第4話
スキューバの捕食は、主に校内で行われた。それはスキューバの修正のゆえんである。スキューバは、彼女の人格を考えれば、できれば知らない相手を捕食したいのだが、スキューバは被食者を選ぶとき、自然と自分に近しい、比較的ひらかれた“夢世界”に入り込む習性があった。このためにスキューバは不本意ながら、顔見知りから捕食せねばならず、このために、学友との交遊をほとんど絶ってしまっていた。なおこの“ほとんど”というのは、便宜上そう表しているにすぎず、彼女が実際に誰かとだけ特別な関係を築いている、というわけではない。彼女は、当人が感じる通り、極めて現実に近い部分にあっても、孤独である。
スキューバは、彼女もまた、と言うべきか、転校してきた生徒だったので、はじめは誰かに話しかけられることもあった。見目はウィッグのおかげで、人と大きく、いや、まったく変わらない。しかしスキューバには負い目があったのだ。スキューバに話しかけてきた少女とは、その日のうちに関係を持ってしまった。スキューバは元々社交的な“性格”ではないし、容姿は小作りで、整ってはいるが、華はなかった。そのうえ趣味らしい趣味もなく、誰とも話さないのであれば、一週間もすれば波紋は収まり、水底に沈む土くれのひとつとなった。スキューバは捕食の罪悪感を、自らに興味を持たない少女たちに対する、一抹の不満を、肥大化させることによってある程度だけ乗り越えていた。彼女が転校してきたとき、季節は春の終わりだったが、夏休みのまえにはスキューバの生活は家と高校を移動するだけになり、秋には一人でいることにも慣れた。
筧恵美が転校してきたのは、そんな折である。十月十四日大安、曇りの日だった。すでに窓を白く水分が覆っていて、スキューバの前の席の窓には手形がついていた。筧恵美は身長170をゆうに越そうという大女で、黒髪、真っ黒な瞳の美人だった。目の下に泣きボクロがあるせいか、陰があるように見えて、それがまた彼女の美しさを際立たせていた。まだ新しい制服が届いていないと言って、学校指定のイートンジャケットでなく、紺色と白を基調としたセーラー服を着ていた。スキューバは彼岸花を連想した。スキューバの中で筧恵美は彼岸花の花束を抱えた女の子となっていた。教師はスキューバの隣を指名した。「日下の隣が空いてるから、そこに椅子と机を持ってきなさい」筧恵美は、本当なら今日は自己紹介だけで、あとは手続きをして帰る予定だったが、本人の希望でいくつかの授業に参加することになった。筧恵美は一目でみんなに気に入られたらしい。空き教室から椅子と机を持ってきて座りみんなに囲まれて、いろんなことを訊かれている。「どこから来たの?」と一人が訊いた。「ディズニーランド」と筧恵美は答えた。ひどく空虚で、でも奇麗な声だった。周りの子がくすくす笑って、質問をした子はちょっと顔をしかめた。
「ほんとはどこなのよ」ともう一度、同じ子が質問した。筧恵美はちょっと考えて、「ううん、そうね、ディズニーシーよ」と答えた。周りの子はまたくすくす笑った。筧恵美は酷薄なぐらい美しい笑みをその子に向けた。その子はムッとした筈だけれど、笑顔にやられて、苦笑いをした。
すごくユーモアがある、と思われた。でも意外なことに、筧恵美はその最初の質問以外に対しては、感情をかき乱すほどの逸脱をしなかった。
「好きな食べ物は?」「チョコレート」
「好きな俳優は?」「マーロン・ブランド」
「本とか読む?」「ヘンリー・ジェイムズとか、レ・ファニュとか好きよ。ねじの回転がお気に入り」
「なにかスポーツやってた」「なんにもやってない」
「血液型は?」「AB型。RH+」(プラスってどっちのほう? と後ろで話す声がした)
「好きな人とかいたの?」「ううん、いなかった。女子高だったし。ここもそうね」(周りの子はまたクスクス笑った)
「肌キレーね。なにかやってるの?」「髪もすごいよ。絹糸みたい」「絹なんか触ったことないくせに」「別に何かやってるわけじゃないけど…」「けど?」「けどのさきは、なんにもないよ」
「すごいなー、ね、ね、ちょっと触ってみてもいい?」お調子者らしい子のお願いに筧恵美は頷いた。恐る恐る伸ばされた手が触れやすいよう、髪を一房持った。髪を触らせたり、手を触らせたり、気軽なボディタッチと気軽な質問が続いた。スキューバにはそれが洗礼のように感じられた。みんな触れて確かめている。これが自分たちの世界にそぐうものかどうかを。
「姉妹とかっているの?」
スキューバは自分の席でじっとして、木枯らしにやられた校庭の大樹を見やった。一人でいることには慣れても、一人だけ誰の輪にもはいれず、横で歓談しているのをじっと聞いているのは、やはりこたえるものが在る。反射的に鼻にツンとしたものがあらわれ、スキューバは洟をすすった。意識して筧恵美のほうを見ないようにし、本のことを考えた。本はスキューバの数少ない趣味――やはり、そう呼ぶほどのものではないが――習慣的に続けていることで、じつは筧恵美とは、少し趣味があっていた。ヘンリー・ジェイムズの“ねじの回転”はスキューバも好んでいる小説の一つである。他にはバルザック、ドフトエフスキーなどなど。今も鞄の中にはエイミー・ベンダーの“燃えるスカートの少女”が入っている。スキューバは席の上でかがんで“燃えるスカートの少女”をとった。ふと、どこかからか視線を感じた。
スキューバはただ、誰かが自分を見たのだ、と思った。視線は“流体”をつうじて意識を運び、スキューバのうなじのあたりをサッと撫でたのである。だからといってスキューバは、少し惨めな気分になるだけだった。文庫本を開くと、またぞろ何者かの意識が、再びスキューバを捉えた。“誰が見ているというの”しかし二度、意識を送られるのは、それが故意だからであることが多い。スキューバもここに転校してはじめは、そういう視線をいくつも受け取っていた。
今になって、それは――スキューバは筧恵美をちらりと覗き見た。筧恵美は、さっきの“兄弟はいるの”という問いに、弟が一人いる、と答えた。一つ下の学年に自分と同じように転校してくる、と答えた。そして、スキューバのほうをちらりと見た気がした。スキューバは隣の席から筧恵美を覗き見た。筧恵美は当然こちらなど見ておらず、しかし、スキューバは依然としてちらちらとした意識が、自分のもとに送られているのを感じた。スキューバは急に動悸が激しくなっている自分に気が付いた。筧恵美にはなにかあるという、期待、恐怖、それらがないまぜになり、スキューバは胸を抑えた。深呼吸しても収まらない。スキューバは
それが明確になったのはお昼だ。
「あれえ」とクラスの子が声を上げた。
「どうしたの?」
「おひる誘おうと思ったんだけど、筧さん、もういないみたい」
「それはそうよ。だって筧さん、おべんと持ってないでしょ。きょう帰る予定だったんだから。井上あたりが学食にでも連れてったんじゃないの」言ってからその子は、違和感に気づいた。「あれ。でもいつの間にどっか行っちゃったんだろう。まだ昼休憩はじまったばっかなのに」
スキューバは隣で怪訝な顔をする石神須磨子を哀れっぽい目でみあげた。机には可愛らしいランチョンマットと、小さな弁当箱が置かれていた。スキューバは人間の食べ物を食べないが、食べるふりはする。石神須磨子は少しだけ、スキューバに筧恵美の居場所を訊こうかと思ったが、結局そうはしなかった。肩をすくめて、旧友を誘い“まあそれはまたこんどでいいべ”と言った。
スキューバは箸でだし巻き卵をつまもうとして、ふと、教室の上端に視線を走らせた。糸のようなものが、生命を与えられすぎたウミヘビのようにうねうねと動き回っていたのだ。周りは誰も気づいていない。あれはスキューバにしか見えていない。
スキューバは“流体”に導かれるようにして歩いた。それは抗う気持ちのないものには抗えない類のものだった。スキューバは幽体になりたかった。校舎を直線に貫く“流体”の針が、もどかしくて仕方なく、気づけば彼女は生まれたときと同じ、霧の中で自分が佇んでいる気さえするのだった。スキューバは校舎に消え、彼女の体は、どこか不明の空間に迷い込んでいたに違いない。校舎を抜け、校庭から、理科準備室のほう、つまり、その向こう側に結ばれていた。
囁くような声音が頭の後ろでスキューバを呼んだ。筧恵美は、花壇で、たった一人、手には、カバーのかかった文庫本を持っていた。
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