第4話 焚火

 そこから麟は玲姜の手を引き、深山を駆けて那公の居城である都城を目指した。血を浴びた服は早々に脱ぎ捨て、背嚢の胡服に着替えた。そして夜半から昼過ぎまでかけてたどり着いた先で見たのが、あの落城の光景というわけだ。

 予想していたとはいえ、肩を落としたくもなる。

「あの、公女殿下」

 身の振り方を決める必要がある。そう思って麟が話しかけると、

「……葡萄が食べたい」

「はい?」

「蜜が舐めたい。喉乾いた。湯浴みしたい。ふくらはぎが痛い。足の裏も痛い。なんかもう全身痛い」

 何言ってんだこの女。

「そうですか」

「───そうですか? そうですか、ですって?」

 玲姜の眉が、きりりと吊り上がった。元の造りが良いから、そういう顔をすると幼さが消えて凄みが表に出る。

 飼い猫が野良になったな、くらいのことを思った。

「胡人。あなた仮にも私付きの女官でしょう? なにか用意する甲斐性はないの? 葡萄は無理でも木通(アケビ)を探してくるとか! そういう心掛けは⁉︎」

 かちんとくる。もしかしてまだこの事態を理解できていないのか、このお姫様は。

「木通なんてこの山に生えてないです。そもそも今は初夏だし。あの、今の状況わかってる?」

「わかってるわよ!」

 わかってるわ、と繰り返す声に湿り気があった。玲姜が膝を抱えて、俯く。

 麟は楓の幹に背中を預けて、腕を組んだ。脳裏で、とんでもない任務を与えてくれた師父への恨み言を繰り返す。これでは童のお守りと変わらない。

 実際は、物心がついた子供の面倒を見たことなんてないけれど。

 そもそも麟は、こうやって年の近い誰かと話すこと自体、ほとんど初めてなのだ。師父は絶対に人選を間違えている。

「ふん。野蛮人に、笙や王淑のような気遣いを期待した私が愚かだったわ」

 ───この女。本当に売り飛ばしてやろうか。

「へえぇ、そう。それで、その気が効く二人もこの旅に?」

「……同行してたわ」

「それはそれは。ご愁傷様」

 きっと睨んでくるが、それも長くは続かず、また俯く。玲姜自身とっくに気づいているだろうが、護衛兵も女官も全滅だ。何人かは捕虜になったかもしれないが、おそらく二度と会う機会はないだろう。

 人は死ぬ。いつだって、枯れ葉が散るくらい簡単に。

 でも。

 今のはちょっと、言い過ぎたかな。

 ちらりと顔色を伺って、そう思った。彼女は、どこも見ていない暗い目で膝を抱えていた。

 きっと何か声を掛けるべきなのだろう。ただ、こういうときにどう振舞うべきなのか、よく分からない。慰めればいいと分かってはいても、掛ける語彙が見つからないのだ。結果、先ほどのような素っ気ない言葉が口を突く。それが自分の精一杯なのだと理解はしているけれど。

 そういう自分が、多分、好きではない。

 ひとつだけ思いついて、背嚢を開けた。手を入れて、麻の包みを取り出す。

「その。木通は、ないけど」

 ちらりと玲姜が顔を上げた。

「……干した棗なら。食べる?」

 それこそ棗のように丸い瞳が、二度三度と瞬きをした。罠の上に載った餌を探る野兎のような警戒があって、それでも結局、こくこくと首が動く。

 彼女の傍らに包みを置くと、すぐに華奢な指先が赤い実に伸びた。空腹だったのだろう。麟もそうだ。だから、手を伸ばした。ねちっとした甘酸っぱさが口に広がる。唾液が分泌されて、いくらか喉の渇きも誤魔化せた。

 そうやって二人でもちゃもちゃ口を動かしていると、少しだけ空気が和らいだ気がした。

 赤い空を見て、なるべく柔らかく聞こえるように言った。

「じきに日が暮れるから。もう今日はここで休もう」

 麟の言葉に、玲姜が首を傾げる。

「休むって───あの、寝台は?」

 あるわけがない。さすがに返事をするのが面倒になって、麟は薪に使えそうな枯れ枝を拾いにいくことにした。


  †


 剣の根本で枝の皮を切りつけ、おがくずで火口を作る。火打ち石と火打金を打ち付けて、着火した。煙で追手に見つかる懸念はあるが、獣避けは必要だ。幸いにも月は細い。

 燃え上がる火を見詰める。こういう手順は忘れないものだな、と思った。

 火に向かって両手を伸ばした玲姜が、ちらりと麟の横顔を見て、口の中でもごもごと呟いた。

「……が…と」

 聞き取れない。んん、と咳払いの音がした。玲姜は明後日の方向を向いたまま、言った。

「その。棗、感謝するわ。それと───助けてくれたことも」

 どう返事をすればよいのか戸惑い、とりあえず黙って頷いた。別に助けたくて助けたわけではないのだし。

「───ねえ、あなた、何者なの」

 玲姜が、小さな拳を握ったり開いたりしながら、続ける。

「さっきはああ言ったけど。あなたが只の女官じゃないことくらい、私にも分かるわ。それに、胡人の血が混じった輿入れの供なんて聞いたことない」

 どう答えたものか、麟は少し迷った。氏族を持たない麟は、何者なんて問いかけに明確な答えを持っていない。それでも自らに立場を与えるなら、

「管宰相の家人」ということになる。「剣や火付けは、父に習った」

「宰相の?」

 あのヒト養子なんていたんだ、と玲姫が呟いた。

「婢女(奴隷)みたいなもんだし、あの人は師父だよ」

 さすがに養父と呼ぶ気にはなれないし、そんな立場ではない。

 それから、簡単に経緯を伝えた。師父の予想と、自分が随伴の女官として推挙された理由について。

 ひとしきり話を聞いた玲姜は、満天の星空に向かって吠えた。

「───わかっていたなら止めなさいよ狸爺!」

 国主たる斉公が「父」と呼んで師礼を尽くす相手に、一介の公女が言っていい台詞ではない。ただまあ正直、概ね麟も同意見だった。

「師父も確証はなかったんだと思う。それに、輿入れの時期を遅らせれば、那公の顔を潰すことになるし」

 そんなことわかってる、と玲姜が膝頭に顔を埋めた。

 しまった、と思った。また余計なことを言った。体面だの面子だのの機微は、おそらく麟より彼女のほうがよく理解している筈なのに。

「私だって、わかってるわ。自分の命の価値くらい」

 ことり、地面に転がるように零れた声だった。やがて、しゃくり上げるような音がそれに続いた。

「……泣いてるの?」

 口に出してから、随分間の抜けたことを聞いてるな、と後悔した。

「……泣いてない」

 鼻声が返ってきた。

「全然泣いてないから。誤解しないで」

 崖上に、鼻を啜る音が響く。

「輿入れが決まった日に、誓ったの。斉の土地から外に出たら、けして泣かないって」

 だから泣いてない。

 思わず手を伸ばして、その所在に戸惑う。手を握る? 頭を撫でる? 正解がわからない。身分を踏まえれば、どちらも不遜な気がする。

 中途半端に伸びた手を引っ込めて、膝を抱えた玲姜を見つめた。長い髪に枯れた葉の欠片がついていた。高価な絹の服も、ところどころ裂け目が出来ている。沓の中は見えないが、おそらく豆の一つや二つ潰れている筈だ。

 そして彼女は、夫になる筈だった見知らぬ男を失い、目の前で戦───あれは小規模ではあれど、間違いなく戦だった───を目撃したばかりで。

 麟より一つ年下で。

 それでも、確かに涙は零れていない。

 少なくとも、その強情さだけは、嫌いではないなと思った。

 だから。

「公女殿下」

「……なによ」

「都城を落とした昆申は、いい評判を聞かない。捕まったら、その、凄く酷い目に遭うと思う。生きて斉に帰れるかもわからない」

 玲姜が息を呑む気配に気付きながら、麟は言葉を止めない。なるべく真摯に聞こえることを願って、言った。これは初めに言わなければいけないことだ。

「落ち延びたいなら、必ず私の言うことに従って。出来ることはする。でも」

 玲姜の喉が、震える。ダメ押しの言葉を放った。

「逆らうなら、置いていく」

「───それは駄目」

 沈んでいた玲姜の目に、ぱちぱちと光がちらついた。すぐに、焚き火が映り込んでいただけだと気づく。それでも、

「私は斉の公女なの。躰も、魂魄も。勝手に生きることも、死ぬことだって許されない」

 自分に言い聞かせるような声に、少しだけ気圧された。火に照らされた唇が、きゅっと横に引き結ばれている。

 やがて、氷が火に溶けるように、いかにも渋々といった風にその唇が緩んで。

「あなたを信じるわ。胡人」

 麟はそっと、赫赫と燃える火に薪を焚べる。

 とりあえず、売り飛ばすのは止めておこう。そう思った。

「あの、それで、そのね」

 視線を向ける。玲姜が、慎ましく視線を逸らして言った。

「……いい加減用を足したいのだけど、褻器(携帯用便器)はどこかしら」

「その辺でどうぞ」

 淡々とした麟の応えに、玲姜はつぶらな目を見開いて、ぱちぱちと瞬きをした。

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