倒錯する夢魔

柏木祥子

第1話

「夢よ」


 キスを落とす。


「これは夢」


 キスを落とす。


「現実ではないのよ」


 ではいったい、なんだと言うのか?


 スキューバはヤギの胎から誕生した。絶えず移ろい、その形を保つ“流体”が、流れ込み、ヤギのような目は、黒目の大きな瞳に変わり、ヤギのような口は柔らかな唇に変わった。毛皮は皮膚となり、背骨は曲がり、手足が伸びた。霧晴れぬ暗い朝、神さえ見ない場所で、スキューバは羊水とともにわらの上に投げ出された。スキューバははじめから人間の形をし、はじめから大きかった。起き上がると、彼女(it)はまったく人の姿をしていた。スキューバがスキューバであるのは、ヤギのようなカーブした角と、頭皮に残った白髪と、ふくらんだ胸と、腰のくびれに不釣り合いな、つるりとしてなにもない股によった。


 スキューバはキスを落とした。スキューバはその姿で現れたが、スキューバがスキューバであると理解するものはいない。スキューバは、美しい夢魔の姿で現れ、人間の少女に迫った。スキューバが少女の頬に簡単なキスを落とすと、それだけで彼女は赤面し、顔を背けて逃げようとした。しかし、決して忌避感からではなかった。ベッドはそのためにあったし、ともすれば空間そのものが、そのためにあったからだ。夢は平面の意味で、単調である。スキューバはそう思った。スキューバは少女の鼠径部に手を添えて、胸元を唇でくすぐった。夢の中のあらゆるものは、星座のようだ。


 少女が口で「イヤだ」と形作った。スキューバが下へ手を伸ばしたからだった。少女は、スキューバと――現実世界の、十六歳相当の――スキューバと同じぐらいの外見だった。「これは夢よ」とスキューバは空虚さを込めて言った。少女は身をよじり、スキューバの手をその細腕でとらえ、スキューバは抵抗されるがまま、右手から力を抜いた。スキューバは体を持ち上げ、少女の瞼にキスを落とした。恥辱からか、睫毛についた涙に触れないよう、よく整えられた眉を巻き込んで、そして、人差し指で脇腹をつつくと、体が跳ね、あっさりと、その場所に到達することができた。間についたクレヴァスからは、すでに粘液がうっすらと表出し、スキューバが指ですくってふき取っても、奥の方から溢れてくるようだった。スキューバはざらついた陰毛に粘液を擦りつけ、布団で完全にふき取り、自分の頬を指でこすると、右足を少女の両足の間にいれた。頬に手を添え、キスをし、膝の先を股に押し付けた。

 少女は“ウッ”と呻き、スキューバの背中に手を添えた。少女はスキューバの目を覗き込もうとしたが、スキューバは目を逸らした。スキューバは少女の額のあたりに視線を寄せた。膝をどけて右手で陰部を覆うようにすると、装いもなく、するりと中に滑り込ませた。筋肉が侵入してきた異物を追い出そうと収縮し、スキューバの指を圧迫した。スキューバはゆっくりと、馴染むまで指を縦に、単調に動かした。それだけで未知の快楽を見出させるには十分だった。スキューバは頬と頬を擦り合わせる。スキューバは少女の昂揚が高まるうちに、自らの中にもある衝動が、強くなっているのも感じている。ああ、と少女が声を震わせた。視界をふさがれた不安と恐怖が、快楽器官の痙攣とともに、なにか得体のしれないものをせり出させようとしているようだった。スキューバは引き寄せられるように、少女の肩のあたりに顎を載せ、シーツの上に広がる髪をみつめた。やがて、収縮が別のかたちとして、スキューバの指を追い出すよりも、捕らえて離さないようになると、彼女は膣をおなかの方向に押して、相手の“女性の前立腺”を探した。少女は悪夢に迷い込んだかのように、悩まし気な声を出し、なんとかスキューバの二の腕を掴んでいる。かなりの力だ。「目を」と少女が頭の後ろで言った。「目を見てください。お願いだから」目だ。今も誘蛾灯のような抗いがたい目が、スキューバを捕えているのだ。肉体的な快楽と少女趣味的なロマンが噛み合わず、器官の反応に対して、少女を冷たさが通底していた。スキューバは虚像を出現させ、想像の中で少女と目を合わせた。甘やかな期待、歓喜、羞恥の色はまだあったが、急流に掘り起こされた恋慕――それは、この状況に至る道筋が、記憶と、それによる繰り返しによって捏造されたものだったが――によって、マザーグースが唄うところの成分の一つとして、在る、だけとなり、スキューバと少女は、どろどろに溶け合おうとしていた。スキューバは顔を上げ、口元を見つめ「目を閉じて」と言った。「目を閉じて。ねえ? 須磨子さん。目を閉じて。そして、目をあけて。目を開き、かつ、閉じて」そうしなければならない、とスキューバは思った。夢がそのようなことを可能にするのは、夢が過去であるからだ。夢は記憶される過去すべてであり、現行する時間の流れだった。


 オーガズムに達する瞬間、スキューバは光なく発光する瞳に吸い寄せられ、少女と目があい、そして、その奥で煌々と燃える魂の灯を見た。スキューバは硬直した。それは紛れもない恐怖心だった。スキューバは体が――流体――が、沸騰し、熱波に翻弄される紙切れと同じように揺蕩いながら、焼失する予感と、覚える感覚の差異に、戸惑い、冷静にさせられ、混乱が動作を奪われる。惹かれ、生命の危機が、いつの間にか腕を動かすと、びっしりと汗をかきながら、スキューバは少女の目を掌でふさいだ。それでも熱を感じた。少女の器官全体を通る流体が、漏電を起こしたように跳ね、目という間欠泉をふさがれ、口と陰部から漏れ出ようとするそれを、スキューバはもう一度、膝先で栓をし、口だけに絞って、少女の口に、口をつけた。ずう、ずう、と少女は流体の動きに引っ張られ、スキューバもまた背中に圧迫を感じた。体が充足し、怖気、これは、忌避感のようなもの、が、雷撃のように通り、体の中を壊疽でいっぱいにした。ベッドはほどけ、重力に敗北したかのように、少女の体が沈み、そこを中心として、部屋全体が畳まれてゆく。背景が混沌に近づき、先ず音が失われ、ついで、視界が真っ暗になった。さっきまで感じていた熱はすべていなくなった。汗が放射冷却の原理で体からすべての熱を取り去った。夢世界の終わりはそのようだった。スキューバは、暗闇に溶ける六等星だった。

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