味不明な難解な漢字があり、音符のようなものもあり、何の記号かわからないものもあった。とにかく、奇怪な文様が首までびっしりと書かれているのだった。

「耳なし芳一じゃないからね」

 その男は、呆気にとられて自分の顔を見ている若い視線に少しばかり照れていた。

「な、なんですか、その顔。耳なしって、耳はあるじゃないですか」

 耳なし芳一は盲目の琵琶法師で、平家の怨霊に殺されぬように般若心経を全身に写したが、耳だけ書き忘れたために、怨霊に耳をもぎ取られてしまった。若い佐々木はこの古めかしい怪談話を知らなかったが、男の顔をまじまじと見て、知りもしない耳なし芳一をかなり近いところまで想像できた。

「どうもお疲れさまです。今日もいつもどおりでしたか」木戸は丁寧な口調で語りかけた。

「そうですね、いつもといえば、いつもどおりでした」

 顔中文様だらけの男が言った。脱いだ帽子を机に置いて、ペタっとつぶれた頭髪を撫でまわしている。二人は仕事上の事柄を律儀な口調で話し合っていた。木戸はこの奇妙な人物を佐々木に紹介することはなく、まるでその場に彼ら二人しかいないかのような態度だった。

「顔のそれって、タトウですか」

 佐々木は二人の間に無理に入りたくはなかったが、警備員の顔になぜ意味不明な文字があるのか、どうしても訊かずにはいられなかった。

「佐々木君、今日はもういいよ。帰りな」司令員は強い命令口調だった。

「いや、でも、まだ日報が」

「いいから早く帰るんだ」

 木戸の声は鋭く突き刺さるものがあった。その場が張りつめた空気になり、容赦のない圧力が若い警備員を縛りつけている。諦めた佐々木は、書きかけの日報をそろりと机の中にしまいこむと、なるべく音を出さぬように部屋を出ていこうとした。

「これは刺青じゃないんだよ」

 席を立った佐々木にそう言った男は、少しばかり微笑んでいた。若い警備員は再び椅子に腰かけた。

「八島さん、佐々木君はもう帰るので」

「いいじゃないですか木戸さん、私はもうすぐ辞めるのだし、たまに若いのと話もしたいしね」

 八島という男に諭されて、木戸は二言三言つぶやいてからしぶしぶ黙った。

「これはね、書いてるんだよ。その証拠にほら、こうすると消えてしまうんだ」

 八島は、尻のポケットから取り出した手拭いで頬のあたりをこすった。すると、あの奇妙な文字がぼやけて、ただの汚い顔になった。さらにそばにあった濡れティッシュで顔中をごしごしこすると、文様はすっかり消えてしまった。その下にあったのは、ごくごく平凡的なオヤジ顔だった。

「なんで顔にそんなもの書いてるんですか。仕事中なのに」

 八島は、若い警備員の質問に答える前に木戸のほうを見た。二人の視線が佐々木の頭越しにぶつかり、何事かを話し合っている。木戸は不機嫌そうに首を振ったが、八島は少し笑みを浮かべているように見えた。

「実はね、これは悪霊除けなんだよ」

 どことなく気まずい沈黙だった。木戸の指が、カチカチとキーを叩く音が際立って響いた。

「あくりょうって、ええー、あのう、悪い幽霊のことですか」

「そう、その悪霊」

「ははあー」

 八島は本気なのか、それとも冗談ならどこまで付き合えばよいのか、佐々木はむずかしい判断を迫られていた。

「私がねえ、受け持っている学校は霊的に問題があるところばかりなんだ」

「れいてき、にですか」やや斜め上を見ながら佐々木が訊き返した。

「そうなんだよ。成仏できずに、無限に彷徨い続けるものたちが、苦しさをまぎらわすために悪さをするんだ」

 どうやら本気で言っているようだった。佐々木はかなり慎重になっていた。

「それで顔に、その、呪文ですか。魔除けの」

「まあ、絶対的に効果があるわけじゃないんだ。毎日書いているわけでもないし、嫌な予感がする時だけだよ。こういうものを顔に書いていると気合が入るんだ。私の身体に指一本触れさせない、お前たちには負けないぞってね」

 なぜこのような頭のおかしな警備員を放置しておくのか、佐々木は疑問に思った。しかも待機の警備員として据えているのだ。

 もしも警備物件に不審者が侵入したらどうだろう。奇妙な文字を顔面に書きまくった警備員が出動してきたら、賊は驚くだろうし、駆けつけた警官もどちらが不審者かわからないだろう。会社の信用にかかわる事態なのにと、佐々木は少々呆れてしまっていた。

「ああ、それはタイヘンですね。ええっと、それではぼくはお先にあがりますので。どうもお疲れさまでした」

 新米の警備員は逃げにかかった。八島とはなるべく視線を合わさないように下を向いたまま立ち上がった。

「佐々木君、ちょっと待って」

 そう言って止めたのは木戸だった。佐々木は一刻も早くこの部屋から出ていきたかったが、直属の上司ともいえるべき者の命令に抗しきれずに足をとめた。

「八島さんのいっていることは本当なんだ。ふざけているわけじゃない。信じられないだろうけど、事実なんだよ」

「うちの会社が警備しているいくつかの施設にね、まあ全部学校なんだけど、よくないことが頻発するんだ。説明がつかない現象やあり得ないものの目撃が多くてね。以前は当直の警備員をおいていたんだけども、誰もが長くもたずに辞めてしまうし、中にはおかしくなる者もいたんだ」

「よくないことって、どういうことですか」

「霊がね、夜中に騒ぐんだよ」八島が口をはさんだ。

「ぼくも最初は信じられなかったけどね、自分で何度か体験してわかったんだ」

「司令員の木戸さんも巡回していたんですか」

「当時、問題の学校は当直員が一晩泊まり込みで警備していたんだけど、すぐに辞めてしまうので人員が足りなくなってね。急遽やったんだよ」

「それで、そのう、幽霊を見たんですか」

 木戸は否定も肯定もしなかった。

「幽霊かどうかはともかく、警備するのに非常に困難な現象があったんだ」

 事務所内は静まり返っている。ここで爆竹でも爆発したら、佐々木は跳びあがって口から心臓を吐き出すかもしれない。

「いまは機械警備になって、警備員が常駐しなくていいようになって安心していたら、今度はセンサーによく引っ掛かるんだ。発報したら確認に行かなければならないし、そうすると、やっぱり普通の警備員ではだめなんだよ」

 普通の警備員以外とは霊能者のことかと佐々木は考えた。

「八島さんは高野山で修業したり、エクソシストみたいなことをやる人なんですか」

 その問いに、八島は苦笑いしながら答えた。

「私は修行僧でもないし除霊師でもないよ。それほど特殊な能力を持っているわけでもないしね。ただ、そういうものに興味があるし、霊感も強い方だよ」

 木戸からコーヒーカップを受け取ると、八島はしみじみとした口調で話を続けた。

「多くは悲しいもの達なんだよ。同情や憐れみがほしくってね。己の不幸をわかってもらいたくて、その情が現われてしまうんだ。だから一緒になって慮ってやるんだよ。そうすれば案外、おとなしくなるもんさ」

 八島は、警備服のポケットから小瓶を取り出して机の上に置いた。長い間使われているのだろう。汚い瓶の中には、ドロッとした黒い液体が半分ほど入っていた。

「屠殺された赤牛の首の血液と、雄の黒猫の会陰腺からでる分泌液を混ぜて煮詰めたんだ。奴らのなかには邪に落ちたどうにもならないのがいてね、そういうのは邪心の塊だから危ないんだ。この血汁で霊を鎮める文言を書くのは、餓死した婆さんホームレスから教えてもらったんだよ」

「それで実際に効果があるんですか」

「自分が、いまこうして狂いもせずに生きていられるのだから、少しは役にたっているのだろうね。まあ、気休めみたいなもんだ」

 初対面の八島だけなら信じなかったが、あの堅物の司令員が言うのだから、ある程度の事実があるのだろう。

「それでも最近は出なくなりましたね。これも八島さんが頑張ってくれたおかげです」

「いえいえ、皆さんのおかげでもありますよ。もうじき辞めるのに、なんだか後ろ髪引かれる思いもありますわ」

「えっ、辞めるんですか」

 木戸が神妙な顔でうなずいている。八島は話を続けた。

「二人の娘も大学を卒業して、もう仕送りをしなくてよくなったからね。一日も休まず出勤していたから、正直疲れたよ。あとは駐車場の係員でもやって暮らそうと思う。女房も死んでいないし、自分一人だから気楽だよ」

「いい奥さんでしたね」

 気をつかった木戸の言葉に、八島は小さく頷いた。

「それで、後任は誰がやるんですか」

「それが、心当たりを探しているんだけど、なかなかいいのが見つからなくてね」

 そりゃそうだろうと佐々木は思った。幽霊相手の警備など誰が引き受けるものか。やる気のない先輩の言葉でもないが、安月給でこき使われた挙句、しまいに精神科に入院する羽目になるのは願い下げだろう。

「悪霊が相手では、なかなかこないでしょう」

「まあ、そうなんだけど、給料はかなりいいからね。そのおかげで娘も大学にやれたし」

「えっ、ぼくらと違うんですか」

 くわしい事情は木戸が説明した。

「特別手当がでるのさ。うちの会社は入札で学校関係の仕事をとっているのだけど、問題の物件もきちんと警備することが第一の条件でね。妙な噂を嫌がって大手は手をひいているし、ほぼ談合で、しかもおいしい価格で落札しているんだ。市のほうもそれだけの金を出さないと、どこも引き受けてもらえないと承知しているんだ。なにせ、おかしくなってしまう警備員が多くてね。お役所はその手のゴシップを嫌うから」

 木戸はそこで話を止めた。佐々木もその続きをあえて聞こうとはしなかった。だいたい想像できたからだ。かわりに、もっとも興味をそそられることをきいた。

「それで、特別手当ってどのくらいになるんですか」

 その金額を八島の口からきいて、佐々木は驚いた。手取りが彼の五倍以上である。「そんなにもらえるんですか」という言葉が、思わず口から出てしまった。一日、ほんの四、五時間待機しているだけの対価にしては、かなりの報酬だった。

「たかが警備員にそれだけ払っても、会社には利益があるんだよ。公共施設の警備には、それだけのうまみがあるんだ」

 佐々木の頭の中で打算が働きだした。演算機械が高速で動き、どうしても発言せずにはいられなかった。

「それで、まだ代わりの人は決まってないんですよね」

「ああ、そうだけど」

「それ、僕にやらせてもらえませんか」

 佐々木は大学に進学したかったのだが、かなわなかった。実際、市内では一番優秀な高校で進学を強く希望していたが、パート労働者の母一人では、どうしてもお金を用意することができなかった。

 卒業後、しばらくアルバイトをして進学資金を貯めようとしていたが、母親が心臓を悪くして入院したり家で療養したりと、進学はますます難しくなっていた。昼間のアルバイトをやめて夜の仕事に就くのも、収入を安定させるほかに、日中母親を病院に送り迎えするためでもあった。それでも大学に進学する希望は捨ててはいなかった。

 もしその給料を貰えるのなら、それほど期間をかけずに進学資金はたまるだろうし、勉強は昼間の空き時間にすればよいとの皮算用が成りたった。その頃には、母親も元気になっているだろうと勝手な未来を決めつけていた。

「ぜひ、やらせてください」

「それはだめだよ。第一、君が待機にいってしまったら巡回はどうするんだ」木戸は、当然のように拒否した。

「それは募集すればすぐきますよ」

 八島に代わる人材は、すぐにでもほしいのは事実だ。木戸は一瞬考えをめぐらせたが、すぐに首を横に振った。

「これは佐々木君が考えているほど簡単じゃない。そんなヤワな仕事じゃないんだ」

「大丈夫です。死ぬ気でやりますから」

 かなわぬと諦めていた未来に現実が追いつこうとしている。佐々木は食い下がった。

「木戸さん、やらせてみたらどうだい。佐々木君ならできそうな気がするんだ」

 八島は乗り気だった。しっかりしていそうな若者に何かを見出したようだ。

「いや、でも」

「どのみち、しばらくは後任者が見つかりそうもないんだ。所長も主任も賛成してくれるよ」

 木戸はモニター画面を見つめながらしばらく逡巡した後、不機嫌そうにコーヒーを飲みほした。


 佐々木は正式に八島のあとを引き継ぐことになった。

 補充の巡回警備員を募集するのにしばらくかかったため、引き継ぎもそれからとなった。問題となっているのは五つの小中学校と市立高校一校であり、昼間は子供たちがごく普通に授業を受けてにぎわってもいた。たしかに古い校舎もあったが、特に変わっているということでもなかった。

 特殊な物件群はCコースと呼ばれていた。佐々木は木戸に連れられて、昼の間にそれらの学校を見てまわった。各学校の巡回の要領とコツを覚えるためだ。夜にまわらなかったのは、Cコースの物件は通常は巡回しなくてもいいのと、警備員といえども発報などの特別な事情がないかぎり入校を禁じられているからだ。

 今回は、見習い期間はなしだった。すでに警備のコツはわかっているのと、会社が二人分の対価を支払いたくなかったようだ。こうして、佐々木一人の夜が始まることになった。

 実際に待機が始まるのは深夜二十四時からである。

 Cコースの特殊物件は、約束で職員が二十四時まで残ることになっていた。だから待機警備員は日付が変わったら、Cコース物件の鍵とカードキーと、A、Bコースの鍵とカードキーを持って警備車両に乗り込み、おもにCコース内の適当な場所で待機する。A,Bコースは、両コースの巡回警備員が帰ってから発報することはほとんどなかった。

「99から101どうぞ」

「101です、どうぞ」

「これより待機に入ります」

「了解しました。気をつけてお願いします」

 99は特殊コースの専任を意味している。佐々木は車内で気楽にかまえていた。たまに異常があっても、どうせ目に見える問題はないだろうとタカをくくっている。幽霊とかは信じていなかった。もし何かあっても、さっさと巡回をして、機械警備をリセットして一日を終えるだけだ。木戸までもが幽霊などと言っていたが、何かの影が見えただけだろうと考えていた。

 木戸は警備本部で無線機を前にしてうつむいていた。チラリと時計を見る。時刻は午前二時を過ぎていた。A、B二つの巡回コースの警備員は、もう仕事を終えて帰ってしまった。残る警備員は特殊コースで待機している佐々木のみだ。今日は初日なので、八島が事務所にきて何かあったら助言する手はずになっていたのだが、彼はやってこなかった。何度も携帯電話にかけてみるが応答はなかった。

 佐々木は車中で暇を持て余していた。これで給料五倍はおいしいと、あくびをしながら微笑んだりもした。

 一応、八島から牛と猫の特別インキが入った瓶を引き受けていたが、使おうとは考えていない。ポケットに入れたままだった。何も起こるはずはない。三時ころまでのんびりと車中待機し、異常がなければ事務所に戻って朝までコーヒーなどを飲んでいればいいのだ。

 警備本部のモニター画面に表示される文字列の一部が突然赤文字になった。発報信号が入ったのだ。木戸はすかさず詳細を調べる。異常はA、Bコースではない。Cコースの物件からの侵入警報だった。

「101から99どうぞ」

 車中で半分眠りについていた佐々木は、最初自分が呼び出されていることに気づかなかった。99という呼び名に慣れてなかったのと、すっかり油断しきっていたためだ。名前を呼ばれてあわてて無線機のマイクを手にした。

「99です、どうぞ」

「42番発報です。理科室内の外部連絡ドアの侵入警報です。すぐに急行してください」

「りょ、了解しましたあ。ええっと、マジですか」

 ここしばらく発報していなかったのに、よりによって初日に当たるとは、木戸も佐々木もツキがないと感じていた。

「とにかく早く行って。詳しいことは無線では話せない。学校の中に入ったら携帯にかけるから」

「は、はい了解しました」

 侵入信号を発信しているのは、新興住宅地の真ん中にある小学校だ。そこに到着すると、さっそく佐々木は職員玄関に立った。カードキーをかざして機械警備を解除すると中へと入り、真っ暗な廊下を理科室へと向かった。

 巡回時、照明を点けることは禁止されていたので懐中電灯が頼りだ。夜中に学校が煌々としていると、周囲にあらぬ誤解をまねいてしまうためだ。原則として、事件事故があった時にしか認められていない。

 この発報は誤報の可能性が低い。なぜなら反応したのは熱源感知タイプではなく、磁石を使用する古いものだった。それはドアがしっかりと開かないと感知しないからだ。

 案の定、佐々木が理科室に入ると、教室の後ろにある外部連絡ドアが半分ほど開いていた。そこから妙に湿った風が入り込んでいる。

 佐々木はドアを閉めた。その瞬間、何ものかの気配を感じてとっさに振り返った。しかし、誰もいなかった。いないのだが、いるような気がしてならなかった。鼓動が高まり、ひどく敏感な状態になっていた。

 懐中電灯の光が、その根源を見つけ出そうと右往左往する。強いられたような沈黙が暗闇と溶け合い、巡回警備員に過度のストレスをかけていた。そこに突然、携帯電話の着信音が鳴りはじめた。

「もしもし、もしもし」佐々木はすぐに応答した。

「佐々木君、いまどこにいる」木戸だった。

「いま理科室に入ってます。教室の後ろのドアが開いてました。ひょっとしたら誰か入り込んでいるかもしれません」

「足跡か、それらしい形跡はあるかい」

「いえ、それはないですが、どうしても何かがいるような気がするんです」

「ふうん、そうか」 

 木戸は何かを含んでいるような、思わせぶりな言い方だった。

「佐々木君」

「なんですか」

「ちょっと後ろを振り向いてくれないか」

 木戸はあきらかに奇妙なことを言っているのだが、佐々木は疑うこともなかった。そして、「はい」と言って後ろを振り向いた途端に、「ぎゃっ」と悲鳴をあげてその場に転んでしまった。

 彼のすぐ後ろに人がいた。頭に固く貼り付いた髪を七三に分けた、極端に背の低い男が立っていたのだ。

「な、なんだ、おまえは」

 警備員は激しく取り乱しながらも、懐中電灯の光線をその男にぶつけていた。光は若干揺れながら、彼の胴体の秘密を露わにした。

「うっわあああ、あああ」

 悲鳴をあげながら再び転げてしまった。

 男の腹部の皮膚がまくれているのか破れているのかわからないが、とにかくなくなっており内臓が露出しているのだ。しかも、どの臓器もみずみずしく濡れており、心臓などは鼓動しているように見えるのだった。

「佐々木君、佐々木君、きこえるか」 

 携帯電話を通して司令員が呼びかけていた。佐々木は腰がぬけたまま応答した。

「ひ、人がいますっ。腹が破けた子共みたいのが、め、目の前に」

「佐々木君、よく見て。それは人じゃなくて人形なんだ。大丈夫だよ、なんともないよ。ほらよく見て」

 木戸の声を聞いていくぶん落ち着きを取り戻した佐々木は、恐る恐る起き上り、まじまじと見つめた。

 それは、どの学校の理科室にでも置いてあるありふれた人体模型だった。その証拠に、露出した内臓の各部位にはセロテープで名称が貼り付けられている。

「ああ、本当だ、あの人形ですね」

「そうだろう、よくある人体模型だよ。ただね」

「ただ、なんですか」

 佐々木は露わになった内臓に光を当てながら、いつの間にこの人形が自分のすぐ背後に立ったのかとの疑問に達したところだった。

「ただ、そいつは動き回るんだよ」

 木戸がそう言った途端、人体模型の心臓がいきなり脈打ち始め、そして歩きだした。

「うぎゃあ」

 警備員は再びパニックに陥った。教室内の椅子をいくつもなぎ倒しながらなんとか外に出て、暗くて長い廊下をひたすらに走った。

 どこまでも続く直線上を必死に逃げながら、佐々木はあの人体模型がきっと自分を追いかけていると考えた。そうすると背後が気になって仕方がない。左手に握った携帯電話がなにかを言っていたが、それを耳にあてる余裕はなかった。どうしても後ろが気になるので、走りながら振り返った。

 しかし、あの人体模型の姿はなかった。ただ暗く細長い空間が続いているだけだった。佐々木はいったん立ち止まり、自分がいま走ってきた廊下を見つめた。足音や気配はなかった。どうやら逃げ切ることができたと一安心した。そして職員室へ行こうと振り向いた刹那、「ぎゃっ」と呻って動けなくなった。

 あの七三分けの人体模型が、こわばった表情を暗がりに浮かばせながら佐々木の目前に立っていたのだ。

「おい佐々木君、いいかげんにでてくれよ」

 携帯電話のうるさい声は、怯えきった警備員の正気を保つのに役立っていた。

「な、なんですかこれは」

「そいつは基本的に無害だ。気にするな」

 模型自体が動いているのだ。無害といわれて、ああそうですかと納得することは、今の佐々木の精神状態では困難なことだ。

「だって、すぐ目の前にいるんですよ。どうすればいいですか」多少怒り気味ではあるが、基本的にはオロオロ声だった。

「いいか、それは君に危害を加えたりしない。ただ歩き回っているだけなんだよ」

 木戸がそう言うと、人体模型はすたすたと歩きだし、佐々木の脇を何事もなくすり抜けると、どこかへ行ってしまった。プラスチックか木製のはずなのに、足音一つたてないのはさすがだなと、警備員は妙なところに感心していた。

「あいつ、どっかに行ってしまいましたけど」

「ああ、それでいいんだよ」

「あれは幽霊ですか」

「人形だよ。もっとも成仏しそこねた霊が憑依しているらしいけどね」

 木戸の説明によると、この小学校で死んだ児童の霊が長いこと校内をさ迷ったあげく、理科室の人体模型に落ち着いたとのことだった。校長室にある鷹のはく製とか、校庭で飼っている黒ウサギにでもとり憑けばいいものを、よりによってあんなグロテスクな模型に入り込むとは迷惑なことだと、佐々木は心底思った。きっと、生前はイタズラばかりしていた子供だったのだろう。

「男の子らしいんだよ。よほど学校に未練があるみたいなんだ」

「じゃあ、あれが理科室のドアを開けて発報させたってことですか」

「いや、あの人形は外部には出ないし出られないんだ。まあ、いい。とにかく中を見回って他に異常がないか確認してくれ。侵入者がいるかもしれないから気をつけて巡回するように」

 司令員から指示を受け取ると、佐々木はしぶしぶ巡回を始めた。携帯電話はつけっぱなしだった。時々、思い出したかのように木戸から声がかかる。びくびくしながらの巡回であったが、あの内臓が露わになった人体模型は現れなかった。一階部分を見回るのに十数分だったが、新米の警備員には一時間くらいに思えた。

「木戸さん、他はどこも以上なしです」

「そうか、なら機械警備をセットして、早くそこを出て車中待機にもどってくれ」

 木戸の、どことなく急がせているような言い方が佐々木には気になった。

「わかりました。すぐにセットしてもどり」そこまで言ったところで、突然大きな音が響いた。

「い、いま音がしました」

「なに、何の音だ」

「わかりません、上の階からみたいです」

 佐々木は怖気づきながらも、音源を求めて保健室横の階段を上がって二階にやってきた。暗い廊下の片側に、夜の教室が静かに並んでいる。

「いま二階にきてます」

「佐々木君、そこはもういいから早く出なって」

「ええ」と言いつつ、佐々木は足を止めなかった。気になったことは確かめないと気がすまない。生真面目な性格が災いしていた。

 二階の佐々木がいる付近は三年生の教室だった。一組から順に教室の中に懐中電灯の光を入れる。机が整然と並んでいた。三組までは問題なかったが、四組の教室には何かがいる気配がする。

 佐々木は教室に入らないで、前のほうのドアから懐中電灯で中をまさぐっていた。すると、ちょうど真ん中の席であの人体模型を見つけた。それは机に両手をついて、うつむきながら肩を震わせている。

「木戸さん、あの人形が教室の中にいます」

 模型は、警備員の懐中電灯に照らされても、ずっと同じ姿勢のままだ。小さくこもった声がした。表情はよくわからなかったが、佐々木にはそれが泣いているように思えた。

「あれが机に両手をついて泣いています」

「そこはもういいよ。その子にはかまわないで、早く出るんだ」

 司令員の指示に逆らい、警備員はゆっくりと教室の中に入っていった。人体模型がどうして泣いているのか知りたくなったのだ。

 さっきは何もされなかったし、無害であるなら近づいても大丈夫だろうと考えていた。少し気持ちに余裕がでてきたので、もし可能なら話しかけてみようとさえ思っていた。

「わかったかい佐々木君。そこから出るんだ」携帯電話はうるさかったが、さすがに切る度胸はなかった。

 佐々木は模型の傍らに立ち、やさしく話しかけた。

「ぼく、どうしたんだい。具合でも悪いの」

 幽霊に気遣いしている自分を滑稽だと思いながらも、佐々木は語りかけ続けた。

 模型は振り向かなかった。相変わらず肩を震わせながらうつむいている。

「どうして泣いているの」

 なんだか濡れた感触が下のほうでざわめいていた。佐々木は懐中電灯で足元を照らした。床に黒い液体が、こんもりとした溜まりを形成している。ねとねとした汁が模型の腹から滴り落ちていた

 人体模型から、露わになっている臓器の一つがその血溜まりに落ちた。シールには肝臓と記されていた。また一つ落ちた。マメの形をしたそれは腎臓だろう。滴る血の量が多かった。

 模型は相変わらず、机に両手をついたまま肩を震わせている。泣き方に微妙な違和感をおぼえた佐々木は、落ちた臓器を踏まないように注意しながら、うつむいているその顔をそっと覗きこんだ。

 模型は笑っていた。表情をつくることは物理的に不可能にもかかわらず、満面の笑みを浮かべながらヘラヘラ笑っている。泣いているのではなかった。

 強烈な戦慄が背中を突きぬけた。佐々木はくるりと踵を返すと、そのまま教室を出た。何があっても振り向かないと心に誓い、とにかく携帯電話にむかって報告した。

「笑ってます。腹から臓器を落として、血をたれ流しながら笑っています」

「死ぬんだよ」木戸だった。

「えっ」

「死ぬんだよ、その人形がとり付いた机の児童は、近いうちに必ず死んでしまうんだ」

「死ぬって、あいつに呪い殺されるってことですか」

「呪いかどうかは知らんが、その机の主はとにかく死ぬんだ。わけのわからぬ病気になったり、あり得ないような事故に巻き込まれたりね。あの人形は児童が死ぬのがうれしくてたまらないんだ。うれしくてたまらないから腹から血を流して臓器を落としているんだよ」

 動く人体模型はこの世のものでないだけに、その行いは陰険で卑劣である。少しでも同情してしまったことを、佐々木は後悔していた。

「とにかく早くそこを出てくれないか。車に戻って無線をしてくれ。ひとまず携帯は切るから」

 木戸にいわれるまでもなく、すでに佐々木は職員玄関まできていた。ドアを閉めて鍵をかけカードキーをかざして機械警備を作動させた。校舎を振り向くことなく警備車に乗り込むと、無線機に手を伸ばした。

「42番巡回終わりました。異常は、一応ナシです」

 もし常軌を逸した現象に遭遇しても、それを報告書にするわけにはいかなかった。実体のあるもの以外、すべて異常なしと報告するように指示されていた。

 木戸は、やや間をおいてから次の司令を出した。

「ごくろうさま。43番発報です、すぐに急行してください」

「ま、またですか」

 連続発報だった。おもわず声がうわずってしまう。

「そうだ、今度は職員室から発報信号がでている」

 43番は、この町でもっとも古い小学校だ。校舎はいまだ木造で、開校以来ほとんど改築もされていなく、行政にはその意思がまったくなかった。地域を支えていた周辺の住民が減り続けているので、来年には近くの小学校に吸収される予定だった。おもむきのある昔ながらの木造校舎なのだが、もうじき取り壊される運命にあった。

 昼間に木戸と巡回した学校のなかで、佐々木はその小学校をもっとも不吉に感じていた。失業と貧困で周辺が廃れてしまったため、児童の数も少なく一クラス十数人しかいない。廊下ですれ違う子供たちの瞳もどこか伏し目がちで、無邪気さも明るさも感じられなかった。数人の女子児童が階段で殺伐としたゲームをしていた。その横を通り過ぎた際に、小さな声で「死ね」といわれたことを、佐々木は苦々しく思い出していた。

「43番に現着しました。これより巡回を始めます」

「了解。とりあえず中に入ったら携帯にかけるから」

「了解しました」

 無線を終わらせ車から出た佐々木は、あらためて小学校の全景を眺めた。背の低い住宅群の中に、黒い木造校舎が異様な雰囲気をかもし出している。いまにも崩れ落ちて地中に埋没してしまうほど古く朽ち果てていた。

 職員玄関から入ってすぐに職員室があった。床が板張りで、歩くたびにギシギシと音がした。全体にすっぱいような便所臭がする。トイレは水洗だが、積年の臭いが廊下や壁にしみ込んでいる。

 職員室の中は、とくに荒らされた様子はなかった。校長と教頭の机を基点として、各教員の机が整然と並んでいる。たいして広くもないのにガランとした印象を受けるのは、教員の数も少なくなっているからだ。

 携帯電話が鳴っていた。佐々木はすぐに応答した。

「職員室は、とくに問題ないみたいです」

「了解」

「すきま風が入ってティッシュでもゆれて、センサーが反応したんでしょう。なんせボロ校舎だから」

「了解」

「一応、巡回しときますか」

「そうだね」

 木戸の返答があまりにも素っ気ないので、佐々木はなんだか不安になってしまった。あの歩く人体模型の後だ。何がしかの指示があってもよさそうだが、妙に口数が少ない。

「それでは巡回します。携帯は切らないですから」

「了解。あっ、それから地下には行かないように」

 地下には、近寄ってはいけない重大な理由があるということか。だとしたら、それはどうせロクでもないことだと予想される。だから佐々木は、その忠告に素直に従うつもりだった。

 校舎の内壁には、卒業生が寄贈した絵画があちこちに飾られていた。小学生が描いたにしては意外に上手なものばかりだが、どの絵を見ても陰気なものばかりだった。うつむいて作業している鉄工所の工員や魚の腹を掻っ捌く老婆、冬の海岸で朽ち果てた廃船等々。現在のこの地域の寂れ具合を象徴するかのような寒々としたもので、どれもこれもが暗鬱とした色彩に満ちていた。

 それほど大きな小学校でもないのに、巡回には時間がかかっていた。古い校舎のせいなのか、思わぬところに出入口があったり、そうかと思うと行き止まりだったりして、とにかく煩雑な造りだった。昼間は木戸の後ろについて歩いていたので、校舎の構造や巡回の道筋を頭に入れていなかった。効率の悪い巡回になってしまい、佐々木は昼間の怠惰を悔やんだ。

 警備員は二階から階段をゆっくりと下りていた。この小学校は斜面をえぐって無理矢理平地にした土地に建てられている。敷地が狭いので、校舎の一部が傾斜地にめり込んだ変則的な構造をしていた。右側が地上に出ていても、左側の一部がちょうど斜面の中に突っ込んでいる。したがってその部分は地上とはいえず、実際は地下部分となる。佐々木は一階に下りているつもりだったが、その階段は地下に通じていた。

 階段を下りると廊下があった。地下なので両側の壁には当然ながら窓がないが、佐々木はそこを一階部分と思い込んでいる。重苦しい圧迫感を嫌うように、懐中電灯の光が狭い長方形の空間を、あっちこっち執拗に照らしている。

 廊下のどこにも窓どころかドアもなく、教室の気配すらない。佐々木は手探りするように先に進んだ。すると行き止まりの壁に突き当たってしまった。まだ懐中電灯をあててまさぐると、壁には引き戸があって、まだ先に行けることがわかった。それが非常口だと思い、さっそく開けてみた。

 ひどい糞便臭が塊となって押し寄せてきた。その強烈な臭気にむせながらも、懐中電灯で暗闇を探った。左側に小便器が三つ並んでおり、右の奥に大便用とおもわれる個室が一つあった。そこは便所であって、外ではなかった。

 佐々木は、まだ便所として、いつでも使用可能な状態であることを瞬時に理解した。なぜなら、小便をしている者がいたからだ。

 もっとも奥の小便器で用をたしているのは子供だった。年のころは五、六歳だろうか。全裸で丸坊主の男の子が、佐々木に対して横を向いて、うつむいた姿勢で小便をしているのだ。暗いうえに横顔なので子供の表情ははっきりとしない。そこいら中に怪異な雰囲気が充満していた。

 暗い便所で真夜中に小便をしている。それが人間でないと悟ったと同時に、佐々木は自分が今いる場所が地下であると確信した。行ってはいけないとクギを刺された禁忌な場所である。

「木戸さん、木戸さん」そうする必然性があるのかどうかわからないが、ヒソヒソ声で呼びかけていた。

「なんだ、どうした」

「木戸さん、子供がいるよ。裸でションベンしている」

 飛び散る小便の音が途切れず続いている。目の前の子供が用をたし終える前に、なんとかしなければならないと考えていた。

「いまどこにいるんだ。まさか地下に行ってるんじゃないだろうな」

「ええ、すいません。その気はなかったんですけど、どうやら地下みたいです」

「地下のトイレか。階段下って細い廊下の先の」

「そうです。外に出る戸だと思って、一応確認のため開けてみたら便所で、そうしたら男の子が、すっ裸で用をたしています」

「その子供はまだそこにいるのか」

「目の前にいます。どうしたらいいですか」

 子供はまったく動いてはいないが、何かが起こるような気がして佐々木は落ち着かなかった。

「状況はわかった、佐々木君。その子供にはかまわないで、すぐにそこから離れるんだ。地下から出て車に戻ってくれ」

 木戸がそう言った途端に、男の子の頭部が上下に激しく揺れ始めた。頷いているというレベルと通り越して、狂ったような勢いだった。

「木戸さん、木戸さん、子供の様子が変です。なんかすごく首を振ってます」

「いいから、すぐにそこを出るんだ。子供は見なくていいから」

 頭部を激しく振っていた男の子が突然、その動きを止めて佐々木のほうを向いた。

「ひいっ」

 その子供の顔には顔がなかった。無表情というわけでないし、そんな生易しい有り様ではなかった。目も鼻も口も、男の子の顔面は本来の形状を留めていないばかりか、それらがどこにどうなったのか見当もつかなかった。顔の肉がぐちゃぐちゃに抉られ、裂かれ、引き千切られていた。ジューサーの高速回転刃で顔の表層を蹂躙したらそうなるだろうか。とにかくミンチ肉一歩手前の状態で、まるで踏みつけられた熟れトマトだった。

「ぎゃあああ」

 佐々木は逃げた。

 真っ暗闇に悲鳴を響かせながら、無我夢中で地下から脱出した。一階に上がってそのまま外に出ればよかったのに、すさまじい恐怖で思考が混乱していたのか、階段をさらに上階へと突き進んでしまった。三階まで一気に駆け上がり、長い廊下の真ん中あたりで止まった。そして乱れた呼吸を整えることもなく、荒々しい息遣いで携帯電話にむかって訴えた。

「あ、あの、あの、こども、顏がめちゃくちゃで、にく、肉がむけて、その、ひどい」

「佐々木君、とにかく落ち着いて。いまどこにいるんだ、もう外に出たのか」

 佐々木は、木戸にそう言われてはっとした。小学校から離れるはずが、まだ校舎に残っている自分に気がついた。

「い、いや、まだ中にいます。すぐに出ます」そう言って一歩足を踏みだそうとした時、強烈に禍々しい気配を感じとった。五、六メートルほど前方に音楽室の入り口がある。その扉が錆びついた音を響かせながら、ゆっくりと内側に開いた。

 何ものかの登場を予感させた。佐々木は懐中電灯を向けることをしなかった。そこから何が出てくるのか見たくなかったし、できうることなら見ずにすませたいと切実に願っていたからだ。

 窓から外界のほんのわずかな明かりが入ってくるので、廊下はまったくの闇ではなかった。だから、なにやら黒いものが音楽室の入り口から出てきたのはわかったが、それがどういうものであるのか、はっきりとしなかった。とにかく黒くて長いそれは、扉の縁からにゅうっと突き出た後、高さ一メートル付近で止まった。誰が見ても不吉さ以外感じられない光景だった。

 佐々木はなるべく音をたてないようにそっと振り返り、音楽室に背を向けて立ち去ろうとした。好奇心が入り込む余地などまるでない状況だ。すみやかな逃避が正気を保つ唯一の道なのである。

 しかしながら、困難な道筋が予想された。なぜなら階段の踊り場に人影らしきものがあったからだ。暗闇に屹立する低いその影は、どうみても子供だった。だとすると、顔面の肉が著しく損傷したあの小便小僧以外は考えられなかった。

 この危機的状況にいたって、ようやく佐々木は三階廊下の照明を点けることを決心し、スイッチを探して必死に壁をまさぐっていた。

 音楽室の扉から突き出ている妙な黒い物体と顔面崩壊の男の子もよほど堪えたが、どこにいってもつきまとって離れない暗闇が忍耐の限界に達していた。目を射抜かぬばかりの光が天井から煌々と降りそそぐことによってこの窮地が克服され、えもいわれぬ恐怖と戦慄に染まった異様な現実に終止符が打たれるはずだと確信していた。仕事上の些細な約束事など、かまっていられないのだ。

 壁のスイッチはまもなく見つかった。佐々木はその小さく汚れた突起を強く押し込んだ。

 暗かった長い廊下に点々と血の色が灯った。期待に反して、照明はみずぼらしい豆電球が数個あるだけだった。しかもなぜか赤い電球だった。廊下はたいして明るくもならず、かえって不気味さが増しただけだった。

 しかしながらその赤い豆電球は、音楽室の入り口から突き出ている黒くて長い物体の正体を明らかにすることはできた。

 人間の頭だった。

 髪の長い人の頭部が音楽室の扉から突き出している。しかもその頭は、床から一メートルほどの高さで真っ直ぐ下を向いていた。だとするなら、教室の中にある身体は床に平行になっていなければならず、それはうつ伏せに寝た状態のまま空中に浮かんでいることを意味する。

 確かめたいと思ってはいなかったが、佐々木は知らず知らずのうちに懐中電灯を向けていた。赤黒い闇を黄色い輪がぽっかりとくり貫いていた。顔が真下を向いたままなのと、長い髪がブラインドのように垂れているので、顏はまったく見えなかった。その特徴的な頭髪は尋常ならざるほど長くて、床についてもなお余っていた。首の細さと髪の長さから、それが女性であるとわかる。

 いまだかつて経験したことのない恐怖心に苛まれ、佐々木はどうしたらいいのかわからなくなっていた。後ろにさがれば、顔中が破けたあの小便小僧が全裸で待ちうけている。前進すれば、音楽室から頭を突き出した女のすぐそばを通過しなければならない。何事もなければよいのだが、どちらに行っても、とてつもなく悪いことが起きそうな気配を感じられずにはいられなかった。

 警備員は携帯電話で司令員に連絡をとろうとしたが、切れてしまっていた。恐怖のあまり強く握ってしまい、誤って電源切りボタンを押し続けていたのだ。慌ててかけなおそうとするが、指が震えてしまい小さなボタンを押せずにまごついていた。

 何かを打ち据える音がした。あの顔面破壊の男の子が唐突に倒れた。物音一つない静まりかえった校舎の中で、その響きは強烈であり、弱った警備員の精神を恫喝するだけの十分な破壊力があった。

「なんだっ」佐々木は男の子に向かって叫んだ。「なんだってんだよ、ちくしょう」

 よからぬ空気が怯える警備員の首筋をなでた。慌てて振り返ると、音楽室の入り口から突き出ていた女の頭部がゆっくりと動きだした。長い髪で顔を覆ったまま、すすうっと上に動いているのだ。

「ひゃひゃひゃひゃ」と、いやらしい笑い声が背後から聞こえた。

 佐々木は再び振り返った。赤い灯りにどっぷりと浸かっていたあの男の子が、うつ伏せに倒れ込んだまま這い進んでいた。芋虫のように、その身体を上下に伸び縮みさせながら、ゆっくりと近づいてくる。その姿は下劣を通りこして、全身に虫唾を走らせずにはいられないほど忌まわしいものだった。

 上がっていた女の頭部が突如降下し、床にへばり付いた。そして再び上昇し、また下降した。首が何度も上下を繰り返している。ぞろりと垂れた長い髪の毛も一緒だった。

 のっそりと床を這っていた男の子に勢いがついていた。両腕を大仰に振り回して、まるでバタフライ泳ぎをしているようだった。笑い声は甲高くなったり、くぐごもった声になったりして、笑っているのか泣いているのか判別がつかない。男の子が近づいてくるにつれて、音楽室の首も上下が早くなっていた。子供の動きに共鳴しているようだった。

 佐々木は身動きできないでいた。懐中電灯をどちらに向けてよいのかわからず、丸く黄色い光点がそこいら中を動き回る。長い頭髪頭が上下し、顏の肉が破壊された全裸の子供が、足をもがれたバッタのように這い進んできている。混乱した精神が携帯電話の操作を妨害していた。焦れば焦るほど、タップする指先が跳ねまくっていた。

 その携帯電話がいきなり吠えだした。佐々木より先に相手からかかってきたのだ。

「佐々木君、携帯を切るな。もう学校を出たのか」聞きなれた声に、佐々木は涙が出そうになった。

「い、いえ、まだ中にいます」

「どうした、トラブルか。便所の子供がなにかしたか」佐々木のうろたえ声に、木戸は異変を察知した。

「子供もそうだけど、ドアが開いて首が出てきて、髪の長い、たぶん女の人だと」そこまで言ったところで、佐々木は言葉を切ってしまった。

 その首が音楽室から出てきたのだ。胴体も一緒だった。しかも女は裸だった。ひどく痩せていたが、胸のあたりがわずかに垂れ下がっている。

 女はうつむいたまま一歩二歩と廊下に出てきた。佐々木に対して正面ではなく横向きなので、全容はハッキリとしない。顔も薄気味悪い長髪に隠されていて表情をつかめなかった。

 佐々木はその女に気をとられて、背後で蠢いている子供のことを忘れていた。思い出したのは、彼の前を這いずり進む男の子の顔と一瞬目が合ったからだ。もっとも、その顔面の肉は滅茶苦茶になっていたので目など確認できないのだが、たしかに見つめられたような気がしたのだ。

「うわあ、ああ、うああ」

 子供はただ通り過ぎているだけなのだが、警備員は廊下の壁に背中をくっ付けて喚いた。

「近寄るなっ、行け、このう」

「なんだ、どうしたんだ佐々木君。おい、聞こえるか」司令員も喚いていた。

 佐々木は左手に持った電子機器をめざとく前に突き出して、さらに叫んだ。

「くるな、ぶっ殺すぞ」

 佐々木の恫喝が効いた様子はなかったが、男の子は何もせずただ目の前を通りすぎた。

 音楽室から出てきた女が膝を落として、その場に正座した。簾のように垂れた長い髪が床に落ちて、黒くとぐろを巻いていた。身体全体が横向きなので顔はいまだ隠されたままだ。佐々木には右側しか見えていなかった。

 笑いとも呻きともいえぬ男の子の声が微妙に変化していた。あの甲高くて耳障りな響きが柔和になり、こもった声も切なげに聞こえた。それが、佐々木には子供が親に甘えるときに発せられる声に思えて、はっとした。

 だとすると、あの正座している髪の長い女は、この全裸男の子の母親なのか。母を想う強烈な本能が子供をつき動かしているのだろう、と佐々木は考えた。

 その証拠に、男の子が近づくと、女は右手をゆらりと差し出し手招きし始めた。よほどうれしいのか、子供は破裂した顔面からきゃっきゃとした笑い声をしきりに発していた。その嬉々とした様子は、当の本人が通常の存在でないだけに、たとえようもない不気味さを醸し出していた。母子の対面としては、場所も時刻も、そして唯一の付添人も間違っていた。

 男の子の動きが急に早くなったかと思うと、いきなり女の懐にとび込んだ。母は息子を優しく抱きかかえた。母子愛を感じるまことに感動的な場面なのだが、どう贔屓目に見ても、彼らはこの世のものではない。警備員に油断は許されないのだ。

 男の子の頭部が長い黒髪の中に沈んでいた。母の胸元に顔をうずめて甘えているのだろう。よせばいいのに、佐々木は廊下に佇む母子像を正面から確認しようとしていた。好奇心からではなかった。非日常的な光景に精神が痛めつけられた結果、逆説的な心理状態となり、もっともしてはいけない行動へとつき動かされてしまったようだ。

 警備員は廊下の壁に背をくっ付けながら、そろりそろりと近づいていった。全裸の女が全裸の子供を抱きかかえている。ぴちゃぴちゃと、悪い方に想像力をかき立てる邪まな音がしていた。佐々木は斜め上から恐る恐る覗き込んだ。

 女の左側には奥行きがなかった。そこから空間がなくなっていて、廊下がどん詰まりという意味ではない。女の左半身が見えないのだ。目の錯覚かと思った佐々木は、もう一歩足を踏み込んで女の左側にまわった。そして、その理由をすぐに理解した。

 女の左上半身はえぐり取られていたのだ。なにか鋭利な刃物で切断されたというよりも、極めて凶暴な猛獣に乱暴に食いちぎられたと表現したほうが、より現状に合っているだろう。

 腕は跡形もなく、肩は骨も関節も肉ごとなかった。左の鎖骨あたりから下腹部までの表皮が著しく損傷していた。肉がそぎ落とされたあばら部分は肋骨が何本も折れて、その破片が肉を突き破りあらぬ個所からとび出していた。下腹は腸がはみ出していて、とぐろを巻きながら垂れ下がっている。出血がひどく、佐々木が見ている間に大量の液体が噴き出していた。左側は悲惨の塊だった。

 もっともおぞましかったのは、あの男の子がその露出した傷口に顔面を貼りつけていることだ。乳をすっているのではなかった。女の傷口から流れ出る血をすすっていたのだ。

「佐々木君、その学校から出るんだ」木戸が静かに言った。

 佐々木はすでに歩き出していた。小学校を出て、車に戻る頃には涙が出ていた。恐怖よりも、あの母子が哀れに思えてならなかった。あんな凄惨な姿になってもまだ現世にしがみ付いている理由を知りたいと思った。

「俺は直接見たことはないけど、八島さんから詳しい背景を教えてもらったよ。まあ、あんまりにもひどいんで、君には話さないでいたんだ」

 湿った車の中で、警備員は携帯電話の向こうから送られてくる言葉を真剣に聞いていた。

 木戸の話によると、小学校が建てられる以前、そこには大きな木材工場があった。あの戦争以前のことだ。戦争末期、市は空襲され。米軍の艦上機が工場などを爆撃した。爆弾やロケット弾が炸裂し、逃げまどう人間には容赦なく機銃があびせられた。木材工場は武器弾薬類を製造していたわけではないが、ただ目立つというだけで標的になった。

 あの女は、息子と共にそこに住み込みで働いていた賄い婦だった。爆撃は工場だけではなく、併設していた宿舎にも襲いかかった。そこに爆弾が落ちた。爆風で母親は上半身の左側がえぐられ、子供は顔がズタズタに裂けてしまった。

 瓦礫のなかにできた狭い空間で、母子はもだえ苦しんでいた。子供は水をほしがった。激烈な痛みと出血で、とにかく渇ききっていたのだ。

 大怪我で虫の息だった母親は、朦朧とした意識を奮い起こして息子の願いをかなえてやろうとした。しかし埃だらけのすき間には、水どころではなく息を吸う空気にも事欠いていた。

 女は、えぐられたわが身から出る液体を子供にあてがうことにした。それが血だと思ってはいなく、濡れた感触だけをたよりに、とにかく飲ませようとした。そして男の子は、自分の裂けた顔から出る血と母親のえぐり傷から滴る血を、おいしそうに飲みながら絶命したとのことだった。

「ほんとうの話しかどうかわからんけどね。八島さんが言うのだから、きっと近い出来事があったんだろうよ」

 酷い話だが、そんな惨劇でもないと、あのような姿で夜な夜な人情を演じないだろう。己と愛する息子の死が受け入れられず、暗い時をさ迷い続けているのだ。

 佐々木は、なぜ八島がそんなことを知っているのか疑問に思った。たぶん、あの長い髪の母親から直に聞いたのだろうと、なんとなく考えた。なにせ顔中にあの世の言葉が書かれた男だ。グロテスクな親子をどうにか慰めて事情を聴きだすくらいはやってのけそうだ。

「木戸さん、もう戻っていいですか。今日は、ちょっと、そのう、いろいろありすぎて、すみませんけど、事務所で待機させてください」

 佐々木は、彼にはめずらしく弱音を吐いた。じっさい、かなり参っていた。

「大変なのはわかるけど、もうちょっとだけがんばってくれ。じつは今、発報信号がきてるんだ」

「マジですか」

「そうだ」

「まさか、またCコースですか」

 少しばかりの間があった。佐々木は携帯電話を見つめていた。すると突然、無線機から司令がやってきた。

「47番発報です。すぐに行ってください」

「は、はい、了解しました」マイクをとると、佐々木は反射的に返答した。

 47番はCコースの物件だった。携帯電話で話をしていたものを、いきなり無線機に代えるとは木戸の意地悪かと思われたが、すぐに正式な司令は無線機でなされることを警備員は思い出した。

「発報は保健室からです。十分注意して巡回してください」

 47番は中学校だ。校舎はよほど古くて、海を見下ろす狭小な丘の上にポツンと建てられていた。土地が狭いために、その丘には中学校の校舎とそのグランドしかない。海からの強い潮風が始終吹き上がっているので、校庭には樹木の類が育たず、見た感じは殺風景で、うら寂しい場所だ。

 警備車は五分ほどでその中学校に現着した。丘は真っ暗であり、中学校の黒い輪郭が、かすかに見える程度だった。

 この中学校は、昼間の巡回ではとくに佐々木の印象に残るものはなかった。校舎はたしかに古く半分が木造だが、要所要所が建て増ししてあり、学校らしく機能的で無機質な造りだ。

 廊下には不安を増幅させるような不気味な絵はなく、不吉な行き止まりもない。中学校なだけに多少大人びた雰囲気があって、面白味はないが実用的であった。ただ、海を見下ろす丘の先端部に校舎だけがあるので、景観はすばらしいのだが寂しい感じがした。夜中ともなれば、潮風と闇があるだけの、ただの侘しい岬となる。

 職員玄関の機械警備機器にカードキーをかざしたあと校舎に入り、佐々木は保健室を目指した。本当は今すぐにでも仕事を放り投げて家に帰りたい心境だったが、木戸に迷惑をかけることになるので、なんとか我慢することにした。

 今度は廊下の照明をいちいち点けていた。あの血みどろの母子に出会って、警備規則なんてどうでもよくなっていた。真っ暗な校舎の中で、照明の光は痛さをおぼえるほど眩しいが、おかげで恐怖心はよほど抑えられていた。孤独な警備員にとって、天からの灯は偉大なる僥倖なのだ。

 保健室のドアの前で、佐々木は携帯電話で木戸に連絡をとろうとしていた。この発報について、無線先の司令員はたいした情報を与えてくれなかったからだ。

 しかし、携帯電話の表示は圏外になっていた。市内なのに電波の受信ができないとは解せないことだった。佐々木は携帯電話を上に下にと動かしてなんとか電波を掴もうとするが、木戸の声を聞くことはなかった。どこか繋がるポイントがないかとその辺を見回し、そして何気なく振り返った。

 すると、そこに人が立っていた。年のころは五十くらいの小太りで頭の禿げた男が、息がかかるほどの至近距離にいたのだ。

「うぎゃあああ」

 佐々木は肝をつぶして勢いよく後ずさりし、保健室の戸にぶつかった。引き戸の下のほうがレールから外れ、背中にドアそのものが圧し掛かっていた。

「わっ、わわあ」

 見知らぬ小太りの男も、警備員の勢いと、ぶつかった衝撃に驚いて悲鳴をあげた。

「ちょ、ちょっと、びっくりさせないでくださいよ。心臓が止まるかと思いましたよ」小太りの男は甲高い声だった。

「うちの学校と契約している警備員さんでしょう」

「あんた、誰だ」佐々木はいくぶん、強硬的な態度だった。

「ここの教頭ですよ。吉井といいます」

「教頭先生って、ここでなにしてるんですか」

 昼間、木戸と巡回したときにこの中学校の教頭とは会っていなかった。通常は真っ先に挨拶するのだが、先方がたまたま外出していたのだ。

「自宅がほら、すぐ近くでね、犬を散歩させていたら学校に電気が点いていて警備会社の車もあるし、これはなにかあったと思って来たんですよ」

「こんな夜中に犬の散歩ですか」

「なに言ってるのですか、警備員さん。もう朝になりますよ」

 そういわれて佐々木は腕時計を見た。なるほど時刻は真夜中を過ぎて早暁に近づいていた。たしかに気の早い年寄りなどには一日が始まる時だが、陽はいまだ昇ってなく、まだまだ闇が深い。真夜中の感覚がずっと続いていた。

「それで、なにか異常がありましたか」

 男二人は、すでに保健室の中に入っていた。廊下と同じように照明を点けたので、室内は明るくて一目瞭然だった。教頭はどこか不快そうな表情をしていた。

「とくにこれといってないですね。センサーの誤報みたいです」

「そうですか、それはひとまず安心ですね。私は念のため、校内をちょっと見回ってきます」教頭はそそくさと出ていった。

 佐々木は悪いと思いつつ、保健室の電話で司令本部と連絡をとることにした。番号を押すと、すぐに木戸がでた。

「携帯が使えないのか。おかしいな」

 携帯電話がなぜ使用できないのかを話し合っても仕方ないので、佐々木は簡単に現状を報告した。

「保健室は異常なしです。おそらく誤報だと思います」

「そうか。熱源センサーがカーテンの揺れでも感知したんだろう。今回はなにもないと思うけど、一応校内を巡回してくれないか」

「ええ、でも教頭先生がもうやってますよ」

「教頭?」

「ええ、犬の散歩をしてたら、警備の車を見つけたんで心配になったみたいです。小太りで甲高い声の先生です」

「ああ、あの教頭か」

「知ってるんですか」

「ああ、めずらしいくらい真面目な人でね。訓練のときなんかも、あれこれしつこいくらい質問してくるんだ。仕事熱心なのはけっこうなんだけど、ちょっと迷惑なんだよなあ」

 木戸が知っている人物がいるので、佐々木は安心した。これでようやく警備員らしい仕事ができると、ほっとしていた。

 通話を終えた佐々木は保健室を出た。懐中電灯の光をたよりに、いつものように巡回を始めてあることに気がついた。

「あれえ、そういえば廊下の電気点けてたんだけど」と一人つぶやいた。

おそらくあの教頭が消してまわっているのだろうと推測できた。規則を破ってしまったので、あとで会ったら注意を受けるかもしれない。照明を点けないで巡回することにした。

 巡回は順調にすすみ、何ら異常なく終わった。歩く人体模型や血だらけの母子のような、奇怪な存在が現われるわけでもなく、やはり単なる誤報のようだ。

 職員玄関のすぐ横が用務員室で、そのドアの横に一台の公衆電話が設置されていた。最近の学校では撤去されているようだが、ここのはまだ健在だった。佐々木はそれを使って司令本部に連絡をいれた。

「巡回終了です。やはり異常はありませんでした」

「ごくろうさま。ところで教頭先生は帰ったかい」

 佐々木は巡回している最中に教頭を見つけることができなかった。お互いに行き違いになっていたのだろうと思っていた。

「それが、どこかに行っちゃっていないんですよ。帰ったのかもしれないけど、ひょっとしたらまだ校内にいて、バカ真面目に巡回しているかもしれません」

 そこまで話したところで、廊下に甲高い声が響いた。警備員さん警備員さんと、佐々木に呼びかけていた。

 廊下のずっと先に人影のようなものがあった。暗くてはっきりとしないが、それがあの教頭だとわかった佐々木は、苦笑いしながら話を続けた。

「ああ、いました。あの禿げオヤジ、廊下の向こうで呼んでますわ」

 廊下の向こうでは教頭らしい人影が、脳天から突き抜けるような甲高い声で何度も何度も呼んでいた。最初は笑っていた佐々木も、しつこいくらい「警備員さん」を連呼するので嫌になっていた。

「木戸さん、一度電話を切ります。教頭がうるさいんでいってきます」

「ちょっと待って、佐々木君」

 刺すような直線的で硬い言い方だった。不安をおぼえた佐々木は、おきかけた受話器をすぐ耳に戻した。

「な、なんでしょう」

「いま、オヤジって言ったか、禿げオヤジって」

「ええ、そうですけど」

「教頭は男なのか」

「そうです」

「・・・」

 木戸の沈黙が、佐々木をさらに不安にさせた。電話の向こうで、木戸がどういう言葉を吐き出そうか逡巡している姿が想像できた。

「そこの教頭先生は女性だ。太っていて声が高くて生真面目な女性なんだ。男では絶対にない」

「で、でも、じゃあ、あの人は」佐々木は廊下の先を凝視した。

「教頭をかたった泥棒なのかもしれない。ちなみに、そいつは自分の名を言ってたか」

 記憶力がいいほうではないのだが、佐々木にはとっかかりがあった。

「たしか吉井だったと思います。俺の高校のときの担任と同じ名前でした」

「吉井教頭か」

 木戸が重たい溜め息を吐き出している。よくないことを告げようとするときの癖だ。佐々木は苦い味のする唾を飲みこんだ。

「いいか、よく聞いてくれ。吉井という男はたしかにそこの教頭だったんだ。だが今はいない。もういないんだ」

「転勤されたんですか」

「それどころじゃないよ」

「どういうことですか」

「吉井教頭はかなり前に死んでいる。もう十年近く前だ。その中学校のすぐ裏手が崖になっているんだけど、真夜中にそこから飛び降りたらしい。崖の前には防護フェンスがあるから、わざわざ乗り越えていったんだ。自殺だってことだけども」

 では今この瞬間に、廊下の向こうで警備員さん警備員さんと叫んでいる男は誰なのか。その人影がどのような存在であれ、十中八九吉井本人であると佐々木は確信していた。

「佐々木君、その男は前の教頭をかたった泥棒かもしれない。もしそうじゃなければ・・・」

 木戸はその先を言いにくそうだったが、佐々木はもう気づいていた。

「いや、たぶん吉井教頭ですよ。だって」と言ったところで通話が突然切れてしまった。ツーツーという音もなく、ただただ真っ黒な空虚が耳にまとわりついていた。

 廊下の向こうにいる影がどんどん近づいている。佐々木は照明を点けようと壁をまさぐるが、スイッチが見当たらない。少し先にあるのがわかったので歩こうとしたが、足元に何かが動いているのに気がついて、そこを照らしてみた。

 懐中電灯の光が床にぶつかると、下で蠢いているものがはっきりとした。それははハッキリと見えるのだが、いったい何なのか佐々木にはわからなかった。たくさんの毛が生えた雑巾みたいな塊が、わなわなと震えていた。

 警備員さん、という甲高い呼び声が崩れていた。脳天をつき抜けるような高音が急降下し、低くしゃがれた響きにかわっていた。

 佐々木は足元で蠢く得体の知れないモノから目を離し、暗い廊下を徐々にやってくる人影に注目した。吉井教頭を名乗る影は歩いているわけではなかった。両手両足を大の字にひらいたまま身動きもせず、少しばかり空中に浮きながらゆっくりと近づいてくる。

 なにかが吠えていた。佐々木の足元に蠢いているモノから聞こえてくる。犬の鳴き声に似ていた。

 警備員は、それをつま先でそっとひっくり返した。濡れた感触と堅いものが、運動靴の合成繊維を通して伝わった。懐中電灯の光が直射すると、雑巾の破け目から赤肉が見えた。柔らかくてぶよぶよした部分は内臓がはみ出している。また肉を突き通した血塗られた骨が、むちゃくちゃに突き出していた。その塊は、瀕死の重傷を負った動物だった。

 犬の散歩をしていただけなのだと、吉井教頭は言った。彼は警備員のすぐ目の前まできていた。小太りの身体が空中に浮かび、手足を大の字にひろげたまま静止している。

 朝になろうとしていた夜中に、犬の散歩をしていたら襲われたと吉井教頭は言った。暴力を振るったのは、中学校の在校生たちだ。手のつけられない不良たちで、警察に捕まって鑑別所に入れられた者もいた。校舎の隅に集まってタバコを吸い、酒を呑んでいた。男子だけではなく、女子も混じっていた。

 家に帰るように注意したと、吉井教頭は言った。生徒たちは反抗的だった。有機溶剤を吸引していた男子が、からかうようにまとわりつき、そのうち誰かが、放置されていた角材の破片で顔を殴った。信じられないほどの血が噴き出した、と吉井教頭は言った。なるほど、佐々木の前にいる小太りの男の下唇が斜めに裂けて、大量の血液が流れ落ちていた。

 倒れ込んで呻いているところに女子生徒がやってきて、左手を強引に引っぱって堅い地面につけた。茶髪のデブがヘラヘラ笑いながら、大きくて角ばった石を勢いよく投げ落とした。

 千切れた手首が警備員の顔をかすめた。新鮮な生臭さが鼻をついた。幼い大人たちが興奮し、闇の中でただ無軌道に笑っていた。主人に忠実な雑種の小型犬が、大きな生徒の足首に猛然と咬みついた。だが、忠犬は傍にいた別の生徒に力のかぎり蹴り飛ばされ、校舎の外壁に叩きつけられた。それから大きな生徒に何度も何度も執拗に踏みつけられたあと、用務員が片づけ忘れた剣先スコップで突かれたのだった。

 あれは本来臆病な性格で人を咬んだりしないのだと、血が噴き出している左手で、吉井教頭は小刻みに震えている床のモノを示した。いとしそうに見つめる主人を意識してか、毛と肉と骨がごちゃごちゃになった雑巾は、くうーんくうーんと甘えた鳴き声を発していた。

 情けを乞うても乞うても、絶対に聞き入れてもらえないだろうとの絶望感は、凄惨なリンチをされたものしかわからないと言った。

 恐怖と痛みで身体が縮みあがり、地獄の時間が永遠に続くように感じる。そう語る吉井教頭の顔面は赤黒く腫れあがり、目などはもはや開いていなかった。よく見ると、右耳から顎にかけての皮膚がえぐられて、二重顎が左右非対称になっている。

 先の尖ったあのスコップが痛いんだと言って、耳のついた皮を、水ぶくれした小さな右手で差し出した。佐々木がそれを受けとらないので、教頭はビラビラしたそれを投げた。廊下の床に落ちたのは、耳付き皮と手首だった。あらためて右手を見ると、手首から先がなくなっていた。きれいに切断されているのは、石ではなく剣先スコップの威力なのだろう。

 教え子たちは、おもしろおかしく奇声を発しながら、吉井教頭を引きずりまわした。あの小型犬も、キャーキャーと騒ぐ女子生徒がスコップの上にすくって持ち歩いていた。土と草と血にまみれながら、吉井教頭と犬は崖まで連れてこられた。当時の防護フェンスは安く粗末な造りで、ところどころ錆びて穴が開いていた。境界線を越えるのは造作もないことで、不良たちもそのことをよく理解していた。

 崖はほぼ垂直で、かなりの高さがあった。はるか下には石炭運搬列車用の線路があり、そしてその先がすぐ海だ。線路に波がかからないように、波消しブロックが敷き詰められていた。

 吉井教頭は半死半生のまま蹴り落とされた。転げ落ちていく間に岩やコンクリートの出っ張りに身体をぶつけ、ぐちゃぐちゃになりながら線路を通りこして波消しブロックの間に挟まった。波にあらわれカモメにつつかれ、遺体が発見されたのは夏も終わりの頃だ。あまりにも損傷が激しくて、殺された証拠を見つけることはできなかった。飛び降り自殺だろうと、うやむやになってしまった。

 吉井教頭はひどい臭いだった。佐々木は腹の中のものを猛烈に吐き出したくなった。すぐさま中学校の外に出て暗闇の中を走り、ぶちまける場所を探した。しばらくさ迷った末に、ようやく風の当たる涼しい場所までやってきた。さっそく前かがみになり我慢していたものを吐き出そうとして我にかえった。

 佐々木は海を見ていた。波消しブロックにあたる波が、かすかに響く真っ黒な海だ。崖の際にいたのだ。あと一歩足を踏み出すと、そのまま奈落の底へまっしぐらだ。後ろを振り返ると、頑丈な防護フェンスが聳えていた。二メートル以上の高さがあるそれを、どうやって越えたのか記憶はなかった。佐々木は、崖下の線路に汽車が走る前に戻ることにした。その黒いモノに乗ってしまうと二度と戻ってこられないと、吉井教頭が言っていたからだ。

 司令本部では、木戸が連絡を待っていた。携帯電話は圏外で繋がらず、無線にも反応がない。中学校の職員室に電話してみるが、応答する気配はなかった。

 それにしても今日はまるで化け物の見本市だなと、司令員は不吉なものを感じていた。こんなことは初めてだった。いつもは静かなもので、たまに現れたとしても、ちらっと姿を見せるとすぐに消えてしまう。得体の知れないものが出てくるのは、せいぜい月に一、二回だと、八島がよくいっていた。今日のように時間をおかず、連続して出現することはなかった。何らかの邪悪な意図を感じざるをえない。八島はどこにいるのか。このような異常事態には、どうしてもベテランが必要なのだ。

「99から101どうぞ」佐々木からの無線だった。

「101です、どうぞ」

「巡回終了しました」

 短い報告だった。木戸はそれ以上の説明を期待したが、佐々木は何も付け足さなかった。

「大丈夫なのか、あの教頭はどうした」

「吉井教頭は帰られました。それより次の発報現場に向かいます」

「なに言ってるんだ、発報なんてどこも」

 木戸がそう言ったまさにその時、モニター画面に突然発報信号が表示された。

「ああ、いま入ったよ。49番、地下の備品室だ。なぜわかったんだ」

「そういう気がしただけです。49番に向かいます」

「了解、気をつけてお願いします」

 佐々木の様子がおかしいのを、木戸は感じていた。どうしてしまったのだろう。あの世のもの達にたぶらかされて、精神に変調をきたしたのかもしれない。あの死んだ教頭はどうなったのか。偽者なのか本人だったのか非常に気になっていたが、それを問い詰めようとはしなかった。

 彼は今、極限の精神状態にあると予想される。余計なことを言って不安にさせたくなかった。なんとしても無事に帰ってもらいたいと、木戸は強く願っていた。

 司令員にはもう一つ心配事があった。いまだ八島と連絡がとれないことだ。佐々木にアドバイスするために必ず来ると言っていたのに、いっこうに出社してくる気配がない。責任感は人一倍強い男なので、サボっているとは考えられない。事故でなければと願いつつ電話をかけ続けた。


 警備車がゆっくりと49番の敷地に入った。そこは市内で唯一の市立の高校だ。他は公立か私立ということになる。新しくも古くもなく、たいした特徴もない平凡な高校である。

 どうして発報しているのかわかったのか、佐々木は説明できなかった。あえていうなら、第六感のようなものだった。亡霊たちにつきまとわれて、普段は意識することのないある種の感覚が敏感になっているようだ。

 職員玄関から校内に入ったさい、佐々木はかすかながら人の気配があることに気がついた。絶対的な確信があるわけではないが、誰かがつい先ほどまでいたような気がする。すぐに携帯電話で木戸と連絡をとった。

「いたずら目的で生徒が侵入しているのかもしれない。とにかく、はじめに地下の備品室を確認してくれ」木戸の指示だった。

 企業でもないのに備品室とは奇妙だと思いながら、佐々木は発報先へと急いだ。途中、携帯電話の通話が切れてしまったので、かけ直そうと思ったら、あちらからかかってきた。

「どこの地下に行こうとしているんだ」

 どこかイラついているような司令員の言い方に、佐々木はまごつきながら答えた。

「どこって、生徒玄関横の階段です。カギのかかったドアを開けたら地下に通じますよね」

「違う、そこじゃない」

「えっ、じゃあ、どこですか」

 この高校の地下室へはそのルートしかないと記憶していた。

「第二体育館の準備室に行って。左隅の床に跳ね上げ式の蓋があるんだ。開けたらハシゴがあるから降りていってくれればいいよ」

「はい・・・、了解」

 そんなところは昼間の巡回時に教えられていなかった。だが不平を言っても仕方がないので、佐々木は歩きだした。

 第二体育館に行くまでには長い渡り廊下がある。その狭苦しい空間を歩きながら、佐々木は今度こそ本当の人間がいるかもしれないと考えていた。賊の可能性があるし、だとしたら危害を加えられるかもしれない。木戸の言う通り、素行の悪い生徒が面白半分で侵入している可能性がある。あの中学校の教頭みたいになるのはご免だ。佐々木は警備員ではあるが、腕力に自信があるわけではなかった。そのことを携帯電話で話すが、司令員は、いいから早く行ってくれを繰り返すばかりでつれない態度だった。

 第二体育館は本館よりも規模が小さい。半分の広さもないだろう。しかし狭いながらもちゃんとしたステージがあり、ちょっとした演劇ならできそうだ。

 木戸のいう準備室が見当たらなかった。どこにもそれらしいドアがないのだ。佐々木が尋ねると、ステージの左にあるということだった。

 佐々木がステージに上がり左の壁をまさぐると、なるほどドアがあった。やけに小さくて、中腰にならないとくぐれない大きさだった。そこから中に入ると、窓のない六畳ほどの部屋があった。あまりにも暗いので懐中電灯で照明のスイッチを探すが、その突起が見当たらない。もたもたしていると、木戸が早く行くようにとしきりに催促する。

 佐々木は照明を諦めた。木戸の指示に従って床を探っていたら蓋を見つけた。台所の床下収納スペースにある小さな蓋に似ていた。さっそくそれを開けて地下の空間を覗きこんだ。ハシゴがあるのはなんとなく分かるが、あとは真っ暗で何も見えない。懐中電灯で照らすと、下には準備室の半分くらいの空間があり、さらに奥のほうに扉らしきものがあった。佐々木は、入る前にもっと確かめておきたいと思ったが、懐中電灯の出力が弱くなっていることが気になっていた。電池切れが迫っている。

 脚立のようなハシゴをつたって降りていった。天井はそれほど低くなく、余裕をもって立っていられた。少しばかり辺りの様子をうかがってから扉の前に立った。古めかしい金属製のドアノブをつかんで押し込むが、まったく開く様子がなかった。

「カギをあけろ」と木戸に指示されるが、どうすればよいのかわからなかった。

「ドアの右上にカギがかかっているから」

 その重厚な扉の右上を照らすと、壁にコルクの薄い板が貼りつけてあり、表面に規則正しくたくさんのクギが打たれていた。その一つ一つにカギが掛けられている。

「カギはあるんですけど、たくさんあって、どれだかわかりません」

「先端が丸まって、赤茶けたやつだ」

 縦横七列、合計四十九個あるカギはすべてが似通った形状だ。弱った懐中電灯では、細かな色まで見分けるのは困難だった。

「みんな丸まって、赤っぽいですけど」

 佐々木は携帯電話を肩にのせて、頬で押さえながら左手に懐中電灯、右手でカギを探していた。指が一番上の左から二番目を触った。

「それらしいのがあります。番号があって、イの二って彫ってあるのをつまんでますけど」

「それは違う。先端をよく見て」

 たしかに木戸の言う通り、そのカギは赤茶けてはいるが先端はそれほど丸くなかった。

 次に佐々木は、そのすぐ下にあるカギに触れた。色は赤茶けたというより黒く汚れていたが、先端はかなりの摩耗具合だった。

「ロの二番はどうですか」

「それも違う」

「それでは、ええっと、これかな」

 三列目の左から五番目のカギに触った。それは形状が他のものと違って一回り大きかった。

「それは、ほかのと違って大きいだろう」

「そうですねえ」

 佐々木は探し当てられずに困っていた。どれもが同じようで、しかも探しているうちに光が弱っている。

「これなんか、そうじゃないですか」同じ三列目の一番右端のカギをとって、それを扉の鍵穴に差し込もうとした。

「違う、違う、それじゃないんだ」

 木戸があからさまに否定するので、佐々木はすぐにカギを元の場所に戻した。そしてどれをつかんでよいのかわからず、右手は右往左往していた。

「そこじゃない、もう少し下だよ」との指示に従って、佐々木の指はいっきに六段目まで下がった。

「下がりすぎだ。もうちょっと上の左側だよ」

 指は五段目まで戻り、その段の中央のカギを触った。

「いいぞ、いいぞ。そのすぐ上だ」

 佐々木は四段目の中央のカギを手にとると、懐中電灯でよく照らしてみた。それは赤黒く錆びついていて、先端部分は研磨したかのようにきれいな丸みがあった。

「よし、それだよ。じゃあ、すぐにドアを開けて中に入ってくれ」

「了解」

 カギをやっと探り当てた佐々木は、いくぶんほっとしながらそれを鍵穴に突っ込み、ドアノブをひねった。よく冷えた感触のあとにカチリとした衝撃が伝わってきた。扉は、なんらの力を加えることなく向こうに押し出されていった。

「えっ」

 その刹那、警備員は重大な事実に気がついた。それがあまりにも衝撃的だったので、身体の芯まで凍りついてしまう。

「な、なんでわかったんですか」

 肩においていた携帯電話を右手に持ちなおし、佐々木は背を丸めて詰問した。

「カギを探していた俺の手の動きが、なんでわかったんだ。だって、木戸さんには見えるわけないんだから」佐々木は、携帯電話のカメラ機能を使ってはいなかった。

 木戸の返答はなく、その電子機器の向こうは静まりかえっていた。佐々木の声がどこまでも落ち込んでいきそうな、深くて情け容赦のない緘口だった。その沈黙がたまらなく不快で、佐々木は叫ぶように言った。

「あっちだこっちだって、どうやってわかる。そんなのわかるわけねえよ。見えないんだから。それなのに、な、なんなんだ」

 何ものかの吐息が聞こえたような気がした。生温かくて生臭い感触が若者の背中を撫でた。その底なしの不浄さに戦慄をおぼえた佐々木は携帯電話を切り、ドアノブから手を離した。


 司令本部の木戸もひどく混乱していた。佐々木との会話が途中から成り立たなくなっていたからだ。

向こうの声は聞こえるのだが、木戸の声がとどいていない。それどころか、佐々木は司令本部と電話をつないでおいで、誰か他の者と話をしているようなのだ。木戸が必死になって呼びかけても応じることなく、見知らぬ誰かと淡々と会話しているかと思うと、突然怒ったように喚きだして、そして繋がりを切断したのだった。


 重く錆びついた扉が音もなく押し出されていった。内側から濃い青色の灯りが照りつけて、若い肉体を縛りつけた。見えない糸で巻き取られるように、佐々木はゆっくりと入っていった。

 その部屋は青色が充満していた。まるで青色のセロハンを通して見ているかのように濃密だ。十畳ほどの部屋に窓はなかった。あるものといえば、どこから照らしているのか見当もつかない濃厚な青色と、何かを仕舞いこんでいるのだろうか、部屋のちょうど真ん中に大きな長方形の箱が、シーソーのような器具の上に置かれていた。

 佐々木は、その箱が棺だと気がついた。なぜシーソーのような台の上に棺があるのかわからなかったが、それが忌まわしいことの象徴だと直感した。ここにいては危険だと、魂が警告を発している。すぐに部屋から出ていこうとするが、それはできなかった。あの錆びついた扉がなくなっていたからだ。

 佐々木は四方の壁をしきりにまさぐるが、外に出る手段を見出すことができなかった。すぐ後ろには不吉な箱が存在し、これから起こるだろう災厄を暗示している。一刻も早く出なければならない。

 青い部屋に金属がきしむ音が響いた。脱出が間に合わなかったと悟った佐々木は、嫌々ながら振り返った。

 棺のすぐそばに人がいた。ひどく腰のまがった皺だらけの老婆だ。継ぎ接ぎだらけの着物をきて、ちりぢりに干からびた頭髪を振り乱し、全身を駆使してあのシーソーのような台を棺ごと揺さぶっていた。

「なにしてるんだ」

 佐々木の問いに老婆は返事をしないで、ひたすら揺すっていた。棺が重いのか、その華奢な身体を大仰に振りつつ、シーソーを上下させていた。

「ババア、なにしてるかってきいてるんだよ」

 老婆は台を水平にした。途端に棺の裏側から、濃い色の液体が台を伝ってどっと流れ落ちていきた。シーソーのすぐ下の床には排水口のような丸い穴が開いていて、液体が濃い色の渦を巻いて吸い込まれてゆく。部屋の中すべてが青くても、そのねっとりと排出されるものが何なのか、佐々木にはわかっていた。

「やっこくしてるだ」と老婆は言った。群青に翳った横顔から不吉な笑みが漏れていた。

「やっこくって、なんだ」

「このなかにおる奴をな、こうやって振ってな、やっこく砕いてるべや」

 老婆はうれしそうだった。表情は満足に満ちて、無数に走る皺の一つ一つに喜びが溢れていた。

 佐々木はすぐに言葉が出てこなかった。何度も唾を呑みこんでから、しぼりだすように言った。

「いったい、なにを砕いてるんだ」

 老婆は答えず、笑みを浮かべながらまた揺らし始めた。

「ババア、くそう、なにしてやがる」佐々木は怒鳴った。

 棺は再び水平になった。途端に大量の濃い液体が音をたてて床に落ちていた。今度はひき肉みたいな粒々や、毛のようなものが混じっていた。

 棺には小窓があった。老婆がその蓋をあけると、いやらしく手招きして若い警備員を呼んだ。佐々木はその誘惑に抗いきれずに棺の中を覗きこんだ。

 顔があった。猿ぐつわされた男の顔だ。両目はまん丸に開き、汗と鼻水と涙で汚れている。それは八島だった。

「長いこと邪魔ばかりしくさったがな。あの血汁も塗らんで、よう来たわ」

 佐々木は悟った。

 今日の発報はすべて八島がやったことだ。血の魔除け文言を施さず、Cコースの各学校に侵入して化け物たちを喚起してまわっていたのだ。なぜそんなことをしたのか。初めて待機につく佐々木の露払いをしていたのか。いや、そうではなかった。

「愚か者が、わしらをこき使ってな、こいつの女房を生き返らそうとしたんだ」

 八島は、異界の能力を借りて死んだ妻を生き返らせようと企んだのだ。

 なんと大それたことだ。第一、そんなことをして妻を呼び戻しても、死者である事実は変わらない。あの人体模型や血だらけの母子、腐りきった教頭みたいに、暗闇を徘徊するだけの魔物となるだけではないか。それとも常人には考えられない方法で生き返らせる方法があるのか。八島は常日頃からあの世のもの達と接触していたから、それらの力を利用してやり遂げる術を知っていたのかもしれない。その可能性はあるなと佐々木は考えていた。

「だから、細こうなるんだべ」

 八島の目論見がどういうものであるか詳細はわからないが、どうやら失敗したようであり、その代償は悲惨だった。老婆は八島が横たわる棺をまた上下に振りはじめた。苦痛に満ちた呻き声が響き、木箱がガタガタと震えている。ドロドロした血が、とびきり不快な音をたてながら流れ落ちていた。

「ずっとずっとな、こうして細こうするんだ」

 八島は死ぬことなく、永遠にこの青い部屋で削られる宿命なのだ。老婆の嬉々とした表情が、そういっていた。

「いくんだろう、おまえも」

 老婆の言葉が佐々木の中にしっかりと響いた。長い間腹の底に閉じ込めていたドス黒いものが、徐々に這い上がっていた。

「な、なんのことだ」

「会いにいくんだろう、あそこに」

「あそこって、なに言ってやがるんだ」

「おまえが巡らなきゃいかんところだべや」

 司令本部では、木戸が警備主任を呼び出そうとしていた。佐々木からの連絡が途絶えてしばらく経っていた。重大な事態になった可能性がある。主任を臨時の司令員にして、木戸本人が問題の高校に行こうというのだ。佐々木の心が壊れてしまう前に、早く連れ戻さなければならない。

 熟睡しているのか、主任は電話にでなかった。苛立ちながら木戸が待っていると、突然、無線がしゃべりだした。

「99より101どうぞ」佐々からだった。

「こちら101、どうした、なにがあった、大丈夫なのか」

「49番、巡回終了しました。八島さんは死ねません」

「なにっ、誰が死ねないって」

「これより昭和台小学校に向かいます」

「なんだって。言っていることがわからん。とにかく本部に戻ってこい、今すぐにだ」

 しばらく応答がなかった。木戸は何度も何度も呼びかけたが無駄だった。あきらめて大きなため息を吐きだそうとした時、ようやくその声はやってきた。

「昭和台小学校に現着しました。巡回します」

「なんだおい、わけわからんこというな。いいか、よく聞け、もう巡回は終わりだ。発報はない。もどってくるんだ」

 再び待ったが、佐々木から返事はない。木戸は懇願するような口調になった。

「それに昭和台小学校はもうない。廃校になってからしばらく経つ。いまは無人のボロ校舎だけなのを知っているだろう。そんなところを巡回してどうするんだ。早く戻ってこいよ」

 やはり返事はなかった。携帯電話で連絡を試みるが、応答はなかった。こうなってしまっては無駄なことだと木戸は諦めた。冷えたコーヒーをすべて飲み込み、そして頭を抱えこんだ。



 遠く地平線の暗黒に薄朱色の靄がかかり始めた。夜が終わる予感が漂ってきた。

 昭和台小学校は廃墟だった。周辺地域が廃れてしまい、住民の数が減ってしまったために廃校になってしまった。もう十年ちかくになる。取り壊されずに残っているのは、たんに費用の問題だった。管理がずさんなため傷みがひどく、有効利用されることもなく朽ち果てるままだった。奇妙な噂がはびこり、暇をもてあました若者や宿無しがたむろする場所になっていた。

 児童玄関と職員玄関はコンパネ板で閉鎖されてはいたが、誰かに壊されて大穴があいていた。佐々木はここをよく知っていた。ふらふらと廊下を歩いて理科室までやってきた。中に入って机や椅子などに触った。実験器具のたぐいはなかったが、薬品の匂いが在りし日の記憶をまさぐっていた。薄日があるので、懐中電灯の灯りはもう必要ではなかった。音楽室では、灰色の防音壁にあいた無数の小さな穴を懐かしい気持ちで見ていた。上手く唄えなかったあの頃、その穴ばかり見つめていた。

 そう、昭和台は佐々木が六年間通っていた小学校だ。普段、彼はここに近づかないようにしていた。いや、どんなことがあってもこの場所には来ないと心に強く言い聞かせていた。十年近く前の、ちょうど今のような薄明かりの時に決心したのだ。

 体育館へ向かう通路の連絡ドアから外に出た佐々木は、校舎の壁に沿ってゆっくりと歩いていた。

 六年生のあの時、ひそかに想いをよせていた女子をたまたま見つけ、あとをつけた。彼女は屋外の焼却炉に、紙類などのゴミを捨てに行った。薄暗くなった晩秋の夕暮だった。

 その日はもう、ほとんどの児童が家に帰っていた。佐々木とその女の子が、どうしてそんなに遅くまで居残っていたのか思い出せなかった。たぶん、何らかの係をしていたのだろう。

 焼却炉で紙ゴミ類を燃やす作業は、用務員の仕事だった。児童はただそこにゴミを持っていくだけだ。毒性の廃棄物が問題となって、今では学校でゴミを焼却することはほとんどなくなったが、当時はまだ燃やしている学校もあった。

 その用務員はたまらなく不潔で表情がなく、たまに怒声を発する以外はほぼ無口な男だった。だれからも好かれることはなく、特に女子からは毛嫌いされ、いつも後ろから悪口を投げつけられていた。

 あの女の子を追いかけて、佐々木は焼却炉にやってきた。そして彼女と二人きりになった。

 そうだ、これはあの時の焼却炉だ。頑丈なコンクリートの筐体は、年月を経てもその形状をしっかりと保っていた。 

 とにかく彼女が好きだった。たまらなく好きで、彼女のすべてを知りたくて、触れてみたくて狂おうしい日々だった。その想いは日ごとにつのり、いつでも容易に発火するほどの熱さを持っていた。わずか十二歳の少年にしては、異常なほどの情動だった。

 彼女に何をしたのか、佐々木はすべてを憶えているわけではない。ただ断片的な映像が、なんともいえぬ苦しげな感情と共にわき上がってきた。

 女の子に触れたのだった。初めは髪の毛や腕などだが、熱く火照った幼い感情は、それ以上の行為に走った。小さなふくらみに触れてしまったのだ。彼女は大声をあげて拒絶し、彼を激しく責めたてた。その過剰な反応に少年は驚き、そしてどうしようもなく焦った。耐え難い後悔と、まだ芽生えてもいない社会性という種子が、罪悪感を消し去ろうと突如として発芽した。

 鷲づかみにした細い頭髪の感触を、若い警備員はまだ憶えていた。小さく華奢なその身体を無我夢中で振り回した。息が切れて我にかえり、気づくと女の子が頭から血を出して倒れていた。焼却炉のコンクリート筐体に頭部を叩きつけられたのだった。出血はひどく、見る間に血溜まりが広がっていた。すでに虫の息だった。

 あの嫌われ者の用務員がやってきて、倒れている女の子の傍らに立った。どこかで様子を見ていたようだ。呆然と立ちすくむ少年に何事かささやいた後、意識がなく横たわっている女の子を引きずると、焼却炉の中に放り込んで、すぐに鉄蓋を閉めた。そして少年と向かい合って、何度も何度も頷いていた。誰もが忌み嫌う用務員だったが、少年は例外だった。ゴミを持ってきた際に、気さくに話をする唯一の友人なのだ。

 少年は逃げ帰った。その途中に振り返ると、あの用務員が焼却炉の中に大量の枯れ木を足し入れていた。煙突から白い煙があがっていた。勢いを増した炎で、枯れ木がパチパチとはぜる音が聞こえたような気がした。あの女の子は帰宅途中に行方不明になったとされた。焼却炉はそのあと閉鎖された。彼女はいまだに発見されていない。

 どこかで鳥が甲高い金切り声をあげている。焼却炉の鉄蓋は閉じられていた。煙突から黒くて生臭い煙が、もうもうと立ち昇っていた。携帯電話がうるさく鳴っている。血溜まりをゆっくりと踏みつけた若い警備員は、熱く真っ赤に猛った鉄蓋をそうっと開けようとしていた。

                                  おわり

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巡回 北見崇史 @dvdloto

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