東宮殿から図書室へ
後宮は中央宮殿、西宮殿、東宮殿という建築物単位で呼称が分けられている。
そして、更には上階と下階という区分で仕切られていた。
中央宮殿の上階は皇帝皇后両陛下。
西宮殿の上階は第一王子殿下、第二王子殿下が。
そして、東宮殿の上階には、第三王子の皇太子殿下と皇太子妃殿下がいらっしゃる。
そう、今いる宮殿の上階に――。
わたしは東宮殿と中央宮殿の二階を、橋渡しで繋ぐ渡り廊下へ目を向けた。
ちょうど、中央宮殿側へ行く数人の姿が見える。
一組の男女を中心に、騎士が前後を護衛しているようだ。
その護衛される貴賓が誰であるか、ここからでは窓側を歩く男性の顔しか分からない。
「リヴウィル皇太子殿下ですね。中央宮殿の途中までご一緒されるみたいだ」
同じく足を止めて、二階渡り廊下を眺めていたアレンがそう言う。
「あの方が皇太子殿下ですか……?」
アレンの言うように、護衛される男性の見た目はリヴウィル皇太子殿下だ。
しかし、わたしの中にはそうと断言のできない、かすかな違和感があった。
すると視線に気が付いたのか、皇太子殿下は談笑をいったん止めて、東宮殿側の下階から見上げているわたしたちを見遣った。
一度か二度の瞬きで、わたしたちの顔を認めると、彼は右手を振った。
驚きと喜びと、そして不穏な確信をわたしは抱く。
「あれって、殿下がオレ達に……ん? いや、私達にご挨拶を?」
アレンも少し気が動転しているのか、黙礼をした後に呟く。
「珍しいことだよなぁ、なんでだろう」
「おそらく、
この違いは、きっと『珍しい』では説明がつかない。
「アレン。皇太子殿下がいらっしゃった階にどうにかして行けないの?」
「いっ!? 行けませんよ!」
わたしが詰め寄ると、アレンは少したじろいだ。
「どうしてです? アレンは皇太子殿下直属の第二騎士団なのでしょう」
「規則なんですよ。上階は皇室の近衛の管轄で、忠誠を誓った直属の騎士団といえども出入りを許されるのは一握りです。従騎士の私を含め、当然、ロザリンド様も立ち入る権利はありません」
続けて彼は訝しげに訊ねる。
「しかし、どうして殿下と直接お会いになりたいと思われるのですか」
「そんなの……それは―――――」
続く言葉をアレンに聞かせてしまうのは
――渡り廊下でわたしたちに手を振ってきた男は、リヴウィル皇太子殿下ではない。
見て感じたままに、そう主張してしまうのは簡単だ。
でも、どうやって証明しよう? この感覚を。
そうだ。あくまでもこれは感覚なのだ。
婚約パレードの日に一度だけ目にした皇太子殿下と、手を振ってきたあの皇太子が別人であると、感じ取っただけで。わたしの記憶の中の
「ロザリンド様は本当に、ユイーズの為に……皇太子妃殿下の為に後宮にいらっしゃったのですか?」
「それは……わたしがユイーズ皇太子妃殿下の為に、東宮殿の下階に滞在していることは、おそらく皇太子殿下もご存知でしょう?」
「どうして皇太子殿下がご存じになれるんですか?」
「アレンも言っていたじゃない。わたしを除く側妃候補は全員、西宮殿に滞在していると。ましてや同じ東宮殿にいて、御自ら召集した側妃候補を把握していないのはありえないでしょう」
しかし皇太子殿下と初めて顔を合わせたのは、婚約パレードのありふれた観衆としてのみ。過去にも、婚約パレード後の現在までも、わたしが皇太子殿下に会う機会は無かったと皇都を訪れた時は必ず同伴していたアレンは知っている。重ねて、肖像画が描かれない現在の皇国では偶然通りがかった令嬢がナトミー子爵令嬢だと認識できる確率の方が低い。
そういった急所を突かれる前にわたしは結論を提示する。
「他の令嬢とは立場が『違う』……だからこそ、殿下の身振りをこちらに来るようにだと早とちりしてしまっただけ。たったそれだけのこと、恥ずかしいことね」
仮定の上に成り立つ嘘の主張も、考える隙を与えぬ早さで、まっとうな論理のように語れば言いくるめるのも容易い。
アレンは渋々といった様子で口を尖らせた。
「そうですか……それでも上階へ行くことは、皇室の方々の許しなしには行けません。あとは、上階へ一足先に踏み入れたとなれば、西宮殿の令嬢から敵視されてしまいます」
「ただでさえ、最後に後宮を訪れた側妃候補の令嬢だものね……心配してくれてありがとう、アレン」
「理解していただければ幸いです」
危うい瞬間もあったが、会話をしている内に少しだけアレンの疑心は和らいできていた。
そしてアレンの逆鱗は、ユイーズ様であると思われた。同郷という共通点以外に、彼女を心配する想いが彼を動かしている……。
「まだロザリンド様のお部屋での荷解きもありますが、先に宮殿の案内と、ついでに中隊長への報告もさせていただきますね」
東宮殿の一階と地続きの中央宮殿に移る。中央宮殿は古めかしい装飾から年季の長さが感じられ、先程までの東宮殿が近年増築された区画な分、より違いが際立って見えた。
アレンによると、皇都の宮殿は増改築を繰り返し、現在もその敷地を拡大し続けている。後宮のさらに奥へと広がる皇室狩猟林を切り開いて一昨年、第二騎士団の宿舎が新造されたばかりであるし、小離宮建造の話も持ち上がっているようだ。
到着した図書室前には青い騎士服の屈強な男たちがたむろしていた。
彼らの中の誰かが中隊長なのだろうか。
「図書室はそこまで広くはありませんから、中でお待ちになっていてください」
「え、良いのですか?」
「取り敢えず、この時間の図書室なら恐らく誰もいないはずです。ご安心ください。現時点でもう報告すべきことは多いので……特に夫人との遭遇は時間がかかるでしょう」
図書室の重厚なニス塗りの扉は開かれている。
遠慮なく室内に入り、見渡すがアレンの言ったとおり誰もいないようだ。
部屋の中央から左端にかけて十数人掛けられる長机と腰丈の本棚。右方には背丈以上の本棚が続々と並び、
長机を挟んだ正面には裏地の黒い重厚なビロードのカーテンが掛けられ、採光が抑えられていた。カーテンを少しめくると小庭園の芝生が広がっている。そこでは宮殿の使用人が準備をしているようで、屋外用のテーブルを運び込む光景が見られた。
皇立図書館の方が蔵書の種類、数ともに優位である為、ここ中央宮殿の図書室は人気がなかった。その証拠に、読みかけの本が書見台に忘れ去られたまま、うっすらと塵が付いている。
そんな管理の行き届かない図書室だったが、興味のある本棚はすぐ見つかった。
童話は、幼い子でも探しやすい出入り口近くで、かつ、背の低い本棚に並べられていた。
意外にも品揃えは充実しているが、一目で目新しいと思える童話はない。
一応……と思いつつ、古書同然の童話集を一冊手に取る。
「やっぱり、もうないか……」
その童話の内容は、わたしの持つ童話集にすでに類型が記載されていた。
わたしは看守の少年リヴィの知らない童話を探していた。
いつかわたしを助けてくれた彼に出会えた時、新しい童話を教えてあげるために、童話集に載っていない童話は――幸せな結末で幕を閉じる物語に限り――書き足していこうと決めていたのだ。
そんな考えとは裏腹に、書き足せそうな童話は全く見つからなかった。
自分でもよく憶えていると思うが、既に童話集は挿絵なしで300ページに迫る文章量だった。皇国の童話は
無為な日々を過ごす中で、ようやく見つけた新規題材が、モニカ姉様との手紙でも引用した『東の果ての臆病な伯爵』。
「――『東の果てに臆病と罵られる伯爵がいました。』……これは出だしで、えーと、『真昼の星を見上げて働き、真夜中の星に見守られて健やかに眠る』はどの場面だったかな………ダメだ、全然憶えられてないなぁ」
印象に残る場面は暗唱できたが、それ以外はてんでダメだった。
ちょっと前に、子爵邸で童話集を燃やしてしまった後、『東の果ての臆病な伯爵』だけはまだ書き写していなかったから……。
あの日から今日まで、色々なことがあって忙しかった。楽しさや嬉しさ、驚き、悲しみ、寂しさ……童話に触れている時と近しい感情がもたらされて、満たされていたのだろう。
罪人の少女の記憶を思い出す度、かすかな痛みや苦しみは抱くものの、辛くなるような感情は少なく、童話から得られる幸福感や嬉しさの方が強い。結果的に、不幸な罪人の少女の記憶は、愛されているのに子爵領に軟禁される理不尽への気持ちを紛らわせてくれていた。
“もしも”現在の子爵令嬢の人生に、罪人の少女の記憶がなかったら?
罪人の少女の記憶もなく、童話にも興味がない、わたしは何を考えてどう行動する人になっていたのかな。
お母様や親族を亡くした過去の出来事は心に大きな影を残していたことだろうし、辺境伯領出身のアレンとも真っ向から対立していたかも……。
図書室の心地良い静けさに浸っていたから、普段は熟慮すらしないことを、手に取ってじっと見詰めるように考えてしまう。
だけど、ちょっとでもあり得た未来を“もしも”なんて考えていたらキリがない。
日々の忙しさに忙殺されながらも、現在の選択が正しかったと信じて生きるしかないのだ。
偶に後悔、そして夢想しながら、最期に正しかったと自信を持って微笑めば良い。
わたしは心の中でそう結論付け、思案の区切りとした。
『東の果ての臆病な伯爵』は、折を見て落ち着いた頃に書き写すことにしよう。
様子見で一冊童話集を手に取る。童話の棚を見終えた後は、ざっと背表紙だけ確認しながら歩を進めた。気を引かれる本がないか見ている内に、部屋右側の本棚へと足が誘い込まれた。
図書室の横の奥行きは思った以上に広かった。
本棚各段の平均冊数と、段の数、本棚自体の数……概算で蔵書数を見積りながら歩く。
大体一万冊あるかないか、かな。
………いや、これで広くないと断言するには無理がある。
アレンの認識では入ってすぐの長机の空間で図書室は完結していたらしい。奥へずらりと並ぶ本棚たちも、通路が柱で遮られているために奥の空間を見通せなかったのだろう。
実際に立ち入ろうとしなければ永遠に秘密の空間だ。
棚仕立ての、人工的な一本道に柱が聳え立つ。それを避けて、横道の棚間に身を滑らせる。そうして振り返り背面の棚を見ようものなら、方向感覚を失う迷宮のような場所……。
うぅ……油断した……迷子だ……。
似たような棚の並びばかりだから?
それか、パパからのお目付け役、兼案内役がいないとこうも迷うものなのか。
と思いつつも、冷静にわたしは棚を巡っていた。きっと、アレンが探し見つけてくれるだろうと、なんだか不思議な安心感があった。
「わっ」
わたしは何かに躓いた。
一瞬姿勢を崩すが、童話集を持たない方の手で棚に掴まり、事なきを得る。
躓いた場所を見れば、少女が座っていた。
彼女のゆるやかなウェーブがかかった胡桃色の髪と、丈の長い薄緑色のワンピースの裾が石床に広がっている。……彼女の髪や服を踏みつけずに済んだのは幸いなことだった。
グラッ――ドサドサッ―――。
わたしが掴んだせいで本棚が少し傾き、胡桃色の髪の少女の脇へ本がいくつか落ちた。それも
背筋がひやりとした。彼女に本が当たらなかったのは本当に幸いなことだった。
少女は手元の図書から目を離し、わたしの方を向いた。
彼女の薄い色素の前髪は長く、こちらを見上げる彼女の顔を半ばまで隠していた。代わりに控えめな厚さの唇と小さな顎が見えた。首元は襟で覆われており、その襟には金糸と濃緑色の糸の簡素な刺繍が施されている。
「大丈夫でしょうか、あの………」
わたしはそう訊ねながらも、出方に悩んでいた。
なぜかといえば、いったい彼女がどんな人物であるか、ということに悩んで。
おそらくは令嬢、もしくは図書室の司書。
二択までは絞れていた。
彼女の服装から身分を推し量る。
また、何と言っても彼女の香りは薄く、どちらかといえば高価な香料ではなく木の芽や土のような匂いがしたから……令嬢でないのは間違いない。そうだろう。
その胡桃色の髪の少女は無言で、楚々と本棚から落ちた本を拾い、手慣れた様子で空所に収めていく。
背はわたしより少し低いくらいの彼女は、小さく早めの声を発した。
「驚かせてしまって、ごめんなさい」
そうして何処かへ足早に立ち去ろうとする。
「待ってください!」
胡桃色の髪の少女はぴたりと止まる。振り返る。
「なにか?」
「わたし、迷ってしまったので出口まで案内していただけますか……?」
……やっぱり、心細さもあって、早くアレンと合流したかった。
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