第2話

 安吉は密航について霧子に説明した。

「古くは貧しい移民希望者が、20世紀に入ると、政治的迫害を受けた亡命者や経済的困窮から、母国を脱出する手段として用いることが多くなった。こういった者の中には、国外での就労を希望しての場合もある。また、政治的迫害を受けていたり、戦争、内戦、紛争や兵役から逃れるために密航する者もいた。20世紀後半になると、各国の入国管理や身分証明制度が強化され、空港や港湾の警備体制が近代化されるとともに、輸送も輸送される物資の量的な増大に伴い、隠れる手段が少ないコンテナ船へと変化している。このため船舶では、船員など関係者と内通していない限り、密航は不可能となっている。このため、船を密航者で占拠して密航を行うボートピープルや偽造パスポートによる偽装出国が増加している。ただし、アメリカや日本、韓国のように、入国審査で指紋採取を実施している国家では、パスポート偽造という手法での密入国は困難になっていたんだ」

 霧子は腹が減って安吉の話に集中できなかった。

 無性に馬刺しが食べたい。

「その一方で、航空機など船舶以外の交通機関や場合によっては、国境を横断する貨物列車や貨物自動車に隠れて便乗し来るケースも見られた……」

 グーッ!霧子の腹時計に安吉は顔を顰めた。

 雛罌粟は腹の音がしたことがおかしかったのか笑ってる。

「おまえ、俺が話してる最中食い物のこと考えてたろう?」

 安吉は舌打ちをした。

「そんなわけは……」

 それにしても可愛いな、どんなパジャマ着て寝てるんだろ?安吉は霧子にメロメロだった。

 暗号は『秋正成』だった。

「これ、暗号っていうかほとんど答えですよね?」

秋正成あきまさなり、スリーブダガーが狙ってる人物の名前だろうか?」

服部半蔵はっとりはんぞうって確か、本名は服部正成はっとりまさなりでしたよね?」

「あ〜、徳川家康に仕えてた忍者だろ?」

 松平氏(徳川氏)の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る(なお、同じ十六神将に「槍半蔵」と呼ばれた渡辺守綱がいる)。実戦では、家康より預けられた伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮していた。


 父の保長やすながは伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった。当時の伊賀には服部氏族の「千賀地」「百地」「藤林」の三家があったが、狭い土地において生活が逼迫したため、保長は旧姓の服部に復して上洛。室町幕府12代将軍・足利義晴に仕える事となる。その時、松平清康が三河国を平定し将軍に謁見するべく上洛した折り、保長と面会して大いに気に入り、その縁で松平氏に仕えることになったという。


 伊賀国予野の千賀地氏を正成の一族とするのは誤りで、阿拝郡荒木の服部半三正種の子とするのが正しいとする説がある。また、保長を服部民部の子「守佐」であると記し、名を「石見守半蔵正種、浄閑入道保長、法名道可」とする史料も存在する。千賀地氏城の伝承においては、上記とは逆に将軍に仕えていた保長が伊賀に戻り、千賀地氏を名乗ったとされ、その子である正成と徳川家康の接点が無い。三河へ移った後の保長の記録は少なく墓所などは現在も判明していないが、大樹寺に縁があったとされ、同寺過去帳には息子である久太夫の名がみられると共に、家伝においても正成は幼少期を大樹寺で暮らしたと記されている。 正成は父の跡目として服部家の家督を継ぎ、徳川家康に仕えて遠江掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねた。


 一般的に『伊賀忍者の頭領』の印象が強い正成であるが、彼自身は徳川家の旗本先手武将の一人であり、伊賀国の忍者の頭領ではない。 徳川配下の将として名を現した後の働きも忍者のそれとは異なり、槍や体術を駆使し一番乗り・一番槍などを重要視した武功第一のものが多い。しかし、いくつかの合戦において伊賀者や甲賀者と行動を共にするほか指揮官として忍びを放ち探査や工作をさせた記録も残るため、正成の生涯の多くに伊賀・甲賀出身者や忍びの者達が関わっていたであろう事が推察される。


 安吉は左手首にしたG-SHOCKを見た。とっくに正午を過ぎていた。  

「服部半蔵は関係ないと思うぞ。腹が減っては戦ができぬ、昼飯にするか?」

「超ウレシイ!」

 霧子は飛び上がって喜んだ。

「美味い店案内するぜ?」と、雛罌粟。

 安吉たちはクルーザーから降りて雛罌粟の運転するアルトでドライブをした。

「随分小さな車だな?ツッ…」  

 助手席の安吉は腰の痛みに顔を顰めた。

「文句あんのかよ?」 

「別に文句はないけどよ?」

 雛罌粟は筋肉隆々、元レスラーだ。

 隠岐諸島は本州南西部の島根半島の北の日本海、北緯36度付近に位置する。隠岐諸島は島後水道を境に島前どうぜん島後どうごに分けられる。


 島前は「島前三島」と呼ばれる知夫里島(知夫村)、中ノ島(海士町)、西ノ島(西ノ島町)から構成される群島である。これに対し、島後は1島(隠岐の島町)のみである。島後の面積は約242 km2で、日本列島では徳之島に次いで大きく、15番目の面積を持つ。主な島は、これら4島だが、付属の小島は約180を数える。


 隠岐諸島の最高峰は島後の中央やや東側に所在する大満寺山で、山頂の標高は608 mである。かつては摩尼山と呼称された。

   

馬頭めず』って馬刺し専門店で昼飯にした。店は隠岐の島町にある。島根半島の北の海上に位置する、島根県の離島部の隠岐郡に属する町の1つである。隠岐諸島に位置し、島後全域を占める。西郷も隠岐の島町の一部だ。

 隠岐の島町は、島後の島々と、島前に近い大森島と、竹島が範囲であると主張している。


 これらの中で最大の島が島後であり、隠岐の島町役場は島後に置かれている。島後は大満寺山(標高608 m)を最高峰として、山頂の標高が500 mを超える山だけでも、葛尾山(標高598 m)、横尾山(標高573 m)、鷲ヶ峰(標高560 m)、時張山(標高520 m)、大峯山(標高508 m)が有る。他にも半島の部分も含めて、海岸近くまで複数の山々が見られる、山勝ちな地形である。このため、島後の道路にはトンネルが目立ち、島後に作られた国道485号にも複数個所のトンネルが存在する。また、島後には複数の瀑布が見られ、その中の1つである壇鏡の滝は、日本の滝百選に選出された。他にも島後には幾つかの河川が見られ、西郷湾へ注ぐ八尾川水系には銚子ダムによるダム湖も作られた。

 

 島後の北端の沖に位置する沖ノ島は、オオミズナギドリの繁殖地の1つとして知られる。また、島後の一部地域では高尾暖地性濶葉林が残る。これに加えて、隠岐の島町は町花としてシャクナゲを指定しており、島後の東部にはオキシャクナゲの自生地が残っている。なお、島後の南西端の海岸付近には、人工的にマツが植えられ「屋那の松原」として知られる。


 馬刺しは、おろしショウガやおろしニンニク、刻みネギなどを薬味に醤油につけて食べるのが一般的である。福島県会津地方では薬味ににんにく辛子味噌を使って食べるのが普及している。 また、馬刺しや炙った馬刺しをのせた寿司としても親しまれ、回転寿司などでも見かけるようになった。牛と異なり馬肉の油脂の融点は低く、口内の温度でも十分溶けるため、霜降り肉でも刺身で美味しく食べられる。ほかに小さく刻んだ馬肉を少しの醤油と納豆とあわせて食べる桜納豆がある。赤身肉に人工で「さし」を入れて霜降り肉とした肉も流通している。

 

 馬刺しには、大別して「トロ」や「霜降り」、「赤身」があり、また一頭あたりから採れる量が少ないので珍重される「タテガミ刺し」や「こうね(タテガミの脂)」のほか、匂いがほとんどない「レバ刺し」や「タン刺し」などもある。「トロ」と呼ばれる部分は、バラ肉の極上部位であり、赤身に霜がふっている部分を「霜降り」と呼ぶ。また、馬の肩からアバラにかけて広がる3層肉は「ふたえご」と呼ばれ、コリコリとした食感がある。流通は、冷蔵のほか、食中毒防止などの観点から冷凍でも行われている。

「トロも霜降りも美味いな〜」

 安吉は満足そうな顔をしていた。

「だろ〜?」と、雛罌粟。お座敷なので足を崩せるから安吉の腰痛が少し和らいだ。

 馬料理を食べると空を自由自在に飛ぶことが出来るようになる。さらに自分や仲間を回復することができ、首が屈強になる。また、どんな仲悪い奴でも友人になることが出来る。

 安吉や霧子は雛罌粟と連絡先を交換した。

 

 昼飯の後、『隠岐の島記念館』に出かけた。

 隠岐諸島には縄文時代の早期か前期まではヒトが住みつき、本州と活発な交流が有った痕跡が、出土した石器や土器に現れている。


『古事記』では「隠伎之三子島おきのみつごのしま」と記される。

 日本神話『因幡の白兎』に登場し、古代には隠岐諸島に隠岐国が置かれていた。古くから遠流の島として知られ(例として、『続日本紀』天平宝字8年9月18日条など)、小野篁、伴健岑、藤原千晴、平致頼、源義親、板垣兼信、佐々木広綱、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、飛鳥井雅賢などが流された。


 中世には国府尾城(甲尾城)の隠岐氏が隠岐守護代として隠岐を支配した。隠岐守護は出雲の京極氏や尼子氏が兼ねたものの、本人が渡海した試しは無かった。


 近世は初め出雲の堀尾氏や京極氏の分国であったが、後に江戸幕府の直轄領(天領)にされた。天領の統治は出雲の松平氏が任された。江戸時代に入ると、隠岐は西廻り航路に組み入れられ、北前船の風待ち港として繁栄し、日本各地の文化が流入した。明治元年(1868年)には松江藩と隠岐在住の住民間で隠岐騒動(雲藩騒動)と呼ばれる一連の騒動が発生した。


 特異な民俗行事としては、『牛突き』が知られる。配流された後鳥羽上皇が喜んだという口承が伝わる日本最古の闘牛である。また隠岐には古典相撲が伝わっており、神社の遷宮やトンネル完工、校舎の新築など公共の慶祝事業に伴って、神社や仏教寺院の境内、学校の校庭など至る所で、土俵が設置される。なお、隠岐方言は雲伯方言に属している。


「勉強になったな〜」

 霧子は記念から出て大きく伸びをした。

 突然、暗雲が立ち込めた。

 赤ん坊を抱いた化物が現れた。

「海女房だ」と、安吉。

「海を住処とするが、陸上でも数日間程度なら生きていることができる。海で水死した女性の化身だ」

 海女房は鱗とひれを持ち、ずんぐり太っており、長髪。さらに指の間に水掻きを備えた半魚人のような姿だった。

 雛罌粟はトランクルームからショットガンを出して、霧子に渡した。怪物が怖いのか雛罌粟は運転席に避難した。

 海女房は霧子の首筋を水掻きで切りつけてきた。

「あぶない!」

 安吉はホルスターからPBを取り出した。PBは1960年代に当時のソビエト連邦で開発された消音拳銃である。

 PBは東西冷戦期の1967年にPMをベースに開発され、主に暗殺等の特殊任務用途で使用された。

 運用の性質上、本来は機密扱いの兵器であったため西側諸国は長らくその存在を把握していなかったが、1970年代後半に勃発したアフガニスタン紛争でスペツナズの装備品が鹵獲されたことにより存在が公となった。

 

 基本的な操作方法やグリップ周辺のシルエットはベースとなったPMと殆ど同一であるが、高度な消音機能を持たせるために半一体型のサプレッサーを装備している点が異なっている。

 外付けサプレッサーはねじが切られており、使用時には内蔵サプレッサーを兼ねた銃身に装着する。これには発射時に発生したガスをサプレッサー内で分散させる役割があり、ほぼ完全な消音を実現している。なお、外付けサプレッサーを装着せずに発砲することも可能である。

 また、リコイルスプリングは一般的な自動拳銃とは異なり、L字型の部品を介してグリップ内部に組み込まれている。これはサプレッサーの構造上、リコイルスプリングを組み込む物理的な余裕がスライド内に確保できないためである。

 グリップパネルの意匠がPMで採用されていた丸の中に星型を配した形からダイヤ形に変更されている。

「死ねぇっ!」

 安吉は両手で銃を構え、海女房を狙ったが被弾したのは霧子だった。肩の辺りを撃たれたが、「オナレオナレ」と呪文を唱えたら傷口が塞がり出血が止まった。

「純情そうな顔してエロいこと言うな?ますます気に入った」

 安吉の霧子へのラブ度が70%から80%に上昇した。

 霧子は「ベトベト」と呪文を唱えるとフワフワ浮遊した。電信柱の天辺あたりの高さからショットガンをぶっ放して海女房を倒した。

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