過去と夢
季節は既に蒸し暑く、蝉の鳴き声が頭に響いて煩わしい。しかし、それはそれで風流だろう。如何にも日本らしい雰囲気だ。
茹るような暑さの中、詩音は定番となった河原でギターの練習をしていた。それを見守る文美は棒アイスをペロペロと舐めていて、足元には蚊取り線香が置かれている。
「こうも暑いと捗らないわね」
「はい……暑すぎて意識が朦朧としてきました」
今日の天候は曇りだと言うのにこの暑さ。いい加減、うんざりとしていた詩音はギターを置いて水分補給する。額から顎にかけて一滴の汗が落ちてゆく。
河原は住宅街から離れている位置にあり、程度の騒音は許容される。自宅で弾くよりは気軽に音を出せるため、練習も捗っていた……そう、過去形である。今では、こうも暑いと最適とは言えない。
「そうだわ……あそこに行きましょう」
「何処か良い場所があるんですか?」
「ふふふ……着いてからのお楽しみよ」
妙案を口にしない文美に、もやもやとした詩音は小首を傾げた。
「ほら、行きましょう」
文美は詩音の手を優しく引いた。
もはや手を繋いで歩くのは二人の中で当たり前になっていた。じめじめとした暑さ故に汗をかいてお互いにべたついていたが嫌悪感はなく、寧ろ存在をいつもより感じられて心地良く思っていた。
「あの……ご主人様」
「なに?」
「その……どうして文化祭の、ライブに出なかったんですか?」
その質問は詩音がずっと抱いていた疑問だ。控えていた質問でもある。
今、こうして口に出したのはやっぱり気になったというのが本音で、文美にとってデリケートな問題だということは重々承知していた。
「そうね……貴方には言っておこうかしら」
文美はむっと眉を顰め、暫しの無言。逡巡としているのか、次の瞬間には息を吐いて脱力した。
交差点に差し掛かり、タイミング悪く信号機は赤になる。二人は足を止め、詩音は文美の昏い瞳に釘付けになった。
「私はね、幼い頃からギターを押し付けられていたのよ」
「親にですか?」
「ええ、そうよ。憎たらしいわ。周りの子は楽しそうにしているのに、私はギターの稽古ばかりでつまらなかった。でもね、約束してくれたの。私がコンテストに優勝したらもう何も言わないってね」
「そ、それってつまり……」
「私はギターを辞めるためにプロになったのよ」
なんということだ。世界ではなりたくてもなれない人がいるのに、文美は辞めたいという反骨精神でプロのギタリストになってしまった。並大抵の努力では慣れない筈だ。自分の時間の殆どを犠牲にし、きっと、それほどまでにギターが嫌だったのだろう。
儚そうな、泣きそうな、文美の表情を見ていると詩音は胸が痛くなった。文美の心境を慮ると、自然に手を握る力が強まり、青信号だというのに動けない。彼女の瞳から目を離せない。
「ご、ご主人様……わ、私は――」
謝りたかった。そんなにギターが嫌なのに、教えを乞うたことを。知らなかったと言い訳するつもりはないが、強要したに変わりないのだ。
しかし、文美は右手の指を詩音の口に当てて、言葉を遮った。まるで慈愛の女神のように笑みを零し、ただゆっくりとした時間だけが過ぎていく。
二回目の赤信号が訪れた時、漸く唇から指が離された。
「行きましょうか」
「え? あの? 赤信号ですよ?」
「…………」
微妙な空気が流れ、文美は咳払いをして気を取り直した。
青信号になってから再び歩き出し、涼しさを感じるために日陰を辿る。
「その……それを朝比奈先輩に言えば許してもらえるんじゃ……」
「言える訳ないじゃない。あんな音楽へ真っすぐの人たちに……それに私がライブに出なかったのは、約束のコンテストの日と被ったからなのよ。私は軽音部の皆より、保身を優先したの」
全てを説明したとしても納得している訳ではないし、反感を買うのは見えている。だから、文美はギターが嫌いという結果しか主張しなかった。何度罵られても、そうとしか言えなかったのだ。
「ご主人様……謝りましたか?」
「え? そういえば未だ……」
「ご主人様は申し訳なく思っているんですよね! それなら伝わる筈です! 理由はともあれ、反省している気持ちが……」
「そうね……そうだといいわね」
人間は直ぐに勘違いをしてしまう生き物だ。第一印象でその人の殆どを決めつけ、勝手に推測して決めつけてしまう。それを避けるためには言葉にしないといけない。態度に出さないといけない。そうすれば軽音部の皆も分かってくれる筈だ。
詩音はそう思っていた。納得されなくても、気持ちさえ声に出せば伝わる。きっと軋轢は改善される。具体的な根拠はないが、軽音部と文美の絆はそこまで浅いモノではないと思うのだ。
「詩音は……どうなりたいの?」
「へ?」
突然、珍しく名前で呼ばれたことに詩音は驚きつつも、その真意を探った。
「いや、ギターを上手くなってどうしたいの?」
「どうと言われても……まだ考えていません。私の夢はまだ漠然としていて、強いて言うならシンガーソングライターでしょうか? 昔、父が私に弾いてくれたように、私も、色んな人に聴かせてあげたいです」
「そう……素敵な夢ね」
やはりギタリストの夢は眩しくて、文美は仄暗い雰囲気を醸し出した。元々、人形と見間違わんばかりに整った顔のため、どこか美しく見える。
それとは裏腹に、具体的に夢を語ったのは初めてだった詩音はどこか擽ったいような感じに、照れ隠しで頭を掻いていた。
「あれ? 此処って……」
「ええ、学校よ。軽音部の部室を使えばいいのよ。あそこ、贅沢にもクーラーが備え付けられているし」
聳え立つ校舎。もしも人間だったなら真夏の暑さにやられて真っ先に倒れていることだろう。
きちんと水分補給をしている詩音ですら、文美の発言を聴いて立ち眩みがした。
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