ギター教室

 文美の奴隷になって三日が過ぎた頃、詩音はいつものように手作り弁当を彼女に献上していた。勿論、ただ食べられる物を献上している訳ではなく、愛情込めて作った健康志向弁当だ。


「今日も美味しいわ」


「あの……文美先輩……」


「先輩? そんな口の聞き方でいいのかしら?」


「え、えっとご、ご主人様……?」


 慣れない呼び方故にぎこちない。


「んぐっ……何かしら?」


 二人きりの空き教室。弁当を楽しんでいた文美を口に含んだ物を飲み込んで、首を傾げた。


「私、奴隷なんですよね?」


「ええ、私の奴隷よ」


「その……今の所、弁当を作ってくるようにしか言われていないのですが……いいんでしょうか?」


 そう、この三日間で詩音がした奴隷らしいことは言葉遣い(主にご主人様呼び)と主のために手作り弁当を振る舞うこと。ただそれだけで、場の空気も奴隷という言葉に似つかないほど、ほのぼのとしている。傍から見れば詩音は文美の奴隷……というか友達に近い関係だろう。


「そう訊いてくるということはもっと辛いのを期待しているのかしら?」


「そ、そういう訳じゃ……」


 勘違いだと詩音は手を前に出して否定した。


「安心しなさい。今日からギターの稽古をつけてあげるわ。その代わり……どうしようかしら?」


「わ、私に訊かれても……」


「まあ後で考えておくとして今日は一緒に帰りましょう」


「へ?」


 驚いた詩音は持っていた箸を落としてしまった。






 校門前で合流した詩音と文美は、二人並んで下校していた。その距離間は主従関係を仄めかしていない。

 先輩、それも憧れの人と歩いている事実に緊張している詩音は隣の文美を何度も一瞥して頬を赤らめる。不意に視線が合えば、慌てて自分の癖毛を触って誤魔化した。


「はぁ……ほら、さっさと行きましょう」


「あっ……」


 そんないじらしい仕草を煩わしく思った文美は詩音の手を取って引いた。

 三年生と一年生というあまり接点がないような二人が手を繋いでいる姿を見て、目を疑った生徒たちは瞼を擦って二度見している。

 注目されている恥ずかしさから詩音は俯いて「明日は友人に揶揄われそうだ……」と軽い溜息を吐いた。


「それで? 貴方の家はどこなの?」


「え? 私の家に来るんですか?」


「そりゃあギターが手元にないもの……というか貴方はいつもどうやって練習しているの?」


「普通に家で……あまり大きな音は出せませんけど……」


 親に無理を言って、一人暮らしをしている詩音は自信なさげに答えた。格安のアパートなためボロい上に壁が薄いので、満足に弾けないのだ。


「そう……なら、ギターを持って移動しましょうか。良い場所があるの」


 そうしてギターを取りに帰った詩音は文美に案内され、近くの河原に訪れた。初めて文美と出会った場所でもある。

 文美はあの時のように階段に座り込み、癖で髪を掻き上げた。

 悠然としていて淑やか姿に詩音は見惚れてしまい、同時に羨ましく思った。詩音の髪は桃色のポニーテール、それも癖毛なのに対し、彼女の漆黒の髪は絹のようにサラサラで、腰辺りまで伸びて棚引いている。時々手で髪を梳かす姿が色っぽい。


「何をしているの? さっさとギターを出しなさい」


「あ、は、はい……」


 言われて我に返ってギターを取り出した。正確にはアコースティックギターを、だ。

 ケースの形状からある程度予想していたであろう文美は目を鋭くして、じろじろとギターを観察する。


「これは買ったの?」


「いえ、父の形見のギターです。私、ミュージシャンだった父に憧れてギターを始めました」


 今は亡き父の面影が脳裏に過ぎり、自然と暗い顔になった詩音。

 はっきり死んだとは言わなかったが、ニュアンスで伝わってしまい、何となく理解した文美も俯いてしまった。


「そうなの……なら、お父さんのためにもギターを上手くならないと、ね?」


「は、はい!」


 まさか励まされるとは思ってもいなかった詩音は変なテンションで返事をした。

 それに満足した文美は話題を戻す。


「随分と古いものね。使用されている素材はローズウッドかしら? 作りは少しだけ杜撰……フレットとバインディングの境目が汚いわ」


 そして、辛辣な感想を述べた。

 高いギターに触れたことすらなかった詩音には違いが分からないが、やはりプロにしか分からないようなことがあるのだろう。


「貸してもらえるかしら?」


「はい、いいですよ」


 ギターを受け取った文美は慣れた手つきでチューニングすると、ボディを叩いて四泊を刻み、さっと弾き始める。

 聴いたことがない曲だった。しかし、誰が見ても高度で華やかな曲だと分かるだろう。弦がビビった音ではなく、煌びやかな音がサウンドホールから奏でられている。

 やがて、アルペジオを最後に静寂が訪れ、詩音は感涙に咽ぶ。


「うぅ……ぐすっ……良い曲でした。とてもお上手ですね」


「泣くほど良かったの? まあ悪い気分ではないわ……」


 人間、純粋に褒められて嬉しくない人はいないたろう。満更でもない文美は笑みを零し、ギターを詩音へ返した。


「でも、弦高が高いわ。これじゃ弾きづらいでしょう?」


「そうなんですか? あまり分かりません……」


 まだ色んなギターに触れたことない詩音からしたら文美の感覚は未知だ。


「取り敢えず、練習しましょうか……」


「は、はい! よろしくお願いします! ご主人様!」


 そうして練習を開始し、詩音は多くのことを教わった。ピックの持ち方、リズムの刻み方、各部位の名称、初歩的なことばかりで言い出したらキリがないが、それでも有意義な時間だっただろう。より一層ギターに興味が出た。

 これを続けていれば上手くなれると確信した詩音は希望から目を輝かせる。粉骨砕身を惜しまないと思った時――


「それじゃ、今日はもう終わり。このギターは没収するわ」


「……へ? どうしてですか?」


 これ以上、教えないのは分かる。だからといってギターを取り上げられるのは違うだろう。詩音はまだまだ練習して、もっと上手くなりたいのに……無意識に不服そうにしてしまう。


「奴隷の癖に反抗する気?」


「……いえ、もういいです」


 契約を出された詩音はあっさりと諦めたが、その目は失望に染まっている。仄暗い靉靆な雰囲気を醸し出し、それでも文美は我関せずといった様子でギターを背負った。


「さようなら。明日の昼食、よろしくね?」


「え……?」


 明日は土曜日で、学校は休みだ。弁当は必要ない筈……しかし、文美はそれを求めているような発言を残し、軽快な足取りで去った。

 困惑する詩音を残して、文美のギター教室は終わりを告げた。

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