第9話 洞穴

 猟師の言葉通りの場所に、洞穴があった。入り口は狭くて衣服が岩に擦れるほどだが、中は意外と広く、なにより天井に空いた隙間から陽が差し込んでいる。おかげで蝙蝠や虫の類がいない。

 空気が循環しているから、火も熾せる。

 背嚢に入れていた瓦器の鍋で野草と鹿の臓物を煮込むと、じきに脂が溶けて香ばしい良い匂いが立ち昇った。

「ねえ、胡人」

 食い入るように鍋を見つめていた玲姜が、いつの間にか麟に視線を向けている。目で続きを促した。

「あなた、どうして管宰相の家人なんてやってるの」

「成り行き」

「真面目に答えてもくれないの?」

 怒りというよりも寂しさを感じる口調に、言葉がつかえる。ため息が零れた。聞いていて盛り上がるような話ではない。

 興味本位なら聞くなと言いかけて、目が合った。先程のやり取り以降、どうも彼女の黒い瞳に苦手意識が芽生えつつある。

 結局、先に目を逸らしたのは麟のほうだった。

 面白い話じゃないと前置きをして、ぽつぽつと郷里のことを話した。父のこと、母のこと。羊と馬のこと。戦と師父のこと。

 上手く伝えられたとは思えない。ただ、玲姜は誠実な聞き手だった。

 思えばこうやって、誰かに過去を語るのは初めてだった。

 聴き終えた玲姜は、ぽつりと零れたように言った。

「───じゃあ。斉は、あなたの仇じゃない」

 恨んでいないの。問いかけに、首を振った。

「最初の一年は、恨んでた。でも師父から、胡人のことを教わって、何だかよく分かんなくなった」

 一口に「胡人」といっても、その実態は様々だ。東胡、林胡、戎狄、山戎その他諸々。氏も違えば、生活様式も異なる。率いる家畜の種類も、喋る言語も違う。完全な騎馬遊牧民もいれば、半農半牧の生活を送る部族もいる。

 ただし、概ね共通する部分もある。侵略と掠奪が生活の一部だという点だ。それ故、弱さも老いも罪であり、強さこそが貴ばれる。

 殺して奪うことを是とする狼の裔。

 騎馬の民。

「私の氏族は、ずっと燕国を襲ってたんだ。限界になった燕が斉に助けを求めて、それで斉が山を越えて攻めてきた」

 あの戦は、中原の民による報復だった。それも正当な。

 初めてそのことを師父から聞いたときは、それこそ噛み付くような勢いで否定したものだけれど。

「時折、父さんがふらっといなくなることがあったんだ。そういうときは必ず、羊か馬を連れて帰ってきた。織物や銅器のこともあったけど、あれは、きっと」

 燕国の民を殺し、掠奪して手に入れたものだった。

 麟の言葉に、玲姜が、足を曲げて膝を抱いた。

「そういう話を師父から教わって、よく分からなくなった。父さんの生き方を否定はしないけど、理不尽に死んだとも思わない」

 戦って、負けた。相手の方が強かった。だから死んだ。

 それだけなのだと、今は思う。

「私の仇は、無抵抗だった母と弟を殺した男たちだよ。それはこの手で殺した。その報復で殺されかけて、師父に救われた。だから、師父には感謝してる」

 一息に言って、付け足した。「少なくとも今は」

 それが、嘘偽りのない本心だった。

 だからこそ、この任を果たそうとしているのだ。

 玲姜の手のひらが、麟の頬に伸びる。柔らかな親指の腹が、目尻を掠めた。指先に透明な雫がついていた。

 それでようやく、涙が溜まっていたことを知覚した。

「……話し過ぎた」

 横を向く。昼間とは違う、不思議と心地よい羞恥が、頬に熱を与えていた。

 こんなこと、話すつもりじゃなかったのに。

「ねえ、胡人」

「なに」

「名前。教えて」

 思わず瞬きを繰り返した。言った玲姜の頬も、淡い桃色に染まっている。それが何だか可笑しかった。

 そのせいか、するりと言葉が出た。

「───麟。師父がくれた字」

 本当の名前は伏せた。きっと彼女も、正しく発音できないだろうから。

「そう。麟、ね」

 麟、麟、と鈴を鳴らすように言葉を転がして、玲姜が微笑む。麟は、自分の字がこんなにも美しく発音できることに驚いた。

「瑞獣の名だわ」

 玲姜は、麟が初めて見る表情をしていた。それはまるで、雪下に芽生えた花が、春に綻ぶようで。

 この子はこんなにも綺麗なのだから、やっぱり自分とは違う生き物なのだろう。そう思った。

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