第10話 彭城


 洞穴に潜んで三日、鹿肉で食い繋いだ。毛皮を路銀に変えるか悩んだが、市で売れば悪目立ちする。やめておいた。

 玲姜は慣れない山の水と獣肉に腹を痛め、何度も泣きそうな顔で洞穴の外に飛び出していった。

 そういう非常時以外も、洞穴にこもり切りだったわけではない。それでは神経が持たない。麟が周囲を探って、何の気配がないとなれば、二人で周囲の山道を散策した。比較的近くに棗の木が一本だけあって、青い実を見た玲姜が「なにこれ?」と首を傾げた。育ちのせいで、干して赤くなった棗しか知らないのだ。それを指摘すると、半日ほど不機嫌になった。翌朝にはけろりとしていたけれど。

 夜は、火を囲んで、とりとめのない話をした。お互いに退屈だった。麟は主に草原の食べ物について語り、玲姜は鄭で流行っている音楽について話した。鄭は周王朝と血が近く、洗練された文化を持つ国だ。

 そうして案外、瞬く間に三日が過ぎた。

「いい、公女殿下」

 天井の裂け目から差す午後の光が、褐色の土を照らしている。麟は棒を手に、洞穴の地面に周辺国の概略図を描いた。

「今、私たちがいる山がこの辺りで」バツを付ける。

「営丘がこの辺り」

 もう一つバツを付け、二つのバツを結ぶ線を引いた。微山湖を周り、魯を経由して営丘へと至る線。

「これが、営丘を出てから通ってきた道」

「……そうね、馬車で十日も掛けてね」

 本来なら、馬車は日中に二百里(約八十キロ)は移動できる。それだけ掛かったのは、やはり貴人を抱えた集団だったからだ。

「道にも寄るけど、ここから営丘まで、ざっと千里(約四百キロ)はあると思う」

 自分で口にしておいて、「千里」という言葉に嫌気が差した。それは玲姜も同様だったらしく、うっかり酸っぱい葡萄を噛んだような顔をしている。

「徒歩だと、まあ、日に五十里(約二十キロ)が限度だろうから、単純に考えて二十日は掛かるね」

 口には出さないが、おそらく麟一人ならその倍以上の速度で歩ける。ただ、それを玲姜に求めるのは無理な話だろう。

「……えっと、その。道中で馬車を手に入れるのはどう、かしら?」

「駄目。目立ち過ぎる」

 縋るような玲姜の提案を、麟は、ばっさり切り捨てた。二輪で走る馬車や牛車は貴人の乗り物だ。随伴もなく街道を走っていては目立ってしょうがない。

「それにきっと、馬車が通れるような街道には関所が設けられてるよ。とっくに魯国中に早馬が出てるだろうから」

「じゃあ馬を買って」

「へえー、乗れるんだ?」

「……の、乗れるかもしれないじゃない……」

 冷めた麟の視線に対抗するように、玲姜が唇を尖らせる。

 まあ、まず無理だろうなと思った。内腿で躰を固定できずに落馬する姿が目に浮かぶようだ。以前父がしてくれたように、麟が懐に抱くようにすれば何とかなるかもしれないが。

「……いえ、やっぱり無理ね。落馬するのがオチだわ」

 玲姜が、しゅんとして膝を抱えた。

「麟は、乗れるんでしょう。凄いのね」

 殊勝な言葉に、少し面食らう。首筋がくすぐったいような、不思議な感覚だった。父や師父に褒められるのとは、何かが違う。

「大したことじゃないよ。草原の民なら、誰でも」

「馬に乗れる中原の女なんて、きっと十人もいないわよ。邑姜様みたい」

 記憶の糸をたぐって、その名前を探った。たしか周の武王の配偶者で、反乱鎮圧の軍を率いたと伝わる女傑だ。四百年近くも過去の話であるはず。

「いつか私も、乗ってみたいな。そうしたら、中原の果てまで行ける気がするの」

 馬が潰れる、と言おうとして、やめた。そういう現実の話をしている訳ではないことくらい、麟にも理解できていた。

 なんだか妙な雰囲気になった。咳払いをして、立ち上がる。背嚢を背負って、洞穴の入り口へ向かった。

「そろそろ出発しよう。今なら、日が暮れる前に彭城に着けるから」

 彭城は、このあたり一帯の中心となる邑だ。邑といっても城郭に囲われた都市で、人口も多い。となれば相応の規模の市が立つ筈で、そこでなら旅支度を整えることができるだろう。


  †


 山を降りて彭城の城郭が見えてくるころには、日が傾き始めていた。邑の外には農作地が広がり、麟の背丈ほどもある粟の鋭い葉が、そよ風に揺れていた。農具を納めるための荒屋を横目に、足を早める。

 日が落ち切れば、城壁の門が閉じてしまう。つまり野外でもう一泊だ。是非ともごめん被りたい。

 踏み固められた土道を早足に進んで、ようやく辿り着くと、監門(門番)が一人、安い作りの矛を手に立っていた。

 どうにか門限には間に合ったらしい。ただ、こちらを見る目に露骨な不審がある。

「おい、止まれ」

 足を止めて、ちらりと顔を覗く。四角四面、という印象の男だった。いかにも職務に忠実そうだ。この辺は魯よりも徐の影響が強い。手配の触れこそ届いてはいないだろうけれど。

 いずれにせよ、騒ぎは起こしたくない。

「見ない顔だな。城内の者か」

「ええまあ、はい」

「初めて見る顔だが」だろうね。「胡人だな」

 監門が、麟の瞳を覗き込んだ。身の丈ほどの柄を握る手に力が篭り、血管が浮き出している。

 麟は、それを冷めた目で見ていた。

 胡人とは、そういう存在だ。中原の民にとって、馬に乗り弓を構えた胡人の姿は、恐怖そのものと言っていい。むしろこの程度の反応で済んでいるのは、ここが胡や夷狄の地から離れているからだ。

 監門が、一層低い声を出した。

「城内にも胡人はいるが、お前くらいの娘はいない筈だ」

 真面目な上に優秀だった。とうとう半眼になった男が、ゆるりと矛の柄を傾け始める。

 ───ここまでかな。

 丁度、玲姜と目が合った。視線で促す。

 すい、と彼女が前に出た。

「どうかお待ちくださいませ、旦那様」

 伏せた睫毛に涙の玉が浮かんでいる。段取りどおりとはいえ、見事な芝居だった。

「ご存じないのも無理なからぬこと。妾は妓楼に売られたばかりの見習いでございます」

「なに?」

 玲姜は土に汚れた袖で目元を覆い、よよと目尻を拭う真似をする。

「郷里の口減らしで身売りされたはよいものの、父母恋しさはどうにもならず、荷駄に紛れて逃げたところを、この」

 いかにも恨めしそうな流し目で麟を見上げて、

「血も涙もない追手に捕まり、ついに連れ戻されたところ」

「そ、そうか。道理で」麟の腰に吊られた剣に目をやり、「お前、妓楼の婢女(女奴隷)だったのか」

 監門の男は、佩剣する婢女とは世にも珍しいが妓楼の者ならそういうこともあるか───と、勝手に納得した。

「左様にございます。見たところ、旦那様はそのような場所にはご縁がない真面目なお方」

「お、おお。無論だ」

「ならば顔を知らぬのも無理はありますまい。妓楼の者は滅多に外出しませぬ」

「なるほど……」

 麟は、袖に隠れた玲姜の顔を覗き込んだ。丸い目に悪戯っぽい光が宿っている。

 監門は、もう、すっかり同情していた。

「かような器量良しがなぁ。生まれが生まれなら引く手数多だろうに、口減らしとは」

 ご時勢とはいえなんたる無道、実は俺にも娘がいて云々。

 ちょっと涙ぐんでいる。

 頃合いを見計らって、言った。

「……で、通っても?」

「通れ通れ。しかしお前、せめて父母と一目合わせるくらいの憐憫というものをだな」

 はいはいと適当に相槌を打って、城門を抜けた。

 しばらく街路を歩いてから、ふふんと玲姜が鼻を鳴らして、胸を張った。

「どう? 営丘の劇団も顔負けだったと思うのだけど!」

 洞穴で過ごす間に、どういう体で邑に入るか議論した。あの小芝居を言い出したのは玲姜のほうだ。

「妓楼上がりの女官がいてね。色々教えてもらったのよ」

 ふふふん。

 調子に乗っている。

「上手だったよ。正直、助かった」

 誉めておくことにした。調子に乗りっぱなしになられても困るけれど、それはそれだ。麟一人だったなら、もっと苦戦しただろう。胡人であること以前に、嘘が苦手な性質だから。

 斜め下を見ると、玲姜が長い睫毛をぱちりと持ち上げて、満月のように目を見開いていた。

「何よ」

「びっくりした。絶対、皮肉の一つも飛んでくるかと」

 人を何だと思っているのだ。

 お望みなら一言文句を言ってやろうと口を開きかけて、くつくつ笑う楽しげな横顔に、なんだか気勢を削がれてしまった。

 泥だらけの沓をぱたぱたと忙しなく動かして、玲姜が、くるりと麟の前に躍り出る。手のひらに柔らかな熱を感じた。軽やかに手を引かれて、足がたたらを踏みそうになる。

「ねえ、麟。宿が閉まってしまうわ。走りましょ?」

「───うん」

 何故だろう。鈴を鳴らすような声で字を呼ばれると、不思議と逆らう気が起きない。玲姜に引かれるまま、麟は藍色に染まる彭城の邑を駆けていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る