第3話 襲撃

 そして今回も、師父の懸念は当たった。

 二頭立ての戦車十乗と貴人が乗る為の馬車、護衛の兵士とお付きの女官、締めて五十名を超える一団は、那国の都城にほど近い峡谷で待ち伏せを受けた。間違いなく魯国の軍勢だろう。指示を飛ばす声に訛りがあった。

 公女の輿入れとはいえ戦車十乗は破格の厳重さだが、あくまで盗賊対策だ。動きの鈍る峡谷では意味をなさない。ならばそもそもそんな道を通らなければいいのだが、

 ───筮竹で吉方と出たから。

 と言われてしまえば、逆らう言葉がない。そもそも麟は一介の女官であって、道を決めるような発言権はないのだ。

 それでも、出来ることはある。

 峡谷に差し掛かったあたりから、麟は荷物をまとめていた。密かに用意していた動き易い胡人風の服と、火打ち石に火打金。本当は佩剣してしまいたかったが、さすがに憚られたので、父の形見である剣もまとめて背嚢に突っ込んだ。


 はたして。

 夜の幕舎で、夜襲を告げる銅鑼が鳴ったとき、麟は迷わずに背嚢を掴んで飛び出した。

 月のある夜だった。濡れて滑る河原の石の上を飛ぶように駆けながら、横目で護衛隊長の喉に矢が突き立つ様を見た。弓弦の音は鳴り止まないが、最も豪華な幕舎へは矢がほとんど飛んでいない。

 やはり、生捕りの指示が出ている。

 それならやりようはあった。背嚢に手を突っ込んで、愛剣の柄を握って引き抜く。刃が月を反射した。

 玲姜の幕舎に近づいていた人影の喉元に、駆けつけた勢いのまま剣先を突き込む。若い男だと、殺してから気づいた。柔らかい感触と、骨に刃がぶつかる硬さ。懐かしい感触に浸る時間はない。躰から引き抜いた剣を幕舎の布地に差し込んで、十文字に引き裂いた。そのまま飛び込む。


 太い蝋燭の炎に照らされていたのは、三人。

 隅で腰を落としてへたりこんでいる玲姜と、果敢に彼女の前に立ち塞がる女官と、正に入り口から踏み入ろうとしている剣を握った男───今、二人になった。

 女官の腹から引き抜かれた刃先が、こちらを向く。顎髭を蓄えた、壮年の男だった。

その眼が大きく見開く。

「……女か⁉︎」

「是(まあね)」

 戸惑いが、隙になった。二歩で間合いを詰め切った麟は、柄の先を握り、思い切り半身になって右手を突き込む。刃先が喉の肉を抉る、確かな感触があった。鮮血が、夜天に噴き上がる。唇についた返り血を舐めとった。塩辛い。

 倒れた男の腹を踏んで、河辺を覗いた。襲撃は続いているが、見える範囲に人の気配はない。


 振り返って、玲姜の前に立った。幕舎の入り口から青い光が差し込んで、生白い肌があらわになる。そういえば、こんな距離で彼女を見たのは初めてだな、と思った。

 黒曜のような瞳孔が、満月のごとく見開いていて。

 早春の梅花に似た唇が、戦慄いていた。

「───公女殿下」

 右手に剣を握ったまま、左手を差し出す。

 差し出してから、気がついた。左手は返り血に濡れていた。裾で拭こうとして、纏っている抱のどこもかしこも赤く濡れていることを自覚する。鮮血の滴る手を半端に差し出したまま、かける声に迷った。汚れた手で触れるには、玲姜の肌も衣装も、あまりに上等すぎる。

 玲姜が、口を開いた。

 まだ幼く、震えていて、けれど水晶のように澄んだ声だった。


「胡人。あなた、まるで狼みたいに剣を振るうのね」


 ───お前には、狼の血が流れている。

 心の柔らかい場所に、鍼を打たれたようだった。

 麟は再び玲姜を見る。雲に塞がれていた月明かりが、また差し込んでいた。お陰で顔が良く見える。

「下賤だわ」

 少女の顔は、紛れもない嫌悪に歪んでいた。

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