辻が花

増田朋美

辻が花

その日も雨が降って、正しく梅雨の全盛期と言えるほど雨が降っている日であった。そんな中だから、体を壊してしまったわけではないのに、体の不調を訴える人もいる。そういうのを不定愁訴というのだそうだが、そのあたり、人によっては重大なものになってしまうこともあり、非常に難しい問題でもある。

その日も、製鉄所では、マネさんこと、白石萌子さんが来訪していたが、なんだか通信教育を受け始めたようであるけれど、なかなか身が入らないようであった。なんだか、自分が何をしたいのか、わからなくなってしまったと彼女は言った。それではいけないのだけど、何もやれそうなことが見つからない。彼女はよくそう漏らしていたのであった。杉ちゃんなんかは、体さえ健康であれば、何でもやっていけるなんて、昔からある言葉を言っているのであったが、それもなかなか通用しないのが、今の時代なのかもしれない。

マネさんが、通信教育のテキストを開いて、身が入らない勉強をしていると、玄関の引き戸がガラッと開いた。

「こんにちは、竹村です。クリスタルボウルセッションに参りました。」

誰だと思ったら、クリスタルボウルヒーラーの竹村優紀さんだった。そういえば、予約入ってましたね、と水穂さんが布団から起きて、布団の上に座った。

「ああ竹村さん、いつもありがとうございます。今日もよろしくおねがいします。」

杉ちゃんたちは、竹村さんを出迎えた。竹村さんは、よろしくおねがいしますと言って、

「駒子さん!」

と、外へ向かって言った。すると、はあいと言って、一人の女性が、クリスタルボウルを持って、やってきた。クリスタルボウルというのは、持ってみると、とても重いのである。駒子さんと言われた女性は、それを軽々とヒョイと持ち上げて、

「竹村先生、これ、どこに置きましょう?」

と、玄関まで歩いてきた。クリスタルボウルを持ち上げられるだけでも、かなりの力持ちと言えそうな女性だった。

「ええ、とりあえず、こちらの建物の、中に入って、ピアノのある部屋の前にある、縁側に運んでください。」

竹村さんが言うと、彼女は

「わかりました!」

とにこやかに言って、靴を脱ぎ、お邪魔しますと言って、製鉄所の中に入った。そして、クリスタルボウルを持ったまま、ちゃんと竹村さんの言う通りに、クリスタルボウルを、縁側に置いた。これを七回繰り返したのであるが、彼女は、何も苦痛でもなさそうである。彼女は、外見はよく太っていて、決して美人という感じではなかったが、確かに体型通り、とても力持ちだと言うことがわかった。

「はじめまして。私、瀧井駒子です。先月から、竹村先生の元でお手伝いをさせてもらうことになりました。まだ女中さんとしては半人前ですけど、よろしくおねがいします。」

そうにこやかに笑って、自己紹介する彼女は、その容姿に合わず明るい感じの女性だった。

「瀧井駒子さんね。僕は影山杉三で、あだ名は杉ちゃんって呼んでね。こっちは、親友の磯野水穂さんね。この人は、ここを利用している、マネさん、えーと本名は、」

と、杉ちゃんが、そう言うと、マネさんは急いで、

「白石萌子です。」

と言った。

「よろしくおねがいします。私は、竹村先生の女中として、現在、働かせて頂いております。」

駒子さんは、にこやかに言った。なんでそんなに、にこやかにすることができるのか、という感じのにこやかな顔だった。なんか、そんなににこやかな顔をして、体の調子など悪くないのだろうかと、羨ましくなってしまうほど、彼女は、にこやかな顔をしていた。

「どうしたんですか?竹村先生が、女中さんを雇ったのでしょうか?」

水穂さんがそう言うと、

「ええ。ちょうど、女中さんがほしいとツイッターで募集をかけたところ、彼女が応募してくれたんです。それで、家で働いて頂いているんですが、結構、よく働いてくださって、力持ちの女性ですよ。」

と、竹村さんはにこやかに説明した。

「じゃあ、クリスタルボウルのセッションを始めましょう。座ってくれても、寝転がってくれても構いませんから、好きな姿勢で、45分間聞いていてください。行きますよ。」

竹村さんはマレットをとった。そして、クリスタルボウルの縁を叩き始めた。それは、ゴーン、ガーン、ギーンと、お寺の梵鐘によくにた音で、なんとも言えない美しい音であった。この音を20分間聞くと、8時間眠ったのと同じくらいリラックスできるのだそうだ。それを求めて、クリスタルボウルセッションを受けたいと言う人が多いという。それだけではなく、心が安定し、緊張をとるという意味でも、効果があるのだそうで、その目的でセッションを受ける人もいるそうだ。水穂さんがクリスタルボウルのセッションを受けているのも、緊張を取るためであった。ゴーン、ガーン、ギーン、クリスタルボウルの音が鳴り響いた。皆黙ってその音を聞いた。とても素敵な音だった。

「はい、セッション終了です。穏やかな気もちになっていただけましたでしょうか?」

と、竹村さんが聞くと、

「ええ、とても素敵でした。なんか雲に乗っているみたいでしたよ。お空の雲にのって、ふわふわふわと、放浪しているみたいでした。ありがとうございます。」

杉ちゃんが、みんなを代表してそういった。皆同じ感想を持っているのだろうか。しばらく何も言わなかった。

「じゃあ、僕、カレーを持ってきます。みんなで、カレーを食べていってください。」

杉ちゃんにそう言われて竹村さんは、ごちそうになりますといった。じゃあ、ちょっと盛りつけするまで待ってて、と杉ちゃんが食堂に行くと、駒子さんが手伝いましょうかといったが、竹村さんにそれは大丈夫ですよと言われて、そこまでにしておいた。

「大丈夫です。いくら車椅子の人であっても、カレーを持ってきてくれることはできますから。」

竹村さんは、クリスタルボウルを拭きながら、そういった。

「そうなんですね。私みたいな馬鹿な人だと、どうしても手を出したくなってしまうんですけど、それは、あまり良くないことなのかな?」

「ええ、すぐに手が出ることは、あなたの一番の長所だと思いますが、それは別のところで発揮してください。」

こんなやり取りができて、駒子さんと竹村さんは幸せなんだなと、マネさんは思った。

「楽しそうですね。なんか雇い主と、家政婦さんという関係じゃないみたい。友達みたいですね。」

と、マネさんは思わず言ってしまう。

「そんな事ありませんよ。ただ私は、竹村先生の手伝い人です。それ以外何もありません。」

明るい顔をしていう駒子さん。

「どうして、竹村先生の元で、働こうと思ったんですか?」

マネさんは駒子さんに聞いてみた。

「いやあ、あたしなんて、力持ちしか取り柄がないでしょ。だから、こういう仕事しかできないと思ったんですよ。だって、あたしは、高校までしか行ってないし、あまり知識もないですよ。それに、高校は出たけど、ずっと、スポーツに打ち込みすぎて、何も勉強してきませんでしたから、全く頭はよくありません。」

「そうですか。スポーツと言うと、何をやっていたんですか?体が大きいから、柔道でもされていたのかな?」

水穂さんが、そうきくと

「いやいやそんな上品なスポーツではありません。ずっと女子相撲をやっていたんです。この体格でなんとなく相撲取りっぽいなと思ってくれると思います。」

駒子さんは、にこやかに答えた。

「そうなんですね。いわゆる新相撲と呼ばれる競技ですね。番付はどちらで?」

水穂さんがそうきくと、

「ええ、それが横綱でも大関でも三役でもありません。ただの前頭で終わってしまいました。」

駒子さんはまた答えた。

「一度は、横綱目指して、頑張ってたんですけどね。その前に、大怪我をして、結局、相撲を辞めるしかなくて。横綱になりたいっていう希望は捨ててしまいましたよ。あたしが憧れていた力士はね、こう見えても、琴欧洲よ。あの人が、テレビに出ていなかったら、あたし、相撲なんか始めていませんでしたよ。相撲をやめても、部屋持ち親方とか、そういうのにはなれなくて。それで結局、力持ちであることを活かすなら、工事現場で働くという手もあったけど、そう言うのはちょっと苦手だから、じゃあ、こういう仕事をしてみようかなって思ったんです。」

「そうなんですか。随分つまらない仕事のように見えるでしょう?相撲なんてスポーツやっていたあなたには。」

竹村さんが照れ笑いを浮かべてそう言うと、

「とんでもありません!先生といろんな患者さんを回るけど、なんかいろんな人生があるんだなって、勉強になりますよ。だから、私、竹村先生のもとで働けて嬉しいです。」

と、駒子さんは、明るく言った。

「そうですか。でも、患者さんと言わないで、クライエントさんといって下さい。患者さんという表現は好ましくありません。」

竹村さんが注意すると、

「はい、すみません。失礼いたしました。」

駒子さんは広い額を叩いた。

「おーい、カレーができたよ!みんなで食べようぜ!」

食堂から杉ちゃんの声が聞こえてきたので、全員立ち上がって食堂に言った。このとき、水穂さんは、駒子さんに支えてもらった。マネさんからみて駒子さんは、なんだか相撲取りというけれど、どこか繊細なところがあるような、そんな女性ではないかと思われた。あの琴欧洲もそうだったと思う。テレビのインタビューなどで見たことあったけど、そういうところがあったと思う。

全員食堂に入ると、テーブルの上にカレーのお皿が乗っていた。以前、マネさんは、気持ち悪いと思っていたカレーの匂いも、いい匂いと感じられるようになってきている。カレーのにおいはいい匂い。それが感じられるのは、心に何も難がなくて、幸せなことだと思われた。

「じゃあ、竹村さんのもとに、新しい家政婦さんが来てくれたことを祝して乾杯!」

杉ちゃんが、お茶の湯呑をぐぐっとあげて、中身を一気に飲み干した。みんなも、いただきますと言ってカレーを食べ始める。

「いやあ、うまいですね。こんな美味しいカレー、久しぶりに食べましたよ。私もともと、大食らいですからね。変な食べ方して何やってるんだって、笑われたこともあるけれど、カレーはね、美味しく頬張って食べるのが一番だと思うんですよ。」

駒子さんは、カレーをガツガツと食べた。

「そうですか。でもさ、格闘家ということだから許されるのかもしれないが、もうちょっとカレーを穏やかに食べたらどうかなあ?」

と、杉ちゃんにいわれて駒子さんは、

「そうねえ。」

小さい声で言った。

「そうだと思いますね。僕も、そう思います。女性は、男性の生き方を真似しないほうがいいといいますけれど、そのようなライオンのような食べ方はしない方がいいと思いますよ。」

水穂さんにも言われて、駒子さんは、ちょっと、考え直したようだ。

「そうかあ。やっぱり、男性は、格闘技に夢中になる女性よりも、女性らしい女性のほうが好きか。」

「そうですね。いくら女相撲に出ていたと言っても、女性は、男性とは違いますからね。なんでも男女平等とはいいますけど、それはどうかなと思うときだって無いわけじゃないですよ。」

「なるほど、、、。」

水穂さんがそう言うと、駒子さんは、小さな声でなにか考え始めた。

「でも、こんなに太ってしまったし、きれいな洋服も入らないで、大きいサイズの服でも、可愛くない服ばっかり買って。スカートなんか履いたって、あたしが履いても似合うものじゃないわ。あたしは、相撲に打ち込みすぎて、女性らしさなんて、どこかに忘れてきちゃったみたい。」

「まあそうですね。でも、着物は、ちょっと太った人のほうが、貫禄があっていいと思いますけどね。水穂さんの様な人は、端正な顔しているからいいけれど、体格的に言ったら全く着物は似合いませんよ。」

駒子さんは太っている女性らしく、自分の悩みを言うが、竹村さんのアドバイスもあまり、効果的では無いかなと思われた。

「でも、着物なんて、あっても高価なものだから、めったに着られませんよ。そりゃ、着物を着ている人はちょっと太っていても着られるんだなってことはわかりますけど、、、。」

「なら、着てみたらどうだ?」

と、杉ちゃんがすぐいった。

「着物の女中さんなんて、昔は腐るほどいたんだから、今いたっていいさ。それなら、着物を着て、おしゃれをすればいい。大丈夫、リサイクルの着物屋であれば、500円とか、1000円で着物が買えるからね。それに、本物の相撲取りは、皆着物を着ているし。」

「ええ?そんなやすさで買えるんですか?とても信じられませんよ。着物って、何でも手業で、大量生産ができないから、それで、値段も高くなってしまうでしょ。私の持っているお金ではとても買えませんよ。」

駒子さんはびっくりした顔でそう言うと、

「まあ、行ってみればそのあまりの安さにびっくりするぜ。もう不要品になりつつあるからさ、着物はすごく安いんだよね。もう可哀想なくらい。だから救出してきたっていう表現がピッタリ。どうだ、今日の任務が終了したら、ちょっとよってみろよ。増田呉服店というリサイクル着物屋に。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうですか。でも私に着こなせるかな?」

駒子さんはまだ困った顔をしているが、

「じゃあ、今からカレーを食べたあと、私と一緒に行ってみますか?店のカールおじさんも、すごく気さくで色々説明してくれるから、囲み商法されるとか、そういうことはまったくないわよ。」

とマネさんが言った。

「いいですね。今日は、午後から暇を差し上げますから、ぜひ、萌子さんと一緒に行ってきてください。僕も、彼女の服装には困っていたんです。いつも、ジャージばかり着て、他に着るものが無いかって思ってましたから。」

竹村さんがそういうところから判断すると、駒子さんは、服装というものに、大変むとんちゃくであることがよくわかった。それなら、すぐいったほうがいいという意見で、満場一致し、マネさんの車で、カレーを食べたあと、増田呉服店に行くことになった。

「ばら公園のすぐ近くなのよ。そんなに遠くの店ではないわ。」

マネさんは、車を運転しながら、助手席に座っている駒子さんに言った。確かに、数分車を運転させれば増田呉服店にたどり着くのであった。店は

いわゆる呉服屋と思われるような、立派な店構えではなく、小さな気軽に来られるブティックという感じの店である。

「こんにちは。」

と、マネさんが、店の入口のドアを開けると、店のドアに設置されていたコシチャイムがカランコロンとなった。

「はい、いらっしゃいませ。」

カールさんは、売りだなに膨大に置かれている着物を整理しながら、二人に言った。

「なにかご入用ですか?着物ですか?帯ですか?」

「ええ、彼女が、着物を初めて着たいと言うそうですが、その夢を叶えてあげたいんです。」

マネさんがそう言うと、

「ああ、わかりました。じゃあ、初めて着られる方は訪問着がいいですよ。」

と、カールさんは、売り台から訪問着をいくつか出してくれた。

「着物は、洋服のようにSMLと大きさが決まっているものではありませんからね。体の大きさにあわせてある程度、着方を変えることができますから。多少、体の大きな方でも、問題なく着られます。」

カールさんが出してくれた訪問着は、白いのとピンクのと紫のものとあった。どれも、彼女、瀧井駒子さんには、似合いそうなものだ。

「あの、こんな立派な着物、おいくら位するのでしょうか?」

と、駒子さんは恐る恐る聞くと、

「どれも、1000円で大丈夫です。」

と、カールさんは、さらりといった。

「本当にいいんですか?」

駒子さんが聞くと、

「はい。」

と、カールさんは言った。

「あとは、あなたの感性でどれが良いのか、選んでいただければと思います。昔は柄の意味とか、しっかり把握しないとだめとか言われていましたが、今は、それもあまりうるさく言う人はいませんので、ご自身の感性で、個性的に着こなしてもいいと思います。」

「じゃあ、この紫の訪問着にしようかな。私はもう若くないし、可愛らしいものは似合わないと思いますから。これをお願いします。」

駒子さんは、紫色の訪問着を指さした。

「わかりました。これは、辻が花ですね。久保田一竹という人が、絞りを応用して発明した技法です。訪問着は、帯次第でフォーマルにもカジュアルにもなれますので、初心者の人にもおすすめですよ。よろしければ、寸法を確かめるために、着用してみますか?」

駒子さんはハイと言った。そこでカールさんは、鏡を用意して、手早く、駒子さんに訪問着を着せてくれた。辻が花の技法で、ゆりを大きく入れた可愛らしい感じの訪問着であった。

「なんだか羽織っただけなのに、自分では無いような気がします。」

そう言って驚いている駒子さんに、マネさんは、この帯はどうですか?と一本の袋帯を売り台から出して、駒子さんに見せた。赤い大きな桜柄の袋帯。いかにも女性らしくて可愛らしい感じの組み合わせだ。

「ああいいですね。紫と赤は相性がいいですよ。あとは、帯あげと帯締めですが、これらのものはアクセントにしてもいいと思うんですよね。だから、青とか緑とかどうかな?」

カールさんは、青い総絞りの帯揚げと、緑の丸組の帯締めを出してきてくれた。

「あの、その全部を揃えると一体いくらに?」

駒子さんがそう言うと、

「着物が1000円、帯も1000円、帯締め500円、帯揚げは300円ですので、2800円です。」

と、カールさんが、答える。

「本当にそれでいいんですか?」

駒子さんがまた言うと、

「構いません。むしろ安いほうがタンスのこやしにはなりにくいでしょうしね。」

カールさんはそういった。駒子さんはこれでやっと結論が出たらしく、

「じゃあ、この四点私、頂いていきます!」

と、着物を脱いで、カールさんに渡し、急いで2800円を支払った。カールさんは、わかりましたと着物を畳んで領収書を書いた。

「ありがとうございます。私がまさかこんな女性らしい着物を、着ることができるなんて、思ってもいませんでした。それに私自身が、女性らしくなりたいなんて、考えてみても実現できないと思っていました。それが簡単にこうしてできてしまうとは。嬉しいですね。」

畳んでもらった着物を嬉しそうに眺めている駒子さんを見て、マネさんは、嬉しいなと思ったのであった。


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辻が花 増田朋美 @masubuchi4996

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