春秋少女千里行
深水紅茶(リプトン)
第1話 落城
突き固めた土壁に干した煉瓦を粘土で貼り付け、城壁とする。この壁に囲われた居住地を「邑」と呼ぶ。邑は都市国家だ。共通の祖先を持つ氏族の集まりであり、当然に大きな邑もあれば小さな邑もある。大邑の主は小邑を従え、諸侯として君臨する。諸侯が率いる大邑は「国」という。
かつては洛邑に坐す周王の元に一つだった国々は、各々の権益を求めて相争っている。
二百を超える国が大陸全土に割拠しているこの時代を、ある儒教経典から取って、「春秋」と呼ぶ。
†
ある大邑から、黒い煙が立ち昇っていた。邑は、那という国の首都───都城のある地だった。
銅板となめした革を組み合わせた具足を身に着けた男たちが、城門に掲げられた緋色の旗に取り付き、押し倒した。南大門がこじ開けられ、外壁前に待機していた兵たちが雪崩を打つように駈け込んでいく。
ひと欠片も、落城を疑う余地はなかった。
城邑を見下ろす丘で、丈の短い上着に薄墨色の袴を着た少女が、片膝を突いてその様を見下ろしている。
けして女人の服装ではない。武人か、あるいは胡人───遊牧民族のそれに近い。右手で粗末な拵えの鞘を握る一方、左手の親指と人差し指で小円を作り、眉をしかめて覗き込んでいる。
瞳は、深い緑色をしていた。
胡人の目である。
少女は───麟は、きつく下唇を噛んだ。黄色い砂が混ざった風に触れた唇が、舌先でざらつく。
厄介なことになった。そう思った。知らず知らず、鞘を握る手に力が籠る。
都城の陥落は、那国の滅亡を意味する。そして今、城壁の上に翻っているのは、魯国の旗だ。ならば率いているのは大夫の昆申だろう。野心家であり、残忍な性の持ち主と聞く。付け加えるならば、無類の漁色家であるとも。
───狩りが始まるな。
那の主たる那公の屋敷は包囲され、隅々まで調べ尽くされるだろう。目的は、公の首と財貨だけに留まらない。なにせ、斉国から那国に降嫁───国力を踏まえればそう評価するしかない───されたばかりの斉国公女、玲姜は、近隣諸国に名が知れた美姫だ。
姫としては末席とはいえ、もし捕えれば、飛ぶ鳥落とす勢いで国力を増している斉への交渉材料になる。もし都城で見つからなければ、近隣一帯に斥候が放たれるだろう。まして近年、魯と斉の間はキナくさい。
麟は学問を持たないが、それしきのことは理解できるし、師父に教わっている。
もっとも、交渉材料といっても。
営丘(斉の首都、臨淄)に返されたときには、腹が膨らんでいるかもしれないけれど。
麟は背後を振り返り、わざと相手に聞こえるようにため息を吐いた。
「いつまで泣いてんですか、公女殿下」
絹の深衣を纏う少女に向けて、蹴とばすような声を投げつける。
殿下と呼ばれた少女が、浅葱に染め抜かれた袖口から顔を上げた。ほつれた前髪が白い額を滑る。睫毛の長い瞳が潤んでいた。あどけなさが残る頬が、朱色に染まっていた。
そのどれもこれもが、麟の気に障った。
───いっそこいつを魯軍に突き出して、褒美を貰って逐電しようかな。
麟は剣の柄を握って立ち上がり、もう一度、深々とため息を吐いた。
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