看病

 甘い匂いが鼻腔を擽り、心地よい意識の中、詩音は目覚めた。


「ん……あれ? 此処は……?」


 知らない天井だ。なんてテンプレを思い浮かべる。

 そうして直ぐに此処が文美の家だと思い出し、ふかふかのベッドで眠っていたことを理解した。

 ぼんやりとする意識で、ふと身体の違和感に気がついた。まるで締め付けられているようで身動きがとれないのだ。

 疑問に思いつつ、横を見てみると……


「ふぁー……あ、起きたの?」


「ご、ご主人様!? ど、どうして此処に!?」


 そこには欠伸をしている文美がきょとんとした様子で寝転がっていた。身動きがとれなかった理由は、文美が詩音を抱き枕にしていたからなのだ。


「どうしてって此処は私の家よ? それにベッドに入ってきたのは貴方じゃない」


「え……あ、そうでした」


 言われて漸く詩音は思い出した。

 鍵問題で帰れない事実に途方に暮れて、手持ち無沙汰になり、段々と睡魔が襲ってきた。そのまま床で寝るのは逆に疲れが溜まりそうで、かといって他所の家の布団を勝手に拝借するのも憚られる。

 苦悩の挙句、睡魔によって思考能力が低下した詩音は風邪が移るという可能性を考慮せずに、文美と同じベッドでさっさと眠ってしまったのだ。

 その結果、文美に抱き枕として扱われ、色々と身体がくっついている。それどころか、文美のベッドなので、まるで文美自身に包まれているように錯覚してしまい、カーっと身体が発熱する。


「ちょっと熱いのけれど大丈夫? 風邪が移ってしまったのかしら?」


「ち、違います。その、離してもらってもいいですか?」


「なに? 奴隷のくせに抵抗するの? ……と言いたいけれどそうね。風邪が移るといけないわ」


 解放された詩音はそそくさとベッドから脱出する。少し、いや大分と名残惜しく感じたが、抱き枕になると心臓が破裂しそうなほどドキドキとするので仕方がない。


「それで、貴方はどうしてまだ居るの? もう九時よ?」


「いや、それがですね。鍵をどうすればいいのか分からなくて……」


「ああ……」


 理解した文美は憐憫の眼差しを詩音に向けた。


「ごめんなさい。私の所為ね……」


「そんなことないです! 悪いのは風邪です……」


 全ては風邪が悪い。そもそも風邪を患わなかったら、こんな想いはせずに済んだのだ。


「そうだ。熱は下がりましたか?」


「ん、多分下がったわ。ちょっと寒気がするけど……」


「そうですか……お粥、温めますね。まだ残っていますから」


「ちょっと待って」


 もう晩御飯時を超えている。お腹に空きが出来ているだろうし、食べられる時に栄養補給した方がいいだろう。

 残っているお粥を温めに行こうと立ち上がった詩音の手を、文美は掴んだ。そして、頬を赤らめながら申し訳なさそうに言った。


「汗をかいてしまって……身体を拭いてくれないかしら?」


「…………?」


「だから身体を拭いて欲しいのよ。いくら熱が下がったとしてもお風呂に入るわけにはいかないでしょう?」


 言葉の意味をもう一度反芻して、理解した詩音は溺れた魚のように口をぱくぱくとした。その顔は熱を帯びている。


「早くしてちょうだい」


 パジャマを脱ぎながらそう言う文美に、釘付けになった詩音は頭の中がパンクしそうだった。下着姿の文美を凝視してしまい、その視線に気がついた文美はジト目で見つめ返す。

 漸く我に返った詩音は羞恥心で真っ赤になりながら、タオルを探しに逃げた。


「タオルは洗面台に置いているわ」


「は、はい……ッ!?」


 洗濯籠に入った文美の衣類。そこに淡いピンク色の下着がはみ出ていて、詩音は動揺してしまう。一瞬、酷い欲望に手を伸ばしそうになったが、なんとか踏みとどまり、タオルを掴んで逃げるように後にする。

 給湯器で沸かした四十度くらいのお湯が注がれた洗面器とタオルを持って、文美の元へと戻った詩音は緊張から身体が覚束ない。まるでロボットのようにカクカクとした動きになっていた。


「女性同士じゃない。そんなに緊張しなくても……」


 文美は呆れたように首を振った。

 その通りだろう。同性同士なのに、どうして初心なカップルのような反応をするのか? 詩音自身もよく分からなかった。必要以上に文美を意識してしまうが、不思議と嫌悪感はない。そこに恋愛が絡むのか、何も分からない。

 詩音は強張った身体のまま、お湯に浸したタオルを絞り、文美の背中に触れた。


「ひゃっ!」


「あっ、ごめんなさい。びっくりしましたか?」


 珍しい文美の可愛い声。少女のように高く、思わず詩音はにやにやとしていて、それに気づいた文美は不貞腐れたようにぷいっと顔を逸らした。


「奴隷のくせに……ちゃんと優しくしてね」


「は、はい……」


 どこか官能的な雰囲気に詩音は息を呑みながら、言われた通りに優しく背中を拭いていく。汗をかいたと聞いていたが、あまりすっぱい匂いはしない。寧ろ、甘くて優しい香りだ。

 濡れたタオルを這わせ、文美は艶かしい声を漏らす。その度に詩音は気が動転しそうになりながらも、何とか耐えていた。


「あ、あの前は?」


「自分でするわ」


「そうですか……」


前はデリケートな部分なので当然だが、どこか期待していた詩音はがっかりとしてしまう。


「なに? 触りたかったの?」


「な!? ち、違います! 揶揄わないでください!」


 くすくすと笑う文美に背を向ける。

 そして、背後から聞こえてくるのは布が擦れる音と、タオルを絞る水音。思わず詩音は唾を飲み込み、脳内で素数を数えて落ち着く。


「着替えようかしら? そこの棚からパジャマを出してもらえるかしら?」


「……は、はい!」


 無心だった故、反応が遅れてしまった詩音は言われた通りに棚を開けた。その行為は軽率だっただろう。本当なら何段目か尋ねるべきだったが、衝動的だった仄音は無意識に二段目の棚を開けてしまい――


「あっ……」


「ちょっと、そこは……」


 詩音の視界に映ったのは引き出し一面に敷き詰められた下着類。上から下のモノまであり、殆どの色は白の無地やチェックといった大人しい感じで、如何にも清楚といった柄だった。

 見てはいけないものを見てしまった。いくら同性とは言え、予想だにしないハプニングだ。

 あわあわとしながらも、取り敢えず謝ろうと詩音は振り返った。


「ッ!」


 下着に気を取られてしまっていたが、今、文美は裸に近い状態だ。

 不幸なのか、幸運なのか、ばっちりと文美のあられもない姿を角膜へと焼きつけた詩音は興奮のあまり――


「ごめんなさい……」


 鼻血を垂らしながら気絶した。

 謝っている割には幸せそうにしているのは、きっと気のせいだろう。

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