第3話

 最初の食事もまた、夫婦の妻のほうだった。スキューバは空腹が限度に達すると、睡眠状態に入る。睡眠状態に入ると、すぐ近くの“夢世界”を見つけ、侵入するのである。あとは性交渉を通じて、食事を行う。なぜ性交渉が必要なのかと言えば、それが二人の他者が“流体”に干渉しあいに最も相応しい手段だからだが、スキューバはそれをちゃんとは知っていない。しかし、間違いなく必要なのだということはわかる。それはスキューバがスキューバであるが故だ。スキューバの意識はこの時点ではまだ半覚醒状態であり、言うなれば白痴の娘のようなものだった。そのためになんの罪悪感もなく、自らを引き取った女性の夢に侵入することができた。

 妻は美しい女だった。三十も半ばを過ぎた年齢だったが、容姿に崩れは見られず、若作りでもなく、まだ自然な美しさを保っていた。スキューバは屋敷の端の部屋を割り当てられていた。スキューバは“流体”を泳いで夢の中へ入り込んだ。“夢世界”は一定のルールを持っているが、その多くはあまり重要ではない。重要なのは“夢世界”がスキューバによってつくられた世界だということと、それが食事の場だということである。

 スキューバは天井から透けるように室内に現れ、ベッドに横たわる妻の横に座った。手順はわかっていた。妻の口へ、ついばむように口をつけた。妻は驚いていたが、スキューバを押しのけるようなことはしなかった。それどころか、腕をスキューバの背中に絡ませ、積極的に受け入れさえした。スキューバと妻は体をぴったりとくっつけ合った。妻は娘を抱くように包み込むようにスキューバを抱きしめ、スキューバは同じに返しながらも、ちろちろと舌を這わせた。

「はあ……」と妻は呻いた。「奈津、わたしの奈津……」

 スキューバは妻の胸を吸い、右手で肉壺をいじくった。ひんやりとして、ぺたぺたと指がくっついた。かまわずこすっていると、だんだん湿り気をましてくる。ぬめった揮発性の高い液体が指につき、それをこそげ落そうと同じ場所で指を動かす。そして、あるとき指が滑って中に入ってしまうのだ。

 スキューバは、生まれ持った“機能”によって、すでに性の手練手管を熟させていた。被食者の“流体”をつかみ、快楽点を刺激して、すぐに被食者のオーガズムを呼び起こすことができた。

 またぞろ頭の上に、なにか強烈なエネルギーの気配を感じると、スキューバは一度愛撫の手を止め、妻の顔を見上げた。それは目から発せられる怪光線。未知の持つ恋と嫌悪性。あてられてしまえば、二度と逃げることはできない。

 好奇心に囚われ、体を動かし、妻に口づけをした。目を合わせ――妻はスキューバを愛おし気に見つめている――目の奥の光は、どんどん強くなっていく。体が吸い込まれそうになる感じ、収束、炎によって、限りなく軽くなるかのような、そして、オブラートが剥がれ、火球が全身を覆い、スキューバはその場から遁走した。遁走と言っても、ごく短い距離だ。スキューバはおなかが減っていたので、逃げたと言っても、せいぜいがベッドのわきでうずくまる程度だった。

 ぶん殴られたかのような光体が目の奥でちかちかと点滅し、意識がもうろうとしていた。スキューバは、しかしこの時、恐怖を学んだ――というわけではない。この時のスキューバは、反応、もしくは反射することはあっても、学習や、意識的になること、それらの機能は備わっていなかった。小さく息をする妻の足をつかみ、つま先にキスをした。そのまま、足の甲、くるぶし、裏腿、体を、持ち上げながら順番に口をつけ、陰部をちゅうと吸った。“流体”が動き出し、スキューバは体が充足しつつあるのを感じ取った。妻は娘のいたずらを、くすぐったそうに笑うばかりだった。

 翌朝に妻はなにも覚えていない。なにも、自らが娘と目する存在と、性交渉に及んだこと、受け入れたこと、スキューバの特性、なにも覚えてはいない。七時に起きて、庭を歩き、使用人に今朝は魚を焼くよう伝えた。“お嬢さまを起こしますか”という若い使用人の問いに、妻は“私が起こすわ”と返した。

 妻がスキューバの部屋に入ると、スキューバはベッドの中で目をぱちぱちとさせていた。“なにをしているの?”と問うと、“何をすればいいのかわからない”と返した。そして妻の目をじっと見た。その視線があんまり不思議だったので、妻はスキューバに顔を寄せて“具合でも悪いの?”と言った。スキューバはそれでも黙っていた。かと思うと、妻のうなじと襟足にそっと触れて、妻を引き寄せ、短くキスをした。妻は驚き、のけぞって娘から離れた。スキューバは充足を得られなかったので、不可解な顔で唇を撫でた。

「こういうことは」母親は言った。「簡単にしちゃいけませんよ」そして三十分で食事ができる、と言って部屋から出て行った。

 はじめのうちはそのようにして、毎晩のように妻の夢の中に入った。夢の中の妻は、簡単にスキューバを受け入れた。だが現実では、簡単な接触も許さなくなっていた。スキューバが触れようとすると“あなたは私の娘よ”“母にこういうことはしないのよ”と言った。スキューバにはそれがわからなかった。どうして夢では受け入れられることが、現実でそうはならないのか。スキューバはある日それを端的に尋ねた。

「あなたはなぜわたしを受け入れないの?」

「受け入れるって?」

「肉体をよ」

「肉体?」

 ここには二人しかいなかった。夫はちょうど、旧友と親交を温めに、都会へ行っていた。

「あなたにはそういう欲動があると言うの?」母や嫌悪感を顔に出して言った。

「欲動?」とスキューバは問うた。「やりたいかということ?」

「そうよ。あなたはこの母と、そんなことがしたいというつもり?」

 スキューバは素直に答えた。

「いいえ。ここではなにも充足しないもの」

 母はならば話すこともないだろうと言った。気の迷いや、夢のたぐいだったのだろう、私も神経を尖らせすぎてしまった、ごめんなさい、といい、スキューバは、夢とはいったいなんなのか、と言った。夢とは現実ではないということよ、と母は言った。スキューバはなにがなんだかわからなかったが、この状況が終わったのだとし、自室に戻った。

 ところが数か月もしてみると、スキューバは色々なことがわかってきた――否、あまりに鈍重なスキューバの機構が、“現実世界”と重ねられることによって刺激され、誕生したときの年齢にそぐった精神性が宿ることによって、スキューバは思い出したのである。自分がいかに気色の悪い生命体であるか、ということを。スキューバは母親へ謝るとともに、自己探求に熱心になるようになった。

 現在のことを考えれば、そのほとんどが上手くいかなかったということは、ここにわざわざ書いておかなくても理解できよう。

 スキューバの自己探求は、懺悔からはじまったがために、永遠にその方向を定められてしまっていた。

“その通り。私は夢魔なのだから”

 人間がはじめから人間であるように、夢魔ははじめから夢魔だ。でも夢魔というのは、いったいなんなのだろう? スキューバは自分の身の上を何度も知ろうとした。自分があの夫婦の娘でないことは知っていた。娘というのは、母親の胎から生まれるものだ。自分はそうではない。

 夢魔とは夢を食べる生き物だが、いつか母が言っていた通り、夢は現実ではない。夢を定義した者は多いが、そのほとんどは夢を“潜在意識のあらわれ”や“過去の印象が投影されたもの”として扱う。スキューバにとっての夢はそうした自己言及的な事物ではない。ある種の反動――そう、反動によって、彼女は夢が人間の意識がつくりだした記憶の宮殿のようなものだと信じている。夢と現実とのかかわり合いは、一方的だ。夢は現実の内から誕生するが、現実は夢を包括していない。夢は過去、ランゴリアーズによって食い尽くされ、消し去られる過ぎ去った遺物、その投影物。“人間が死について考えるときと同じ感じだ”スキューバはそう思った。“絶対的な孤独が在るということを、自覚するようなものなのだ”疑問に対する忌避感はもちろん持っている。だがどうしてもスキューバは考えてしまうのだ。“私は存在していないのではないか?”と。

 とりわけ現在に至ってスキューバにそう思わせる原因になっているのは、魂の存在だった。スキューバは誰かの夢に入るたび、目の奥にやどる魂と対面せねばならない。それは、魂を持たない生物を焼き尽くすだけの力を持った、特別な領野……それは、個性や行動という、予め無貌性の高いものに影響されながら“その存在”というスタンドアローンを成り立たせる、絶対の原子である。

 自己探求にあたって、スキューバは自分の人格を、そのようにして理解していた。つまり、ある言葉に対し不快を、ある言動に対し喜びを、ある攻撃に対し防御する、精密な反射機械――この人格と呼ばれるものでさえ、なんらかの保証は存在しないと。

 スキューバは歯を磨いていた手を止め、しげしげと自分の目を眺めた。深い青。深海のような目。うつろな、火を持たない、湿り気のある目。この先にあるものは、おそらく夢だ。

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