第3話 彼は魔法使いだった。
深夜、祥吾さんが眠っていることを確認してトイレに入った。恐る恐る、携帯電話の電源を入れる。着信は百件を超えていたが、今日の朝方からはぴったりと止んでいた。私は何度か深呼吸をして、通話ボタンを押す。
一分ほどのコール音の後で、ようやく繋がった。
『お前、今どこにいるんだよ』
父は、思っていたほどは怒っていなかった。むしろ不気味なほど落ち着いていて、淡々とそう尋ねてきた。私は「えっと」と答えを濁す。とにかく、通報などしていないか確認したいだけなのだ。
『まあいいや。もう帰ってくるんだろうな?』
「あ、明日には帰るよ」
『あ? 明日の朝飯はお前が作るんだろうな? って訊いてんだけど』
「それはちょっと……難しいけど……」
『じゃあどうすんの。明日も俺が買って食うの?』
どうすんの、と言われても。
イライラし始めたらしい父が、『お前はさあ』と大きめの声で言う。
『今、自分が何してるかわかってないの? 家出のつもりか? じゃあもう二度と帰ってくんなよ。さっきのはまだ今なら許してやるって意味だったの、わかる? 何なの、その態度はさ』
「……。いいけど、別に。帰りたいと思ってないし……」
『あ?』
電話の向こうで、何か大きな音がする。父が何かを壊した音だ。私はちょっと耳を塞ぎながら「やめてよっ」と悲鳴を上げる。
幼い頃――――母が出て行って数か月、父も私もコンビニの弁当を食べていた。見かねた父方の祖母が家にやってきて、私に料理を教え込んだ。『パパは仕事をしているんだから、家のことはあんたがやるのよ。それが役割分担なんだから』と祖母は言った。今思えば、私の役割はその頃から彼らの奴隷に徹することだった。
「今、友達といるの。お願いだから邪魔しないで。これで最後でもいいから、この旅行だけはいい思い出にしたいの」
『お前……まさか、あの気色悪い男とまだ一緒にいるのか……?』
すうっと息を吸う。自分でも信じられないくらい冷たい声で、「パパの方が、気持ち悪いよ」と言っていた。そのまま電話を切って、電源を落とす。
天を仰いだ。トイレの電気がぼんやりと橙色に光っていた。
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翌朝目を覚ました祥吾さんに、昨夜のことを報告する。私はもう冷や汗だらだらで、「祥吾さんの立場まで悪くしちゃってごめんなさい」と謝った。祥吾さんはきょとんとして、私の背中を叩いた。「やるじゃーん、いえーい」ともう一度叩く。病人と思えない力強さだった。
「じゃあどうする? 今から、役所かどこかに行って相談する? なんかそのまま保護してもらえるところがいいわね」
「えっ」
「それくらいなら付き合うわよ。乗り掛かった舟ってやつ。まあその前にアタシが捕まる可能性もあるけど。あ、いっそ警察に行くか。話が早そう」
例のごとく祥吾さんは早口でそんなことを言って、私を置いてけぼりにする。「こういうのはちゃんと調べた方がいいか」と言いながらスマートフォンを眺め出した。
「えっ、と……」
「嫌? 父親と離れて暮らすの」
「ううん。でも、」
「でも?」
「そんなことできるのかな……」
「そりゃ、やってみないことにはわからないわよ。とにかく、あんたがその気になったんならよかった」
善は急げ、と言って祥吾さんは荷物を詰め始める。私はまだ混乱していたが、何とか散らかしていた自分の荷物をまとめることにした。
不意に、チャイムが鳴る。部屋のチャイムだ。祥吾さんが手を止め、ドアに近づく。「何?」と端的に尋ねた。
「警察の方が、お話をしたいとお見えです」と、ドアの向こうで声がした。
私はハッとする。ダメ、と叫んだ。「開けないで、祥吾さん」と。
しかし彼はすでにドアを開けており、そしてそこには父がいた。
「うわ」と祥吾さんの声がする。私からは何が起こっているか見えない。ただ、ドッと鈍い音がして父の姿が消えた。間髪入れずに祥吾さんがドアを閉める。
父の喚き声が聞こえた。「おめえどこにいるんだよ、クソガキ。出てこいコラ」と、恐らくは私のことを呼んでいる。私は震えて、動けないままでいた。
こちらに戻ってきた祥吾さんのお腹に、見たことのあるものが刺さっていた。家にあったナイフだ。
私は呆然としていた。祥吾さんはナイフを押さえながら「いってえ、マジ……バイオハザードかよ」と顔をしかめている。
「びっくりしすぎて足が出ちゃったよ。……さすがに萎えたな」
「さ、刺されてる……」
「言われなくてもわかってるよ、そんなことは」
ふう、と長めのため息をついて祥吾さんは服をめくって見ている。「あーあーあー」と信じられないような顔をした。「あんた、あんなのと一緒に暮らしてたの? よく今まで生きてこられたわね」と肩をすくめる。
それから彼はスマートフォンを取り出し、「父親のこと、犯罪者にしたくない?」と尋ねてきた。私は首を横に振る。祥吾さんは軽く頷いて、端末を耳に当てた。
「もしもし? えーっと、救急。はい、お願いします」
彼はホテルの名前と部屋の番号をすらすら答える。異様な空間だった。祥吾さんはひどく落ち着いているが、血の匂いは濃く、私の鼻をついた。
「ちょっとその……ストーカーみたいなのが外にいて……結論から言うと刺されちゃったの。そう。ナイフナイフ。たぶんナイフ。今も刺さってる。抜かない方がいいでしょ? そうよね。まあ抜けって言われてもそんな勇気ないけどアタシ」
言いながら祥吾さんはベッドに腰かける。いまだドアの前で喚いている父の声に顔をしかめて、「部屋の前に刺したやつがまだいる」と伝えた。
「ぎゃあぎゃあ言いながらめっちゃドア叩いてる。あーそれはたぶん大丈夫。ドアは頑丈。あ、パトカーも呼んでくれるの? 助かるー。
えっとね、8センチぐらいかしら……わかんない。それでお腹の、真ん中から5センチぐらい左。いや、アタシから見て左。いやいや、刺されたのはアタシ。そう、アタシ。そうそうそう。大丈夫……ではないけど……。生きてる。
ストーカーはアタシのじゃなくてツレのストーカー。てかツレのやばい親。血は出てるけど、何と比べて伝えればいい? ウォシュレットほどの勢いでは出てない。ウォシュレットほど出てたら死んでるわよね、自分で言ってて超ウケちゃった今。
というか喋ってて思ったんだけど、ホテルのフロントに言っといたほうがいいかしら? そりゃそうよね、普通に考えてそうよね、ありがと。じゃあよろしく」
そう言って祥吾さんは電話を切った。億劫そうに立ち上がって、ベッドの枕元にある客室の内線電話を手に取る。恐らくフロントに電話をかけているのだろうが、繋がるまでに彼はそこにあった高級そうなティッシュペーパーを雑に出しまくってナイフが刺さっている辺りに当てた。真っ白なティッシュが一瞬で赤く染まっていく。
ようやく繋がったのか、「もしもーし」と彼は言う。
「303号室の者なんだけどー。あのね、今から警察と救急車が来ると思うの。アタシが呼んだから。
ごめんなさい、そっちに先に話を通しておくべきだったんだけど、アタシも気が動転しちゃって……。それでね、ちょっとこっちの個人的な問題で申し訳ないんだけど、ストーカーに居場所がバレて、このホテルまで来ちゃったみたいなの。で、今そいつが部屋の前にいるんだけど……。本当にごめんなさいね。できれば他のお客さんを避難させたり、部屋から出ないように注意喚起したりできる?
救急車を呼んだのは、アタシが刺されたから。そう。大丈夫ではないけど気にしないで。こっちの問題だから。
……なんで泣いてるの?
そりゃこんなこと、みんな初めてよ。そんな泣かなくてもいいじゃないのよ。お願いだから上の人に代わってくれる?」
しばらく黙って受話器を耳に当てていたが、「保留が長すぎる」と言って祥吾さんは電話を切ってしまった。「なんかよくわからないけどダメみたい。昨日から入ったバイトの子なんだって」と困惑した様子を見せる。
「ティッシュペーパーもひと箱無駄にしたし、シーツも汚したし、出禁ねアタシたち」
そう、残念そうに言った。
私はパクパクと口を開けたり閉じたりして、視線を泳がせる。
「ごめんなさい……私が、パパの言うこときかなかったから……」
「言うこと聞かなかったってだけでナイフ振りまわすような父親はいないわよ。そこで震えてるだけならこっち来なさい」
そう言って、祥吾さんはナイフを押さえながら私の腕を強引に引っ張った。そのまま部屋の奥へ進み、洗面台の前に押し出される。ここまで来ると、父の声はほとんど聞こえなかった。
それから彼自身手を洗って、私の顔をタオルで雑に拭く。「泣いてんじゃない。涙の跡がつくでしょう」と叱った。
彼は自分のポーチを開けて、私の顔を優しく撫でた。
「こっち見て。しっかり見て。あんた、結構綺麗な肌してるわね」
「何するの?」
「
せいぜいがリップクリーム止まりの私には、彼が何をしているのかよくわからなかった。途中で「あんた絶対目閉じるんじゃないわよ。いま目閉じたら絶交だからね」と言われた時だけすごく頑張って目を見開いていた。
「あのね、ふふみちゃん」
「……一生こするじゃん」
「一生擦るわ」
祥吾さんはくすくす笑った。「だってふふみちゃんって可愛いじゃん」と言う。彼が言うならそうかもな、と私は思った。
「あんたは面白い子だし、可愛い」
「祥吾さんほどじゃないよ」
「誰と比べてんのよ、あんた。誰とも比べる必要ないのよ、馬鹿ね。たまたま、あんたとアタシが出会って、アタシはあんたのことを面白いし可愛いって思った。他の誰かじゃなく。わかる?」
「あなたは優しいからそう言う」
「アタシがあんたに優しくしたのは、優しくしたいってあんたに思わされたからよ」
彼は服の袖で、額の汗を拭う。顔色が悪かった。
「アタシが魔法使いだって言ったら信じる?」
「あなたの言うことなら何でも信じる」
「あんたの呪いをときに来たのよ」
それから、彼に促されるままに鏡を見る。
私はそっと、鏡に触れて自分の唇の辺りをなぞった。可愛い色、と呟く。
色付きのリップクリームを買っただけで『色気づくな』と父に怒られた。ピンク色の唇は私の夢だった。
鏡の中の、私の頭を撫でた。それから自然に、顔が綻ぶ。「よかったね。可愛いよ、ふみちゃん」と、目の前の女の子に言ってあげた。
どれ、と祥吾さんが私の顎に手を当てて上を向かせる。
「俺の最後の作品をよく見せな」と彼は目を細めた。汗が滴り落ちる。痛みを抑えるためなのか、呼吸が浅いように思えた。「うん。可愛い。さすが俺」と彼は笑った。
「あー、泣くなよ。せっかくこんなに可愛くしたのに。まだ写真も撮ってないんだぞ」
そう言って彼は私を抱きしめる。崩れるようにして二人でその場に横になった。
「私、あなたみたいになりたい」
「なりたいと思ったら、その瞬間からそれはもう自分の一部なんだ」
「本当のあなたはどれなの?」
「全部本当の俺に決まってる。服を着替えるようにして、自由に生きてきた」
彼は私の頬を撫でて「布団持ってきてくれる? 寒い」と言う。私は頷いて「待っててね」と立ち上がった。
洗面室を出ると、未だドアを叩く音が聞こえていた。私はそちらを一瞥して、ベッドまで歩いて行く。
パパ、と小さな声で呟いた。
ドアの向こうにいる父のことを考える。不思議だった。こわかったけれど、震えるほどではない。私はこの人がいなくても生きていけるんじゃないかと、その時ふと思った。実のところ奴隷に依存しているのは父の方で、私は父がいなくても生きていけるのではないか。
何が私を縛るだろうか。父がどうして私を引き止められるだろうか。私は父のことが嫌いだ。嫌いなのだ。初めて、はっきりと自覚した。私があの人のためにしたいことなど一つもない。
バイバイ、パパ。そう言って、私は布団を両腕に抱いた。
洗面室に戻る。祥吾さんは目を閉じていた。私は彼に布団をかけて、肩を叩く。祥吾さん、と呼びかけた。
「祥吾さん、あのね。こんな日が来るなんて信じてなかった。なのにいきなり奇跡が私の腕を掴んで、あそこから連れ出したの。あなたが私の尊厳を取り戻してくれた。本当に、魔法使いだったんだね」
サイレンが聴こえる。救急車かパトカーか、私にはよくわからなかった。父は逃げ出すだろうか。それとも興奮のあまり何も聴こえていないだろうか。あの人も病気だったのかもしれない、と私は思う。それでも、私にはもう関係ないことだ。
祥吾さん、あのね。私はもう一度囁く。
「世界がこんなに嫌いでこんなに好きで苦しいな。私、あなたより先に恋が何なのかわかっちゃった。たぶんそれは……あなたの視線も、あなたの声も、あなたの表情も、あなたの全てを、際限なく欲しいと思う気持ちなんだね」
私は瞬きをする。冷たくなった涙が、ついでみたいにこぼれた。「まだ足りないよ、祥吾さん」と私は言う。
数分後に警察官だか救急隊員だかが、いり乱れて部屋に入ってきた。私はどこも怪我などしていなかったにも関わらず、上手く説明できなかったがために救急車に乗せられる。あるいは過呼吸を起こしていて、処置が必要と見なされたのかもしれない。祥吾さんとは別々に病院に運ばれた。
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