皇位継承権

「…………!?」


 上目遣いで、誰がわたしを庇ったのか確認する。まだ抱きしめられていて身動きがとれず、それ以外の行動はとれなかった。


 わたしを庇った彼は薄布ヴェールで顔を隠していた。


 今はその薄布が少しずれて、顎から鎖骨にかけての素肌が露わになり、喉仏が見えていた。


「うぅ……申し訳ありません。僕の前方不注意です」

「いえっ、枢機卿猊下に庇っていただいたお陰で怪我っ……小さな怪我もありませんから」


 わたしは直ぐに視線を彼の首元から下に逸らして、俯いた。


 自分でも変に狼狽えているのが分かる。この動揺は何だろう?


 何故か高まる心音に、近すぎる距離が拍車をかける。ぶつかった衝撃でわたしは昏倒しかけているのかもしれない。でなければ、この……この……この、気持ちは何?


「そろそろ僕の上から退いていただけると、ありがたいのですが」

「! すみません」


 彼の腕から解き放たれていたにもかかわらず、わたしはぼーっと彼の胸上にのしかかったままの体勢だった。ぱっと飛び退いたが、なんだか恥ずかしい。


 彼は、おそらく、対面論議でかいした年若い枢機卿猊下だろう。顔を覆う薄布と白い枢機卿服の特徴的な組み合わせは、二人といない気がする。


 それと、曲がり角の死角から飛び出してきたのも彼で間違いない。廊下はわたしたち以外誰もいなかった。


 彼は埃を払い服装のよれを直すと、わたしに頭を下げた。


「ロザリンド・デ・ナトミー子爵令嬢。驚かせてしまい誠に申し訳ありません。本当にお怪我はありませんか?」

「こちらこそ、わたしが上にのしかかってしまったので捻挫や打ち身は大丈夫でしょうか」


 彼は軽く身体を動かして、にこやかな様子で頷いた。


「なんともありませんよ。ともかく、僕が急いでいたのがいけなかった……失礼」


 そう言って、彼はわたしの背後を覗き込んだ。


「逃げられましたね」

「どうかいたしましたか?」

「ある者を探していました。ああ、そうだ。ナトミー子爵令嬢、先程の対面論議は見事なものでした。数刻中に子爵位継承の正式な書類をお渡しできるでしょう」

「本当ですか!」

「はい。おめでとうございます」


 大掛かりな試験に参加することだって、勿論、はじめてのことなので合格したとなれば飛び上がるように嬉しい。


 この勢いのまま、意識の底にずっと引っかかっていたあのことを、わたしは訊ねてみた。


「あの、質問をしてもよろしいでしょうか」

「お答えできる範囲であれば構いません」

「わたくし、ひとつだけ論議で失言をしてしまったようにお見受けしたのですが……」


 論議中、とある受け答えでほぼ全員の不興を買ったような予感がしたのだ。


 なんというか、それはオレンジとカモミールの香りが苦々しくなって、整腸剤が下剤に変化したような気まずさだった。


「他が良かっただけにアレは残念な点でした。王権神授説――賢者フィーリの知恵を引用する博識さは素晴らしいですが、賢者は女神が列する魔ノ者をやや否定する記述が見られる。教会では好まれない主張です」


 論議の題目のひとつに『皇帝陛下を王たらしめるものとは何か』というのがあった。


 順当に考えれば、これは皇位継承権について訊ねている題目だ。


 皇位継承権の規定は三つ。


 一、女神の寵愛の証である未来予知の加護の行使。

 二、初代皇帝より続く血統。

 三、女神ヴェルザンディの可視。


 これらのより上位の規定を満たした唯ひとりが皇太子として認められる。


 わたしはその皇位継承権の規定を答えたあとに、客観的な裏付けとして賢者フィーリの説を引用した。だが、その裏付けには大きな落とし穴があった。


 賢者フィーリによれば、皇帝陛下が振るう権力の正統性を王権神授説というらしい。王権神授説とは字の通り、王の権力は神が授けたものである、とする説だ。これは皇位継承権の規定『一、女神の寵愛の証である未来予知の加護の行使。』と合致している。


 しかし、賢者フィーリはその王権神授説を説明する際に、まるで世界に神が存在しないかのような文章で書いていたのだ。


 言わばそれは、教会が信奉する女神ヴェルザンディの存在を黙殺しているということだ。そんな賢者の姿勢を、教会が良しとしないのは明らかだった。


 家庭教師チューターのテスコール先生は平然と触れていた内容なだけに、わたしはそれらの事情をすっかり失念していたのだった。


「そういうことだったのですね。あの、枢機卿猊下はどうお考えなのですか」

「どう、とは?」

「賢者の提唱する王権神授説についてです。あの場で一番地位が高いはずの枢機卿猊下、あなただけが顔色が変わらなかった。……薄布ヴェールで隠れていらっしゃるので、そういう気配を他より感じ取れなかっただけかもしれませんが」


 始めは、彼以外の聖職者全員が嫌悪感を滲ませていた。


 しかし、彼だけが肯定もせず否定もせず、平然と受け止めていたことで流れが変わった。


 あとの二人の枢機卿が年若い彼の様子を窺う。すると、その二人は表情を平静に戻して、非難を口にしなかったのだ。ここで最も立場が上である者が彼であると、わたしは明確に理解したが、困惑を覚えた。


 それは枢機卿たちと歩調を揃えようとしていた他の司教、司祭たちも同じこと。お偉方が称賛でも非難でもないどっちつかずの状況で追求する訳にもいかず、対面論議が膠着した。


 結果、場に嫌悪と困惑の残滓が残され、この事態を引き起こした張本人であるわたしの胃をいたく苛なませた。


 どうして彼は女神を信奉する教会の、それも高位の聖職者でありながら、女神の威光を賢者の唱える傷付ける行為王権神授説を受容したのか?


 好奇心から、忠誠心から、訊ねたくなるのも当然だろう。


「僕の考えをお教えすることはできません。これでよろしいですか?」


 年若い枢機卿猊下は回答をやんわりと断った。

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