第5話

「わたしを呼んだ?」

「好きでしょう、これ。アンデルセン。それで、あなたの質問だけど、うん、そう」筧恵美ははにかんで文庫本を閉じた。「呼んだの。呼ぶと言っても、直接呼んだというか、声を飛ばしてみたんだけど」

「声を飛ばすって?」

 わたしは人の心の声を聞きとることができて、と筧恵美は言った。

「わたしは人の心の声を聞きとることができて、ようするに、聞きとれる限り、その人とは“流体”で繋がっているの。繋がっているということは、一方的な矢印ではないということで、わたしは人に心の声を――もちろんそれが、実的な声とは限らないけれど――を送ることもできるというわけ。はじめまして。どうぞよろしく。私は筧恵美よ。あなたは?」

「わたしは日下奈津。知っているでしょう?」

「ううん、そうじゃなくて――」筧恵美は目を細めた。「あなた……普通の人間ではないでしょう。少なくとも、普通の人間では」

 なんのこと、とスキューバは言いそうになった。実際、な、というところまで声は出ていた。多分この子のところに行くだろうな、とスキューバは思った。今日自分は、この子のところに行くだろう。スキューバは非常に申し訳なく思った。スキューバは言いよどみ、ここに現れたことさえ後悔をしていた。筧恵美は少し不本意そうな顔で“触ってもいい?”と訊いた。スキューバがなにも言わないでいると、筧恵美はスキューバの手を取った。スキューバのウィッグの下で角がうずいた。筧恵美は親指でスキューバの手の甲をこすり、なにごとかを呟いた。スキューバは体温に驚いていた。内に潜む、魂の輝きを予感して、背中に冷や汗をかいていた。「夢魔? 夢の中に入るの?」スキューバはぐいと腕を引っ張って筧恵美から逃れた。その手を守るように、体の後ろに隠す。「私の弟と同じだわ。弟も夢のなかに入るの」

「スキューバなの?」

「それはわからないけれど……」筧恵美はそう言った。そして、目の前の少女がいったいなにを怖がっているのか“流体”を通して感じ取った。スキューバにもそれがわかった。いったいどこまで読んだのか? とスキューバは不安になった。夢魔、というところがわかっているだけならば、まだいい。夢魔という生物がどんなものか、というところまで知られるのはとても嫌だ。

「あ、ごめんね、いきなりやってしまったから。私もさすがに読まれるとほんとうに嫌だなっていうところまでは読まないから。ただ、私は弟以外にこういう、人智を超える、というの? そういうことができる人を知らなかったから、つい、うれしくて」

 スキューバは戸惑った。筧恵美を信用していいか、まったく信用していいとは言えないと思う反面、信用したいという気持ちに振り回されていた。

「あのね、あなたは“流体”を感じることができるだろうから、わかるでしょう。今わたしはあなたの心を覗いていない。でもあなたのことはわかるよ。ずっと一人だったんでしょう。わたしは弟がいたから大丈夫だったけれど、弟がいなかったらとよく考える。あなたは一人でいろんなことを疑ったり怖がったりしたんでしょう。わたしはあなたの救いになるとは言わないけど、あなたの心も知らず、ただ傲慢にふるまうのではないわ。そしてもちろん、あなたに同情的だから、仲良くしたいんでもないわ。ただ仲良くしたいのよ」

 その言葉にはいくらかの嘘と、矛盾が含まれていたし、スキューバもその事実にまったく気が付いていないわけではない。だが人寂しさと、完全に心を許したわけではないという、警戒心、もしくは、警戒心を持っているという自負が、スキューバのネガティブな“精神”を多少だけ軟化させ、筧恵美を完全に無下にはしないということに決めた。ただし、スキューバは筧恵美を受け入れたのではなかった。受け入れたい気持ちがあったのはそうだが、もちろん自分のことだけ考えていたわけではない。スキューバが誰かと交遊を持つということは、遅かれ早かれその相手と“関係を持つ”ということにつながるのだ。筧恵美が自分に悪意がないということを証明しようとすればするほど、スキューバは筧恵美に近づきたくなくなる。“どうしようもない。それが生きるということだ”という、諦念だけでは、その点を乗り越えることはスキューバにはできなかった。結局、スキューバがどうしたか。問題を先延ばしにしたのである。スキューバは筧恵美となんの約束も交わさなかった。これから仲良くしようだとか、絶交しようだとか、そういうことはなにも表さなかった。ただ事情があるのだというポーズをしたのだった。そうして、その日、スキューバはわざと昇降口で後輩に話しかけ、こちらのイメージを擦りつけた。深夜、空腹に耐えかねて眠ってしまうと、自分の惹かれる先が筧恵美でないことに安堵を覚えた。スキューバは結局、筧恵美には自分の特性を話さなかった。しかし魂の話はした。その点を共有する気になったのは、事後的な話でもあるし、スキューバが筧恵美に心を許したということの根拠でもある。

 スキューバはクラスメイトの阿藤恵子の“夢世界”へ入り込んだ。恵子はベッドからスキューバを見上げていた。スキューバは恵子のそばに降り立った。“日下さん、どうしてこんなところにいるの?”と恵子が言った。スキューバは恵子の問いには答えず、恵子の体にしなだれかかった。“なに?”と恵子が言った。けれど拒否するのではなかった。むしろその声には期待感が含まれていた。スキューバはいつもするように、恵子を責め、愛し、オーガズムへと導いた。できるだけ無機質に、しかしそれを悟られることはなく。スキューバは恵子に口づけ、充足を得た。ずう、ずう、と存在しないなにかを食べ、夢の終わりを待つ。夢は捕食が終わっても、夢の主がその生を終えるまでそのままでいる。スキューバはその間、部屋のなかをぐるりと歩く。決して被食者と話したりはしない。恵子は荒い息をつき、目から魂の光を惜しみなく漏らしている。スキューバは自分が矮小であるという自覚をしつつ、そこから目を逸らして、部屋を見る。空間は概ねみんな同じだが、個人によって少しだけ異なる。色合いや、ベッドの位置、家具の有無、照明の有無など、その精神性や精神状態を可視化している。恵子の部屋は、随分とメルヘンチックだった。部屋にある布はすべてフリルがついていた。床にはもこもことしたピンク色の絨毯が敷かれ、おそらく実際の部屋にも敷かれているか、敷きたいと思っているかしているんだろうとスキューバは思った。調度品の類がこれまたファンシーな棚のうえに等間隔で置かれている。

 スキューバはそれらを指でつついていった。カモノハシの置物、木彫りの犬、フェルトの猫、七つ目、等間隔を少し狭めた置物のまえでスキューバは足を止めた。それは目だった。正確には目のようなオブジェだった。スキューバはそれに指を伸ばし、触れずに曲げた。スキューバは首を傾げた。このオブジェは何か変じゃないか、と思った。他の置物にそぐわないのではないか。夢判断ではないが、と冗談めかし、しかしやはり気になってしまっている。

 スキューバは伸ばしかけていた指を曲げ、そして伸ばした。恐る恐るその、目のオブジェに触れる。とたんに背後を生理的嫌悪感が貫いた。

 充足――食事直後特有の、鈍重な精神がなにかを捉えた。なにか、この場において観測されるなにか。びくりと電流を流されたかのように跳ね、オブジェから飛びのいて逃げた。“見られていた!“と思い、すぐさま“筧恵美か?”とスキューバは考えた。筧恵美が自分を見ようとしていたのだろうか。筧恵美との出会いがもたらしたのは、スキューバの孤独をいやす柔らかな光だけではない。疑心暗鬼という、どこまでも続く深い穴もだった。スキューバはオブジェから距離をとりつつ、恵子の夢が終わるまで、戦々恐々とした気分でいなければならなかった。であればどうして。どうしてスキューバが筧恵美に大事な話をするに至ったか、とうぜん疑問に思うかもしれない。それはつまり、こういう事情だった。

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