第2話

 夢が消えたあと、誰の記憶に残ることもない。人は一晩に一〇〇の夢を見るという。スキューバは、そのうち一つに入り込む。

 スキューバは、人に擬態して生活していた。ここは城南。海沿いにあるだけの、ちんけな町。石神須磨子は、スキューバの同級生にあたる。この町でスキューバは高校生をしている。産み落とされたすぐあとには、スキューバはすぐさま自分がどんな存在なのか理解していた。“私は夢魔なのだ。人間ではない。私は人間の食物を受け付けない。私は夢を食べている”

 しかし夢とは、なにものなのだ?

 スキューバは充足と気色の悪さを感じ、自室のベッドから上半身を滑り落ちさせると、床に向けて透明の液体を吐き出した。消化器官から分泌されるそれではなく、さらさらとしていて、においもあまりない。“夢を食べるだって?”スキューバは思った。“冗談だろう”

 スキューバは青い顔でベッドの脇に立ち(吐しゃ物はよけた)、洗面所で口をゆすぎ、顔に水をこびりつかせた。タオルから顔をあげると、鏡の中の自分と目があった。嫌な感じだ。さっきの食事のときのように、惹かれるものはない。記憶の中で、憶えることを積極的に避けながら、しかし、それこそこびりついた感覚を思い返し、いまが安全だと安堵するのと、背筋の凍るような思い、そして、ひどく惨めな気分が、同時にぶり返してくるのだった。スキューバは顔を拭いたタオルに流水を浴びせ、絞り、青いポリバケツに引っかけて吐しゃ物を処理した。床が水と、間などに入り込んだ吐しゃ物を平べったく伸ばした状態になると、スキューバはぶるりと体を震わせた。“これはどんな震えだろう?”とスキューバは思った。恐怖か、ただ寒かっただけか、それとも両方か、それ以外か? スキューバは時計を見た。時計は四時を指していた。スキューバにはわからないことが多かったが、中でも気にしていたのは、自分がいったいなにを食べているのか、ということだった。スキューバは食するものに、存在の特性が出るのではないかと考えていた。

 ヴィーガンは野菜だけを食べ、日本人は白米を主として食べ、フクロウはネズミの死骸を食べ、猫はキャットフードを食べ、犬はドッグフードを食べる。そしてスキューバは夢を食べる。

 “夢を食べる”だって? スキューバは手を洗いながら思った。“冗談かなにかなのか?”

 もちろん冗談などではない。実際スキューバは今、充足に満たされている。しかしそれが、なんによってかはわからない。なにしろスキューバに捕食されたものは、捕食されたからには、なにかを失っていなければならないのだが、実際になにかを失っているようには見えないのだ。養分を吸い取ったのではない。生気を吸い取ったのでもない。彼らはスキューバに捕食されてもぴんぴんしている。注意深く観察してもその様子は見えないし“流体”にも乱れは見られない。スキューバは手拭きタオルで手をぬぐい、再び鏡像を見た。ヤギの角、このあいだ削ったばかりだが、また伸びてきている――白い髪、色素が抜けた質感ではない、潤とした――そして、暗い瞳。さっきまで被食者に言っていた「現実じゃない」という言葉を思い返している。

 スキューバは、食事のとき以外に眠る必要がないので、七時までカウチに座って本を読んで過ごした。

 スキューバの部屋は、シンプルな1LDKだ。生物の胎のように、入口から便所とユニットバスを除いたものを見ることができる。一人暮らしの学生らしい部屋である。

 しかし、スキューバが、一介の、ヤギの胎から零れ落ちた夢魔がこんな部屋に住んでいるのは、金持ちの夫婦に拾われたせいだ。ヤギの胎から出て、直後のことだった。彼らは娘の三回忌から帰ってきたところだった。都会でやっていた仕事を畳んで、否かにドロップアウトしてきた手合いで、スキューバのいた畦道から、少ししたところに立派な家を持っていた。

 スキューバはわらの上から立ち上がり、ふらふらと歩いて、厩舎の外に出た。音を発しながら光速で動く物体が、その存在をブレさせるように、彼女の意識はそこにありながら、はるか後方で音を発していた。やがて柵の近くまで来ると、霧の向こうからヘッドライトの明かりが表れた。スキューバは好奇心にあおられ、ふらふらとそちらへ傾いた。

「あれを見て」

 妻が言った。

「なんだ?」

 夫が言った。目を凝らすと、霧のなかに人影が見えた。夫の方はまだ、彼女が牧場の関係者だと思っていたが、妻の方はある確信を覚えていた。通り過ぎるとき、夫はその少女のような人影が丸裸で立っていることに気が付き、ブレーキをかけて外に出た。セキュリティ・アラームが静謐な空間に鳴っていた。スキューバは近づいてくる夫を目で追っていた。夫は言葉を発することができなかった。相手が頭に角の生えた、白髪で、丸裸の少女だったからだ。だが、それだけではない。夫はスキューバの姿に、ひどく不安を覚えた。妻が背後で車から降りる音がした。夫は言った。「君は車の中にいろ」しかし、妻の爛々と輝く瞳を見て、再び口を閉ざした。「なにを言っているの」妻が言った。「その子が見えないの? 早く温めてあげないと凍えてしまうわ」

「だが、これは……」

「でももなにもないわ」妻は柵を越え、毛布をスキューバの肩にかけた。夫は戸惑いを声で表した。「だが、これは……いったい……」

 夫が不穏なものを感じる一方で、妻はスキューバが神のつくりたもうた奇跡であると信じている。

「この子は私たちの娘よ」

 スキューバは妻に声をかけられたが、この時の彼女にはなにもわからない。スキューバは声のするほうを振り返った。そして、香りに誘われるように、その生物が持つ光を感じ取ったが、霧のために正確な場所はわからなかった。

 夫婦はスキューバを引き取り、日下奈津という名前を授け、娘のように扱った。戸籍を与え、養子にし、地元の中学に入れた。

 スキューバは手鏡で角を写し、やすりで慎重に削っていった。平べったく、薄くなると、髪を整え、上からウィッグを被った。“これでどこから見ても人間になった”スキューバは後頭部に手を当てた。その昔、自分を育てていた夫婦の妻の方が、自分の頭に手を当てて、そういうことを言ったのだった。

 つまりわたしは人間ではないのだろう。

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