不法侵入

 夕日が差し込む教室に詩音は困惑を隠せずにいた。


「ねぇ、キス……しましょう?」


「ご、ご主人様? ど、どうして……」


 言葉の意味は理解できる。キスとは所謂、接吻だ。

 しかし、納得はできない。どうして女の子同士、それも奴隷である私に求めてくるのか? 頬や額といった場所に親愛の証が欲しいのかとも疑ったが、文美の唇を尖らせる動作から違うと察せられる。


「人肌が恋しいのよ。だから早く」


「は、はい……」


 ドキドキと心臓が激しく脈を打ち、詩音は形容し難い感情に惑わされる。

 文美とのキスは不思議と嫌ではなく、寧ろ求めてくれて嬉しく思い、二人は徐々に顔を近付けて――





 茹るように熱い部屋の中、詩音は汗でぐっしょりとした身体を起こした。瞼を擦り、時計を見ればもうお昼だ。


「夢……」


 そう、先ほどの一部始終は夢だった。

 安心した自分も居れば、どこか残念に思う自分も居て、やるせない気持ちになる。何だか悪い事でもしたような気分で、未だ脳裏にはキスを待っている彼女の姿があった。

 取り敢えず、気を取り直そうと詩音は昼食を用意するために起き上がる。


「おはよう」


「…………」


 キッチンに居たのはエプロン姿の文美だ。

 まだ夢の中だと疑った詩音は無言で自分の頬をつねるが普通に痛い。痛覚が現実だと知らしめ、段々と恥ずかしさから顔が真っ赤になった。


「ご、ご主人様!? ど、どうして此処に!?」


 信じられない。羞恥心が激しく訴えかけ、かーっと身体が熱くなる。

 今の詩音は寝起きで、いつも以上に汗をかいてしまっている。部屋も閉め切っていて、匂いだって籠っている。そんなだらしない生活感の中で、憧れである文美が訪れているのだ。それも、もう手遅れなレベルで……


「あ、あぅ……えっと……おやすみなさい!」


 パニックに陥った詩音がとった行動は現実逃避だ。もうお昼だというのに、これ以上の惰眠を貪るつもりだ。

 それを看過できない文美はさっさと詩音の布団を剥ぎ取り、カーテンを勢いよく開ける。熱い日差しで詩音は嫌でも目を覚ました。


「ほら、もう昼食が出来ているわよ? さっさと用意をしなさい。あ、それと胸元がはだけているわ」


「な、なななな!? と、兎に角あっちに行ってください!」


 胸を抑えながら文美をキッチンへと追い出した。キッチンならばカーテンで仕切られているのに簡単には覗けないだろう。まあ覗く気がなかったらの話だが……

 詩音は急いで着替えを済ませ、洗面台で顔を洗って歯を磨いた。本当ならお風呂に入りたいところだったが、文美を待たせる訳にはいかないので切り上げた。

 キッチンへ戻ると食卓に並べられているのは未知の料理。水分が多かったのか、明らかにびしゃびしゃな白米に、焦げてダークマターと成り果てたおかず。味噌汁は……見た目は普通だが、他がまともではないので警戒してしまう。


「あの……これは何ですか?」


「……? 見ての通り昼食、いや貴方にとっては朝食かしら?」


 当然と言った風にと言われても産業廃棄物のようにしか見えない。


「昨日頼んでおいたのに作って無かったから私が頑張って作ったのよ? 感謝しなさい」


「……いや、それよりもナチュラルに居ますけど、どうやって入ったんですか?」


「そりゃ合鍵よ」


「いつの間に作ったんですか!?」


「昨日のうちにパパっと、ね。因みにお手製よ」


 普通に犯罪だと詩音は思ったが、何故か文美は誇らしげに胸を張っている。文美にとって奴隷である詩音の家の鍵を持っていることは当たり前なのだ。


「はぁ……もういいです」


「気にしたら負けよ。それより、早く食べてみてちょうだい」


 椅子に座るように促され、詩音は炭のような料理を前に顔を引きづらせる。


「ご、ご主人様は食べないんですか?」


「私はコンビニで済ましたわ。この料理は貴方のために作ったの」


「うぅ……」


 そんな自信満々な笑みを浮かべられたら食べるしかない。笑顔を汚さないためにも、詩音は恐る恐る箸を持った。

 目の前に置かれているのは謎の物体。まるで宇宙に漂う暗黒物質のような料理を突き、思い切って食べた。

 その瞬間、身体中を駆け巡る不快感。生温い湯を直接脳にぶち込まれているような感覚だ。思わず意識を離しそうになるが、なんとか耐えた詩音は作り笑いを浮かべる。


「お、美味しいですよ。斬新な味です」


「本当に? どう見ても失敗なのだけど? よく炭なんて食べられるわね」


「なっ!?」


 詩音が気を遣って食べたのにも関わらず、文美はその頑張りを無下にした。それも馬鹿にした口調でクスクスと笑っている。

 嵌められた、と嫌でも理解した詩音は後悔から項垂れた。朝一番から苦しい想いを受け、良心を抉られてしまった。


「酷いです。騙すなんて……」


「騙していないわ。気持ちは嬉しいのよ? こうして失敗してしまったけど、本当に一生懸命作ったから……」


 頬を掻きながら照れた文美を見て、揶揄っている訳ではないと分かった詩音は一気に明るくなり、勢いで味噌汁を飲み干した。刹那、ばたんと倒れてしまった。茶碗は音を立てて床へ落ち――


「あら……?」


 呆気に取られた文美はただ茫然と眺めるしかできなかった。






 意識を取り戻した詩音は混濁する記憶から頭痛がし、机に突っ伏して唸っていた。


「うぅー! 頭が痛いです。何をしていたんでしょうか?」


「さあ? 思い出せないなら大したことじゃないのよ」


「何だか宇宙を漂っていた気がします……」


 どこか遠い目をしている詩音。それほどまでに文美の料理は危険で、もはや毒物だろう。行き過ぎた拙さはある意味一種の天才かもしれない。

 その昼食は既に処分していた文美はすっとぼけ、話題を逸らす。


「そんなことより何処かへ出かけましょう?」


「え? いいんですか?」


 勿論、詩音はまだ高校一年生という義務教育を終えたばかりの子供だ。遊びが本業と言っても過言ではなく、憧れの文美と遊びたいと思っていた。が、その関係は友達ではなく、奴隷とその持ち主という主従関係。そういった遊びに縁はないだろう。

 しかし、今、目の前の文美はまるで何処かへ遊びに出掛けるような口ぶりで、詩音は怪訝に思ってしまう。


「いいのよ。デートと思ってちょうだい」


「で、でででデートですか!?」


 デートは主に恋人同士が行うお出かけの事だ。それ故に、文美という存在を異性として意識してしまい、恥ずかしそうにスカートの裾を押さえる。


「何を思っているか分からないけど、貴方は私を楽しませるのよ?」


「へ?」


「じゃないとギター……返して上げないから」


 微笑を浮かべる文美は意地悪だろう。

 これはただのデートではない。ギターを人質に取られ、詩音が文美をエスコートしなければならない脅迫だ。

 それを理解し、拍子抜けした詩音だったが、それでも彼女と二人っきりで遊べるのは嬉しかった。

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