第8話 狩人
戻ると、元の場所には背嚢だけが置かれていた。
雪玉が滑り落ちたように、背筋がぞくりと冷える。
「こっち!」
茂みから声が聞こえて、胸を撫で下ろしながら近づいた。
「ちょっと、驚かせないでよ。はい水筒」
「だっていま───お水⁉︎」
むしりとるように竹筒を奪った玲姜が、栓を抜いて水を飲み始めた。こくこくと白い喉が必死に上下する。ようやく飲み口と離れた唇から、吐息が溢れた。
「───冷たい。美味しい」
仕草に何だか匂い立つようなものを感じて、思わず目を逸らす。そのまま尋ねた。
「で、何してんの」
「そうだったわ。ねえあれ、あれ見て!」
視線を追う。岩肌に面した細い木々の合間に、明るい茶色の毛並みが覗いていた。すらりと伸びた首に、緩やかな弧を描く鼻筋と大きな目。距離はあるが、麟の目には背中の白斑までくっきりと見えた。
「牝鹿だ」
「そうよね! 私、初めて見たわ!」
声がはしゃいでいる。ぺしぺしと背中を叩かれながら、一体何が嬉しいんだろう、と内心で首を傾げた。弓も罠もないのだから、狩れるわけじゃないのに。
視線の先で、牝鹿は悠然と葉を食んでいる。
ふと。
ちり、と首筋のあたりに焼くような感覚があった。いつでも動き出せるように、屈んでいる足の筋肉に力を込める。そっと佩剣の柄に指先を掛けた。
牝鹿が首をもたげる。
静かな、しかし鋭い意志を感じた瞬間、微かに弓弦の音がした。
───違う、「こっち」じゃない。
麟の安堵と同時に、牝鹿の喉に矢が突き立った。
細く長い四肢がぴんと伸び上がる。「えっ」「静かに」柄を握る手とは逆の手で、困惑する玲姜の口を塞ぎ、息を潜める。
矢が飛んできた方位と角度から、射手の位置は当たりがついた。右手方向、木の上。
予想は当たった。
毛皮を羽織った男が、ばさりと梢から飛び降りた。手に、粗雑な拵えの短刀を持っている。
彼は這うように駆けて、なめらかな手つきで刃を鹿の首に刺し込んだ。四肢を折って鹿が倒れる。玲姜の口に当てた手から、息を呑む感触が伝わってきた。
地元の猟師だろう。罠も使わずに仕留めたのだから、腕利きと言っていい。
ちょうどいいな、と思った。
「腑分けが終わったら、肉を貰おう」
自分自身で口元を塞いでいる玲姜をその場に残して、立ち上がる。背嚢から取り出した短刀を帯に差し、両手を上げたまま近寄った。十分な距離を残した時点で、声を掛ける。
猟師の顔が上がる。硬そうな髭をまばらに生やした、壮年の男だった。男は低い声で言った。
「───女が何故、山にいる」
声に、驚いた様子はなかった。やはり、最初からこちらに気づいていたのだろう。
「手伝うから、肉を分けてくれないかな」
「あの絹を着た女は、お前の連れか」
猟師が、玲姜のいる藪に視線を向けた。
鳶色をした目の端に、ぎらついた欲の色を感じる。
山中で暮らしていても、都城の陥落は知っているだろう。その時期に絹を着た女が山歩きをしていれば、誰でも都落ちした貴人の子女だと予想する。多少の金品を身に帯びているだろうとも。
あるいはもっと単純な色欲か。
両方かもしれない。
麟は、素知らぬ顔で話を続けた。
「そんなとこ。それより肉が悪くなる。手伝うよ」
「……分かった。腿一本、くれてやる」
「ありがとう」
薄っぺらな笑顔を張り付けて歩み寄る。そうして帯から抜いた短刀を、まだ温かい鹿の腹に突き立てた。
やはり猟師は腕利きだった。筋を断ち、皮を剥ぐ。その手際とむせかえるような血の匂いに、父の記憶が蘇った。
父とは、一度ならず狩りを共にした。主な狩場は、中原と草原を分かつ青い山々の麓だ。父の技量は、達人の域に達していたのだろう。馬乳酒に酔うと、時折、俺は目を瞑っても的を外さないなどと豪語していた。
本当に目を瞑って獲物を射るような真似は、一度たりとしていない。少なくとも、麟の前では。
いつだって、弓を放つその刹那、麟と同じ緑の眼は、懸命なほどの真剣さを湛えていた。そして、一度も的を外すことはなかった。
下手な射手は鹿を苦しませる。だから上手くなれ。
───上手に殺せ。
そう教わったことを思い出した。
麟は、傍らの猟師を覗き見る。
「ねえ。この辺で身を隠せる場所ってないかな。洞穴とか」
「まあ、無いこともない」
尋ねると、あっさり教えてくれた。半里ほど登った場所にある櫟の大木の裏に、虎が冬を越す洞穴があるという。
男が、どしりと肉が付いた鹿の脚を掴んだ。片膝を突いた姿勢のまま、それを麟のほうへと押し出す。
「ほら、腿だ」
猟師の視線が、じろりと麟の身体を舐めた。
「訳ありなんだろう。洞穴まで案内してやる」
「ありがとう。でも、まず他の肉を包まないと」
頷いた猟師は、背を丸めて、切り取られた背肉を汚れた麻布で包む。麟はそっと立ち上がって、枯れ枝を踏まないよう半歩だけ歩き、猟師の背後に回った。
淡い色味をした毛織物の襟から、土で黒く汚れた首筋が覗いている。血管の位置さえ、透けているように把握できた。
そして、麟は、
「よし、それじゃあ」「ごめんなさい」
その首筋に短刀を押し当て、一息に掻き切った。
上等な鹿の背肉と腿肉、心臓。それから猟師が持っていた弓と矢筒に、幾らかの刀銭。懐にあった山菜。最後に麻の上着と袴。
要は身ぐるみ一式剥いで戻ると、ぽかんと玲姜が口を開けていた。予想どおりの反応だった。麟は、できる限り何気ない口調で言った。
「隠れ家の目処、ついたから。移動して朝餉の支度をしよう」
手にした腿を掲げる。玲姜が、呆然としたまま言った。
「───な、何で殺したの」
「山狩りの基本は、地元の猟師への聞き込みだから。放っておいたら、必ず魯の連中はあの人まで辿り着く。そしたら、私たちが生きてることも、位置も伝わる」
特に前者が致命的だ。「玲姜は山中で行方不明のまま死んだ」という筋書きが一番望ましい。
三日分の肉や弓矢が欲しかった、というのもあるけれど、この場でそれを口にする必要はなかった。
「だからって」
「あの男だって、こっちを襲うか殺す気だったよ」
多分ね、と内心で付け加える。
ぱくぱくと口を開けていた玲姜が、きゅっと押し黙った。柳眉の間に力を込めて、苦いものを咀嚼する子供のように目を閉じている。実際、こくりと喉が鳴っていた。
そうして目を開くと、
「───分かった」
とだけ言った。
焚き火の前で見た、あの目をしていた。燻る黒炭のように、奥の方で赫赫と熱を放つ目。
炭の色をした瞳が、ひたと麟を見据えた。真っ直ぐに。
「働きに感謝するわ、胡人。でも、死者を辱めるような真似はやめて。ここは中原で、あなたは私の女官なんだから」
「辱める?」
「衣服を剥いだでしょう」
獣の皮を剥ぐのと、何が違う。そう言いかけて、ぐっと息を呑んだ。
幼子のように柔らかな手が、麟の頬に触れていた。
「あなたの指示には従う。でも、あれは駄目」
恐怖でも稚気でもない、もっと真摯な何かが、手のひらを通して心臓の奥にまで伝わってくる気がした。
「駄目だからね」
強烈な羞恥を覚えて、かっと頬が赤く染まる。恥知らず、と叱責された気がした。真っ白な玲姜の美しさが、それを煽った。
ふいと顔を背けた麟は、その場に肉を置き、猟師の元へ戻っていく。熱が、頬から消えない。藪をかき分ける手つきが乱暴になった。
脱がした服を死体に着せる。血に汚れた指先で、玲姜に触れられた頬を撫でた。まだ、熱い。
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