花と童話と賢者

「さっきはごめんなさい。蹴飛ばしてしまって、お怪我はありませんか」

「いえ、床に座っていた私が悪いのです」


 後宮の図書室にいた少女は会釈をするように首を傾ける。彼女の目元を覆い隠す前髪は、その動作で揺らぎこそすれ、全貌を露わにすることはない。


 わたしと胡桃色の髪の少女は連れ立って、図書室の出口へ向かっていた。


 左右を見渡しても本棚ばかりの迷路を、胡桃色の髪の少女は足を止めることなく進む。


 彼女の表情を隠す前髪は鉄壁であり、それは会話にしても同様だった。


「ずいぶんと熱中されていましたね。午前からこちらに?」

「いいえ、つい先ほど来たばかりです」


 きっぱりと言い切られてしまって、あとは無言。会話が続かない……!


 めげない気持ちで、わたしはさらに話しかけた。


「本は……先程の本です。どのような本を読まれていましたか。分厚くて、緑色の装丁の」


 倒置法になりつつも、なんとかして話題をひねり出すことができた。


「……花卉類の総論です」

「うーんと……花卉かき………園芸分野で扱われる観賞用の植物のこと、ですか?」

「はい。よくご存じですね」


 ようやく話題を作れそうな返答が得られたことに、わたしはほっとする。


「花といえば、宮殿と後宮の間の庭園は素晴らしいものでしたね」

「あそこは”花の続き間“という名の小庭園で、園遊会ガーデンパーティも催される華やかな花園なのです。……社交場だから仕方がありませんけど、お茶会よりも静かに花を観賞する庭園であってほしいと私は思います」


 胡桃色の髪の少女は窓際のビロードのカーテンを持ち上げて、外の小庭園を眺めた。


「せっかくのアイリスの美しい花姿かしを記憶に焼き付けず、瞬間を無駄にした嫌がらせばかり……西宮殿の令嬢達には呆れます」


 彼女はカーテンを下ろすと、先程の不愛想な様子と打って変わり、庭園について語り始めた。


「宮殿内の庭園は他にもあって、花の続き間よりもっと規模の大きな庭園が後宮の裏にあります。地味ですがツゲやローズマリーの結び目庭園ノットガーデンは年中楽しめますし、或る迷路メイズは庭師すら未踏破の逸話があります。それらの庭園の中でもローズ・ガーデンが素晴らしいと私は思います。ちょっと時期は早いですが、早咲きの薔薇はもう見られますよ」


 すると胡桃色の髪の少女は熱心な説明をパタリと止めて、こちらを見る。


「本当はこれ以外にも、ですね……」


 胡桃色の髪の少女はまだ語り足りないようだったが、一息に喋ったせいで空気が足りず、呼吸を整えるのに口を止める。そのうち、一方的に語り過ぎたことに思い至ったのか、こちらの様子を伺い始めた。


 わたしの気まずさゆえに振った話題なので気兼ねする必要はないのだけれど。ここまで語ってくれたのに、反応しないのは失礼だ。


 庭園の中の薔薇といえば……あの童話のような情景が広がっているのだろうか。


「へぇ……良いですね! きっと『夏の庭と冬の庭』のように綺麗な庭園なのですね」

「『夏の庭と冬の庭』がどのようなものかは存じ上げませんが……」


わたしの相槌を聞いた彼女はそう前置きをして続けた。


「……その庭園の薔薇の美しさといったら、凍えた心の持ち主でも涙を流すでしょう。平面幾何学式庭園パルテールを構成する赤き薔薇と白き薔薇のコントラストは、宮殿の庭師の技量が直に表れておりますから」


 わたしが興味を持ったことが、胡桃色の髪の少女は嬉しかったようだ。


 声のトーンも高く、難解な専門用語も多くなっている。


 きっと、わたしにとって大切な童話にあたる存在が、彼女にとっての庭園や植物なのだろう。


「本当にお好きなのですね」

「貴女も童話がお好きですね」


 胡桃色の髪の少女は、自身の持つ緑色の装丁の本をつついた後に、わたしが持っていた本へと目配せをした。


 最初はそっけなかった彼女が、自分の好きなものに興味を持ってくれた。それが少し嬉しくて、顔がほころぶ。


「ええ、大好きです」

「先程の『夏の庭と冬の庭』は童話の題名でしょうか?」


 訊かれて、すらすらとわたしは解説をそらんじていく。


「はい、グリム童話集の内の一篇です。現行で出回っているものは最新の賢者フィーリ稀覯本きこうぼんから編纂して増刷したものですが、『夏の庭と冬の庭』はそれよりも古い稀覯本のみの収録で、ご存じでないのも当然のことです」




 ――賢者フィーリ稀覯本きこうぼん


 突如として本棚の隙間にねじ込まれる精霊のイタズラ、その産物だ。


 記録の残る限りの昔から――それこそ本と呼べる物体が存在し始めた頃から――本棚に親指以上の隙間を残しておくと、いつの間にか作者不明の見知らぬ本が、空所を埋めるようにして並べられていることがあった。


 ある時、加護を賜った人間がその力で魔ノ者に訊ねた。


『この本をしまった者は何者か?』


 すると、魔ノ者は


『精霊の賢者フィーリだよ。屍者ししゃの記憶を全て賢者フィーリが叡智を本にした』


 と、答えた。




 この逸話ののち、稀に現れるそれらの本は賢者フィーリの稀覯本と呼ばれるようになり、解読が進むと事実、発展した技術や認識の宝物庫だと価値が見出されていった。


 わたしの解説を聴き終え、胡桃色の髪の少女の声音にちょっとばかりの驚きがもたらされた。


「童話も賢者フィーリの稀覯本に含まれているのですか? ……あ、すみません」

「構いません。童話が何の役に立つかと言われれば何も言い返せませんから」

「花や庭園も、貴族の道楽でしかありません。その日の食事や衣住にすら貧窮している人々にとっては無用の長物です」


 同調して彼女も自嘲気味に言う。


「……きっと、そんなことはありませんよ」


 なんだか、彼女の寂しげな言葉がアレンと重なって見えて、わたしはその自嘲を否定したくなった。


「花がひとつあるだけで人の心は和らぎます。たとえ食べられなくても、植物の繊維は布になります。花は集めて精油を作製する事もできるじゃないですか。それにですね――」


 なんといったって同じ植物なのだ。


 花や庭園の知識や技術が農耕に応用できないわけがないし、その日の食事はまかなえなくても、明日の食事の伝手はできる。


 まあ、それはそれとして、薔薇の精油は特に希少で皇都の人々にはよく売れるはず。


 ……こんな、すぐに商談に結びつけてしまうのは領主の職業病かもしれないけど。


 胡桃色の髪の少女はクスクスと笑い声を出した。


「では、そのお言葉。そっくりそのまま貴女にお返ししましょう」

「え……? どういうことでしょうか」

「童話の知識も、使い道次第で人々の役に立つ。ということですよ」

「うぅん、童話は活用できるほど深い分野ではありませんから」

「でしたら、貴女が私に示された機転で童話を人々の役に立ててください」

「なかなかに難しいことをおっしゃられますね」


 相手に期待し、お互いを称え合うことによる不思議な居心地の良さが、そこにはあった。


 もしかして、これが親友なのかな? それなら……!


「そうだ。まだ、わたしの名前を申し上げていませんでした。あとですね、刺繍を入れたハンカチもお近づきの証にお渡ししているんです。わたしは………?」


 胡桃色の髪の少女は、彼女の柔らかそうな淡い紅に色づいた唇に人差し指を立てた。


 そして、首を振る。


「名前をおっしゃらない方が貴女の身の為です」

「そんな、どうしてですか?」

「貴女と私……仲良くなれそうな気がします。ですが、私の名前を知れば、その気持ちを抱いたことを後悔されるでしょう」


 忠告をしておきながら、彼女は哀しそうに俯いた。


「私の名前は―――」


 開いた口が母音の形に歪む。


 空気を震わせる彼女の声よりも先に、別方向から届いた音が私の鼓膜に響いた。


「ユイーズ皇太子妃殿下!」


 風が吹いた。


 分厚いビロードのカーテンがはためき、室内に陽光が射す。


 胡桃色の長い前髪が風に攫われて、蜂蜜のような色彩の、光を潜めた瞳が露わになる。


 彼女が……ユイーズ・サンドレス伯爵令嬢。


 婚約パレードの日に、皇太子殿下の隣にいた少女。


 看守リヴィの前世である皇太子リヴウィルと愛で結ばれた存在。


「ほら、お分かりになられたでしょう? 私とお友達になられたら、貴女も西宮殿の令嬢達に虐められてしまいますよ」


 こちらへ向かう複数の足音が、細長い図書室の通路に響いていた。


 青い騎士服の一団が颯爽と現れ、胡桃色の髪の少女を取り囲む。


 短めの黒髪で日に焼けた肌の青年騎士が、いの一番に彼女へ駆け寄る。


「こちらにおられましたか、ユイーズ皇太子妃殿下」

「セシル、心配をかけましたね。ランドルフ中隊長もお忙しい中、ありがとうございます」


 彼女に声を掛けられ、後ろの一際ひときわ屈強で年季が入った傭兵風の騎士が黙礼した。


「さ、こちらへ」


 セシルと呼ばれた黒髪で褐色肌の騎士はわたしに一礼し、ユイーズ様を連れて行こうとしていた。


「ユイーズ皇太子妃殿下!」


 声をあげると、真っ先に傭兵の屈強さを騎士服で隠しきれていない彼らが振り返り、壁を作る。


 わたしは恐れず前へ進み出て、お手製のハンカチを差し出した。


「わたしはロザリンド・デ・ナトミーと申します。どうかお見知りおきを」


 しかし、スミレが刺繍されたハンカチは一際ひときわ屈強で年季が入った傭兵風の騎士に叩き落された。


 わたしが相手を見返すと、その場にいた騎士たちは皆、わたしの動向をじっと見ている。


「そのような不審物、皇太子妃殿下に渡してくれるな」

「不審物ではありません。ただの刺繍が施されたハンカチです。お近づきの証としての贈り物です」

「世迷言を。北の領地では、ハンカチを渡す行為は別れを意味すると聞いた。それは見目が良くても、悪意を孕んだ危険物が含まれているか分からん」


 傭兵風の騎士はそう言い捨て、ハンカチを足蹴にしようとしていた。


 だが、土埃に汚れてしまう前に、ユイーズ様がハンカチを拾い上げたのだ……!


「ありがたくいただきます。これが別れの意味ならば、子爵令嬢はもう私にお近づきになりませんように」

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