【幕間】???

「まったくどうしてこうも女神の逃げ足は速いのか」


 嘆息を吐いて彼は、自身に与えられた役割とは異なる衣装に袖を通した。


 枢機卿服から司祭の服へ。


 だが、元着ていた枢機卿服ですら彼の本来の役割には値しない。


 お仕着せの服はどれも窮屈で、彼にとっては平民の、ただの木こりの恰好の方がどんなに楽なことか。


 ――コンコンコンッ。


 いささか性急な速さの、扉への打音が響く。


 続けて「いらっしゃいますか」と、見知った青年の声が焦りを含んで聴こえた。


「いるよ」

「第一礼拝堂の祭儀のお迎えに参りました」


 きっと青年は、衣装の交換や休憩に使われるこの部屋で何か異変があったと思い、探しに来たのだろう。


 司祭の服に着替えていた彼自身も第一礼拝堂に向かう途中ではあったのだが、突如連行していた女神が壁をすり抜けて、逃げてしまった。その女神の追跡でいいように時間を潰され、しまいには子爵令嬢と出会い頭の衝突。祭儀の刻限はまだ差し迫っていないものの、余裕はない。


「今、出る」


 仕上げに司祭が付ける長い帯を肩に掛けて、彼は扉を開けようとした。


「忘れていた」


 告解室を担当する聖職者は、顔を人々の視線から遮る薄布ヴェールの着用義務がある。


 ただし今日に限っては、彼は身分を隠し、危険から身を護る為だけに薄布を着用していた。


 私室の扉を開けると、廊下で待っていた青年は緊張の解けた顔で彼を出迎えた。


「枢機卿の方々が殿下をお待ちしております」


 今度は彼が青年に連行される形となり、やや早足で廊下を進む。


 皇都の大教会。それは皇国の一等地にふさわしい白亜の建築物群と、敷地内に複数ある小規模な果樹園、全体を指す言葉だ。


 また、運命の女神ヴェルザンディの名のもとに、皇国全土の他宗教、土着信仰を『教会』という枠に受け入れた存在の総本山である。


 この点において、『教会』は一神教でも多神教よりの――一柱の神を最高位の神とし、他の神は容認しつつも下位に据え、それらの信仰を受容してやる――単一神教と言えよう。


 そのため、宗教体系はやや難解だが広く信仰され、国教としての隆盛を極めている。


 加え、主神が万人に受け入れやすい運命を司る神であったことも『教会』の隆盛の一因だ。


 運命を受け入れるため。より良い運命を望むゆえ。


 今日も巡礼者は大教会へ集い、聖職者の祭儀に耳を傾け、巡礼堂で祈りを捧げる。


 ただし現在、彼と青年が向かう祭儀の場は第一礼拝堂である。


 なぜなら、聖域と呼称される大教会の三つの礼拝堂の、此処でしか、それも教皇と彼しか執り行えない祭儀があった。


 それは一般公開されている巡礼堂の祭儀とは別物であり、本来『教会』はこの礼拝堂の祭儀の為だけに存在すると言っても過言ではない。


 『教会』が真に崇め奉る運命の女神ヴェルザンディ。その未来予知の権能に触れるための礼拝堂の祭儀の為だけに。


 ……とはいえ聖職者の服を着せられている彼にとって祭儀は、与えられた仕事、という程度のものでしかないが。


「この薄布ヴェール。本当に必要のあるものだろうか」

「あります。皇都で皇太子殿下の御顔を存じ上げない者はおりません」

「その文脈から僕が何者なのか知られてしまうことに、君は少しでも気が回りはしたかな?」

「……あ、申し訳ありません! 殿下!」


 指摘されて、青年は周囲を見回した。過ちに気付くも、また新たな過ちを生み出してしまったことに気が回っていないが。一応、これでも仕事はできる青年だ。それに裏の顔がない。皇都のなかでは一種の清涼剤と言えよう。


「君のようにそこまであからさまではないけれど、枢機卿も案外脇が甘いものだね」

「と、おっしゃいますと?」

「承知している枢機卿の表情で、僕が最も地位が高い聖職者だと当てられてしまった」

「はっ、かしこまりました。枢機卿一同に留意するよう伝達します」

「よろしく頼むよ」


 思えば、彼の本質を見透かしたあの子爵令嬢も裏表のない素直な表情をしていた。


 彼自身が暇であれば、もう少し引き留めて、からかっても良かっただろう。


 理由はいくらでも作れた。


「しかし、最も地位が高いというだけで殿下だと断定できるでしょうか。告解室担当者の薄布ヴェール越しでは、私の今の位置からであっても顔は視認できません。唯一、隙があるとすれば、声であると思いますが」

「対面論議の場では、僕は一言も発言しなかった。そもそも僕と彼女は初対面だ。……いや、それ以前で見覚えがあったような」


 記憶に引っかかるものがあった。それは彼女と言葉を交わす、ずっと以前から伝聞で知り得ていた情報ではない。彼の網膜の上で像を結ぶものとして、既知であった気がした。


 青年は殿下から得られた手掛かりを口遊くちずさみつつ、推理を展開させる。


「対面論議に、彼女となると……。殿下を最も地位の高い聖職者だと認めたのは、本日爵位継承試験を受験されたナトミー子爵令嬢でしたか」

「そう、彼女だ。ナトミー子爵からの報告によれば、病弱でここ十年間は子爵領から一度も外出したことはないらしい」


 それに思うところがあったのか。青年はちょうど持ち合わせていた子爵位継承試験の審査書類をパラパラとめくり上げた。


「……子爵領教区の司教からは病弱という報告は受けておりませんが、神学、法学ともに優秀であるようです。この度の皇立学院卒業試験相当の筆記も、研究所合格相当の得点になりますね」


 青年は事実しか述べない。念の為、答案用紙を見せてもらったが、子爵令嬢の成績は非の打ち所がなかった。


 賢者フィーリの知識を引用した時点で予感はしていたが、彼女自身かなりの才女である。皇立研究所まで勤め上げた姉が一人いるというから、その素質を同じく親から引き継いだのだろう。


 青年が何やら、しかつめらしい表情をして口を開いた。


「ナトミー子爵は、三人の御息女をそれぞれアルム伯爵の縁戚、セドツィア伯爵、そしてマディル公爵のもとへと嫁がせ、政略結婚を成功させたやり手の貴族です。病弱であるとひた隠しにしてきたはずの箱入り娘を世間に出したとなれば、何らかの思惑を感じずにはいられません」

「確かに一理あるな。側妃候補の推薦は今日までだ」


 青年の進言は憶測に基づくものではあるが、現状の皇太子妃の立場の弱さを考慮すれば、さもありなん。自分の娘が側妃となって、確実に皇太子妃以上の影響力を持てる機会を、野心家が見逃すとは思えない。


 だが、皇太子の取った行動の真意――なぜ皇太子が側妃候補を招集し、自身の伴侶を窮地に追いつめようとしているのか――を理解してのことであれば、面白いことになる。


「ふむ、ナトミー子爵……か」

「気にかかる点でもありましたか」


 彼は、あの凍えるような冬の日の、腹を温かく満たした炊き出しのスープの味をまだ覚えていた。そして、或る少女の為に立ち向かったことが、ふと思い起こされた。


「十年前のジキルライン防衛戦直後に起きた誘拐事件。確か、第一騎士団のシァト団長補佐が被害を受けていたはずだが、他にもう一件、同日。貴族の令嬢が攫われてはいなかったか?」

「シァト団長補佐の誘拐事件と同日ですか……本件は、当時の第一騎士団と合同で捜索に当たっていた為、教会の資料庫もしくは第一騎士団の団長室に記録があると思われます。調査が終わり次第、殿下に報告いたします」

「頼んだよ」


 何か月か後の、再び彼女に会う時までに、この予感と記憶が事実であるか分かればいい。


 自信のあるテスト結果が待ち遠しいのと同じことだ。


 春は過ぎたというのに、卒業したはずの皇都の学院生気分が仄かに色めきだしたことを、彼は見せてもらった答案用紙の所為だと思った。


「リヴウィル・ユース・ヴェルザンディ皇太子殿下」


 突然。皇太子の名で呼ばれ、彼は青年の方へ振り返った。


 皇国で女神ヴェルザンディの加護を賜った者だけが名乗れる姓、ヴェルザンディ。


 この姓を持つ者は、当然、未来予知の加護女神の恩寵を行使できる皇帝と皇太子のみである。同じ刻に二人より多く存在することはない。


 それを呼ぶとなれば、訳あって枢機卿服から司祭の服に着替えた彼の正体がいよいよ露見する。


 彼が皇太子としてではなく、一介の聖職者として振る舞う理由を青年は知っている。


 しかしながら、それをかなぐり捨てる暴挙に出たのは、ついぞ見逃していた青年の素直さによるものだった。


 青年は半ば狂信者のような、無を張り付けた表情をしていた。


「我々は女神ヴェルザンディ様と、次点、その寵愛を受ける御方のみを崇拝致します。お忘れなきよう」

「ヘンドリクセン第二枢機卿からの言付けか?」

「はい、そうお伝えするよう言い付かっておりました」


 一転。青年の顔は普段と変わらない愛想のある笑顔を浮かべた。


 枢機卿からの脅しを伝える為だけに、青年は皇太子の身を危険に晒したのだ。


 青年には裏がない。だが、それは同時に全てが筒抜けだということだ。利用する者とされる者。両者のどちら側にもつかず、受け渡すだけの存在に徹する。それが青年なりの処世術しょせいじゅつだった。


 この青年と子爵令嬢は素直な部分が似ている――という認識を彼は改めた。


 素直を演じる青年と、世間擦れしていない令嬢では、素直さの本質が異なる。その差異の所為で、彼はたびたび人間というものの恐ろしさを思い知らされた。


 彼――皇太子リヴウィルは、皇都へ連れて来られた頃の彼とは違う。もう人々の恐ろしさに泣き出すことも無くなった顔をあえて薄布で覆い、堂々と光に溢れた大教会の廊下を突き進む。



『あの場で一番地位が高いはずの枢機卿猊下、あなただけが顔色が変わらなかった』



 彼は子爵令嬢の真摯な表情と、彼女から突き付けられた鋭く誠実な言葉を思い出していた。


(……そういうことは気が付いても、正直に訊くものではありませんよ。子爵令嬢)


 純粋で正直な彼女が、願わくは三日も経たずに、皇都から自領へ逃げ帰ることを期待した。世間擦れなどしないままが良いと彼は思った。

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