第2話 任命

 斉国には四季がある。

 現在の山東省中央部に位置するこの大国は、亜熱帯モンスーン気候に属し、春が短く夏が長い。

 麟が師父に呼びつけられたのは、短い春が終わり、雨の匂いを伴って夏の足音が忍び寄ってきた日のことだった。


 日課である馬車馬の世話を終えた麟は、師父が職務を行う役場へ出かけた。斉の首都、営丘では、貴人の住む区画(小城)と庶人の住む区画(大城)が明確に分かれている。師父の職場も小城にある。通りを歩くと、幾人かが、ぎょっとしたように麟の顔を見た。翡翠の目は、胡人である証拠だ。視線には、嫌悪と畏怖が篭る。

 顔見知りの番兵に用件を告げて、役所に入った。山と抱えた竹簡を顎で押さえた若い書生が、忙しなく横を駆けていく。

 奥の一室には、列が出来ていた。師父の職場はいつもこうだ。けれど麟は、見た目ほど待つことは無いと知っている。宮中のあらゆる相談がこの部屋に持ち込まれるが、師父はその全てに即答する。故に、列の消化はひどく早い。

 やがて麟の番が来た。

 部屋に入り、両手を合わせた途端に、声が降ってきた。

「君を玲殿下付きの女官に推薦しておいた」

 顔を上げる。なめした虎の毛皮の上に、初老の男が坐している。

 師父は、石硯の墨を付けた毛筆をきつく握り、猛烈な勢いで竹簡の上に走らせている。ぎょろぎょろと目まぐるしく動く瞳は、こちらを見てもいない。麟は左右を見渡した。もしかしたら自分以外の誰かがこの部屋にいて、師父はそちらに声を掛けたのかもしれないと思ったのだ。

 もちろん、他には誰もいなかった。沓の踏み場もないほど竹簡が散らばった部屋にいるのは、師父と麟だけだ。

 眉間に皺を寄せて、問い直した。

「正気ですか」

「勿論。あと、養父に向かってその口の利き方はいかんね。衣食に困っていないのなら、次は礼節を学ぶべきだ」

「作法を学ぶ時間があるなら、剣を学びます。それか弓」

 困った奴だ、と師父が笑った。間もなく老境に差し掛かる筈だが、伸びた背筋は老いを感じさせない。いや、衰えていないのは外見だけではないのだ、万里の先を見通すと謳われた才知も、一代で斉国を中原の覇者へと導いた情熱も、まるで色褪せる様子を見せない。

 未だに斉国はこの人で持っている、と言われる由縁だ。国主たる斉公への侮辱に当たるため、表立って口にする者こそいないが。

「それで、何です。私が公女殿下の女官? 御冗談でしょう」

「冗談なものか」

「言った通り、宮中の作法なんてわかりません」

「その代わり、剣と弓に心得がある。弓に至っては、若いころの私より得手だ」

「文字も読めないです」

「智慧がある。万巻を読み伏せても得ることが出来ないものだ」

 そちらは儂ほどではないがね。いっそ無邪気に見えるほどの恬淡さで、師父が笑った。

「第一、私は胡人です」

「何か問題でも?」

 問題しかない。

 師父の講義を思い返す。

 畏れ多くも洛邑に座す天子様より姓を賜り統治を許された諸侯が、徳と礼によって治める「中原」の外、王権の及ばぬ僻地に暮らす異国の民。かつては土方、鬼方、馬方と記され、今は北狄だの西戎だのとも称される騎馬の民を総称して、胡人と呼ぶ───のだそうだ。

 彼らはたびたび中原を侵し、家畜を奪い、女を襲う。それを避けたいのならば、と貢物を要求することもある。

 麟は、そういう胡人の生まれだ。血だけではない。胡人として生まれ、育った。

 だから今でも、父の形見である剣を握れば、鮮明に思い描くことができる。北方にある燕山山脈の先、地平の彼方まで続く無窮の草原を。

 国によっては胡人というだけで石を投げられるのが今の中原で、そんな人間を公女の側に置くだって?

 おまけに末姫は放埓できかぬ所だらけの気性難、悍馬のような小娘である───というのが、もっぱら斉国宮中の評判だ。

 それでも麟は、極力不満を表に出さないよう頬に力を込めた。心が決まっているならば、到底自分に説き伏せることが出来る相手ではない。元より相手は大国の重鎮で、こちらは彼に拾われた身なのだ。決定的に立場が違う。

 それでも名残惜しく、

「───あの。どうあっても、ですか?」

「どうあっても、だ」

 綴じている葦紐が千切れない程度の強さで、転がっている竹簡を蹴とばした。ため息だけは、堪える。

「殿下は那国への輿入れが決まっていたと思います。なにかキナ臭いことでも?」

「話が早くて助かる」

 ようやく、麟の師父は手を止め、竹簡を文机に置いた。

「魯が、薛の辺りに兵を集めている」

 師父は近隣一帯に『根』と呼ばれる間諜を放っている。おかげで宮中の誰よりも耳が早い。斉の誰よりも早耳ということは、中原諸侯の誰よりも情報通ということだ。

 麟は脳裏に地図を描いて、言った。

「薛なら、徐国のほうが近いでしょう。目当てはそっちでは」

「確かに、巷間にはそういう流言が飛んでいる。おかげで那国の王は枕を高くしているが───」

 師父が、白いものが混じり始めた髭を撫でた。

「ありゃ嘘だ」

 はあ。間抜けな声が出た。魯国と徐国の関係も良好とは言えなかった筈だが。

「あそこも那国とどっこいの小国だが、当代は将が良い。加えて国境沿いの城郭を改築したばかりだ。儂なら攻めん」

「魯に、師父はいませんよ」

「それはそうだ。とはいえ、愚か者揃いでもあるまいよ。季宰相は計算高い男だし、軍部で幅を利かせている昆大夫も悪知恵が働く。だから今、だ」

 ぴくり、と麟の眉が動いた。

「殿下の輿入れ前に那国を、ということですか?」

「そうだ。殿下と那公との婚儀が成立するまでは、斉と那の同盟は成立しない。その段階なら、那国を伐っても斉に刃を向けたことにはなるまい。というか、ならんようにする腹積もりなんだろう。斉と那の同盟なんぞ知らんかった、で押し通すはずだ。そのうえで『たまたま保護した公女』をダシに、斉と交渉する心算だろうな」

 思わず舌打ちした。無茶な理屈だが、それが通る時勢でもある。周王の権威が百年前の内乱で失墜してから、ずっと諸侯は各地で小競り合いを続けている。民を取り合い、戦車の乗数を競い合い、面子を張り合っている。

 今は、乱世なのだ。

 胡人の血が混じる深緑の目を閉じて、何かの式典で覗き見た玲姜の顔を思い浮かべる。

 ───確か自分よりひとつ年下の、十四歳だったはずだ。

「……いやちょっと待ってください。ということは、私が女官に任じられる理由は」

「察しが良くて助かる」

 つまり有事の備えだな、と師父が口角を釣り上げた。

「万一『何か』があった際は、何がなんでも玲姜を斉国まで連れて帰ってこい」

 それが君の役割だ、と師父が節くれ立った指先を麟に突き付ける。

 この時点でもう、ひしひしと嫌な予感を胸の裡に抱いていた。なにせ拾われてから五年余り、その間一度だって師父の予想が外れた局面を見たことがない。

「そんな顔をするな」

 また、師父が笑った。「折角だ。公女でも他の女官でもいいから、友誼のひとつも結んでこい。良い人生には、良い朋友が必要だぞ」

「興味ないです」

 ましてや斉人の友なんて。

 言って、麟は踵を返した。戸を開けたときより、ずっと肩が重かった。

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