猫耳メイド喫茶
で、バイトの面接を受け、無事に受かった詩音は初出勤した。不安感と期待感、倦怠感が主に入り混じった気怠い身体を動かしながら店舗へ出向き、そこで先輩と出会った。
「あの……もしかして?」
「もしかしなくても私が詩音さんに仕事を教えるのよ」
そう、先輩は先輩だった。正確に答えるなら朝比奈綾瀬は軽音部部長だけでなく、ここファンシーキャットというコンセプトカフェの店員で、二重の意味で先輩なのだ。
「よろしくお願いします。朝比奈先輩」
「違うわ。此処での私の名前はチョコよ。貴方の名前は?」
ファンシーキャットは猫をモチーフにしたメイド喫茶みたいなものだ。だから、そのコンセプトに沿った名前で呼び合うのが普通で、事前に「考えておいてくれ」とオーナーに言われていた詩音はきちんと三日もかけて考えてきた。
「私の名前はムギです。猫らしいですよね?」
「そうね。他の子と被ってないし、可愛らしいからおーけーよ」
「よかった……」
お許しを得て、胸を撫で下ろした詩音だったが、それは束の間の休息。これから仕事が待っているのだ。
「はい、これに着替えてちょうだい」
「えっ……わ、分かりました」
制服は猫耳メイドという定番。店名的に予想していたが、想像と実際に目にするのとではインパクトが違い、詩音は辟易としつつもフリフリとした衣装を手に取った。
普通の人なら着る機会がないような服装に苦戦。綾瀬に手伝ってもらい、なんとか着こなすといよいよ仕事である。
お店のルール。接客の仕方。物の配置。レジの打ち方……上げればキリがない。忙しない仕事に振り回されながらも喰らいつく詩音は獣のようだろう。既に皿を割ったり、接客でしどろもどろになったりと失敗しているが、目に光は失っていない。それどころか、失敗を糧に邁進し、その前向きさには綾瀬も感心していた。
「ふぅ……疲れました」
既に出勤から三時間は経った。後一時間で帰れると思うとその時が待ち遠しい。
カラフルで如何にも女の子らしい店内を見回しながらお皿やコップを洗っていた詩音はふとチャリンチャリンという鈴音を聴いた。間違いなく来客だ。
蛇口を捻って、手を拭いて、駆け足気味で玄関へと向かって絶句した。
「どうして貴方が此処にいるのかしら?」
「それはこっちの台詞よ」
玄関で睨み合っているのは文美と綾瀬。どうやらお客として文美がやってきて、綾瀬が接客しようとしたらしい。
過去に軽音部で亀裂の入った関係。拗れているのは雰囲気からして明らかで、詩音はどんよりとした空気に当てられて気持ち悪くなった。
面接時、この店に訪れて良い印象を憶えた。この店で働きたいと思ったのは店舗自体が小さく、小ぢんまりとした様子だったからだ。しかし、こんな思いをするなら別の所にしたらよかったと後悔してしまう。
「ちょ、チョコ先輩、一応、お客様なので」
幸いにも店内に他の客はいない。唯一、冷静だった詩音は綾瀬に自制を求めた。
「そうね……いらっしゃいませ! ご主人様!」
諫められた綾瀬の切り替えは早かった。親の仇をみるかのように据わっていた瞳が、今ではニコニコとした営業スマイルを浮かべている。
その変化を目撃した詩音は思わず身震いしてしまい、文美に至っては顔を引きずらせている。
暫くして、カウンター席に案内され、ドリンクを頼み終えた文美はメイドたちの自己紹介を聴いていた。
「初めましてにゃんにゃん星から来たチョコですにゃ! ご主人様を楽しませるように精一杯努力するにゃ!」
「きもいわ」
普段の綾瀬を知っている身からすれば当然の反応だろうが、それは禁忌だ。
案の定、ぷつんと理性という糸を切ってしまった綾瀬はわなわなと俯いてしまい、詩音が必死で宥めた。
「ちょ、チョコ先輩落ち着いて――そ、そうだ! 私はムギです! 今日からの新入りですが、ご主人様のために頑張るむぎ!」
「可愛いわ」
火に油を注ぐとはこの事だろう。
一生懸命考えていた自己紹介を褒められた詩音は嬉しくて照れていたが、綾瀬は違った。後輩を褒められて、自分は貶されたという事実を理不尽に思い、ついに机を叩いてしまった。
「何よ! ギターは嫌いだなんて言った癖に! 弟子なんか作っちゃって! 私との約束はどうなったの!?」
「約束……?」
話が分からない。しかし雰囲気的に重要な事だとは巧まずして分かり、心配から詩音は文美を一瞥する。
「申し訳ないとは思っているわ。でも、私はギターが嫌いなのよ」
「じゃあなんで弟子を作ったの!? 私のことが嫌いになったの!?」
「気まぐれよ」
間髪容れず答えたが、本当にそうなのだろうか? 詩音は怪訝に思った。今まで文美の奴隷になっていたからか、他に理由がある気がしてならなかった。
「私、楽しみにしていたのよ? あやあやを結成する時を……」
「あやあや……?」
「二人でバンドを組む約束をしていたのよ」
「えぇ……」
文美と綾瀬のあやを二回取ってあやあやというバンド名。なんという安直さだろう。まるで芸人みたいだと思ったが、声には出さない。こんな修羅場の中でそう言った暁には、一体どうなることやら……
「あやあやってダサいわね」
しかし、飄々としている文美は言ってしまった。それも辛辣で、辺りの空気を痺れさすような毒だ。
これには綾瀬も怒りを通り越し、拍子抜けしてしまった。今まで蟠りを抱えていた相手が、あまりにも平然とし過ぎているのだ。
「はぁ……もういいわよ。でも、許した訳じゃないから」
「それでいいわ」
どうやら喧嘩は終わったらしい。が、この重くて息苦しい空気は取れず、綾瀬はそっぽを向いているし、文美に至っては黙ってジュースを飲んでいる。
この地獄のような場を新人の詩音が何とか出来る筈もなく、ただ時間だけが過ぎていった。
「さて、可愛い奴隷の姿も見れたし、帰ろうかしら?」
「奴隷?」
「あああああっ! お、お帰りですねご主人様!」
「待ちなさい」
大声を上げることによって綾瀬の気を逸らした詩音は伝票をチェックして会計を始める。が、綾瀬が手で止めてくる。
「チャージとワンドリンクだけなんて……本当にそれでいいの?」
「……何が言いたいの?」
「はいこれ」
もはや店員の口調ではなくなっている綾瀬はメニュー表を渡した。開かれているページはメイド特製の料理が乗っている。
なるほど、と興味深そうに頷いた文美は一つの料理を指した。
「それじゃあこのオムライスセットを一つお願いするわ」
「畏まりましたご主人様……売り上げ貢献ありがとう」
皮肉を言われた文美はふんと鼻を鳴らした。
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