女神の可視
でも、まあ、そういうときもある。誰だって自分の意見をどんな時でも変わらずに主張できることはそうそうないし、言いにくいこともある。……いや、やっぱり、女神様をおざなりにするのは問題かもしれない。
結局、年若い枢機卿猊下は沈黙を貫き通し、私の質問は煙に巻かれてしまった。
ただ結果はともあれ、終わった話を蒸し返された枢機卿猊下は嫌な思いをしただろう。
「はい。枢機卿猊下に不躾な質問をしてしまった無礼をどうかお許しください」
わたしが頭を下げると、枢機卿猊下はそこまで不快と思わなかったのか、柔和な態度を取った。
「そうかしこまらずに、子爵令嬢。貴女の事情は聞き及んでいます。今まで病弱で領から出られなかった貴女が、御父上や自領のために爵位を継がれる道を選ばれたと」
「え? ええ……」
枢機卿猊下の話を聞くに、パパはわたしが病弱だと偽ったことを察した。
それはまあ、末娘が可愛すぎて軟禁していましたは聞こえが悪いだろう。いばら姫ぐらい特別な事情がない限り、許されない所業だ。
でも、年若い枢機卿猊下はパパの嘘を信じ切っている様子だった。
「至らない者は、素直に訊く姿勢が求められます。それは成長する為には何よりも大事なことです。病弱で出だしが遅れたとなれば尚更のことでしょう。ですが、貴族ともなれば、些細なことでも腹の探り合いをするでしょうから、あまり正直すぎる態度は身のためにはなりませんよ。子爵令嬢」
これは………説教かな?
にしても今日会ったばかりの人にも、わたしは素直だと正直だと言われてしまうのか……。
「励ましの言葉を頂戴し、光栄です」
「こちらこそ。御家の援助があればこそ、果たせた教会の役割もありますから、今後とも宜しくお願いいたします」
「ええ、これからも微力ながら尽くしてまいります」
世辞を取り交わして終わると思われた会話だった。だが、彼は言葉を続けた。
「十年以上前からでしょうか、子爵家が領を跨いででも行われている炊き出しには、領内外の多くの民が命を救われていることでしょう。微力などではありませんよ」
存外な言葉だった。皇都の一等地で祈りを捧げているような年若い枢機卿が、たかが子爵家の細々と続けている慈善活動を知っている。担当の教区でもないのに珍しい。
年若い枢機卿猊下はそれで話を締めきり、会釈をした。
「では、失礼いたします」
「……あっ、枢機卿猊下。お探しの方はあちらに行かれましたよ」
既に彼はわたしに背を向けて廊下を歩きだしていた。
「……はっ?」
枢機卿猊下の歩を進めていた足が止まり、ぐるりと踵を返して、
「ナトミー子爵令嬢、彼女が見えるのですか」
と深刻な声音で、彼は目線をわたしと合わせるように身をかがめた。
「み、見てはいけないものでしたか……?!」
「見てはいけない、ということはありませんが……今、女神はあちらでどんなことをされていますか」
そう言って、彼は遠くに見える建物同士を繋ぐ外回廊を指差した。
「……? お探しの方はあちらではなく、今はあの第三礼拝堂の聖台でくつろがれていますが」
枢機卿猊下が指した方向と真逆の場所にいることを説明すると、彼は何かを確信したようだった。
「……ナトミー子爵令嬢。今日は僕の時間がありませんので、後日、また大教会にいらしていただけますか」
「それは子爵位継承の取り消しですか……?」
わたしは戦々恐々としつつ訊ねた。
「それは問題ありません。女神が見えてしまった件で少しお話があります。毎週この日は終日大教会におりますので、この
黒革の土台に金属が埋め込まれた
女神と常緑樹がモチーフの精巧な絵柄が施されている。バッジのように衣服には付けず、携帯する証明証らしい。見るに、教会の部署のひとつを示しているようだ。
「かしこまりました。皇都に落ち着くまでは忙しいので、ひと月後になると思いますが、それでよろしければ」
「構いません。しかし、この件はどうかご内密に。ご家族や、仲の良い侍従にメイド、御令嬢方に触れまわることのないようお願いいたします」
そう言うと、枢機卿猊下は真白の枢機卿服を翻して第三礼拝堂へ駆けていった。
彼の姿が見えなくなってから、わたしはあることに気が付いた。
「……あれ? 女神?」
枢機卿猊下はさっきの幽霊の女性のことを女神と言っていた?
「あれが女神ヴェルザンディ様!?」
一般的に、女神ヴェルザンディは不可視の存在とされていた。
拝謁の誉れにあずかれるのは選ばれたごく少数の聖職者と皇帝陛下、皇太子殿下のみ。
だから貴族であっても、女神の姿を視認できたとなれば一大事だ。聖職位を授ける叙階の儀式を受けて、助祭以上の職階が与えられてもおかしくはない………けど!
冷静に考えれば、わたしは今、皇位継承権の規定のひとつ『三、女神ヴェルザンディの可視。』を満たしたことになる。他の上位規定を満たしていないからには、皇位を継承することは絶対にあり得ないが………皇国の象徴と意思疎通ができる令嬢がいるだなんて、弱小貴族の子爵家にとっては驚天動地の出来事である。
なんだか持て余すのが目に見えているので、枢機卿猊下に言われた通り黙っていよう。
それにしても、あの女神様をお目にかかれるなんて、わたしはどんなに幸せ者だろう。
女神ヴェルザンディ様の、あの遠目でも分かるまばゆいばかりの美しさに、流麗な姿形。女神像の造形美もあながち誇張ではない。寿命が何年か延びた気もする。
女神様と言えば、やはり、湖に落としてしまった斧は金の斧か、銀の斧か、と木こりに訊ねる童話だろう。わたしがよく知る童話だと単に女神様と記されているが、本来は神ヘルメスが訊ねるという。
皇国の女神ヴェルザンディ様と、その童話の女神様もしくは神ヘルメス。いったいどちらが美しいのだろうか……。
「って、時間!」
慌てて駆け出し、元の道を戻るも、目の前でちらつくのは女神様の美しさばかり。
ついさっきの前方不注意を繰り返すことのないよう気をつけつつ、わたしは先を急いだ。
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