第26話「雨に駆ける」

 ただ、俺は走った。

 前方に誰かいる。でもそんなことは関係なかった。

 だからその誰かに視線もくれず、俺は走る。


「あれぇどうしたの?」


 その誰かは知り合いだった。

 いつも通り、気怠げな雰囲気の屋流が俺にそんなことを言う。


「誕生日――」

「知らない!」


 俺は叫んだ。

 それで、足を止めずに走る。多分、屋流は誕生日パーティーはどうしたの? ってことを俺に聞きたかったんだろう。

 誕生日パーティー、その単語すら今は耳に入れたくなかった。

 できることなら今すぐにベッドに潜り込んで、眠りたい。藤坂への怒りも、落胆も、自分の無力さを呪うことも、全て全て忘れて。

 ただ、眠りたい。

 優しい闇に包まれたかった。

 だから、俺は走る。

 走る。走る。走る。


 速度はそこまでなく、雨が気持ち良い。

 でも、どうしてかメアリー・スーを追いかけていたあの地獄のマラソンよりも辛かった。


「ロール」


 俺は、なんとなく側にいるはずの幽霊の名前を呼んだ。

 ロールが心配だったし、ロールだったらどんな風に考えているか聞きたかった。でも、彼女から返事は返ってこない。


「ロール?」


 そこで俺は立ち止まって、振り返った。

 周囲を見渡して、ロールの姿を探すけどやっぱり彼女の姿はない。

 俺は大きなため息を吐いた。

 ロールはどこに行ったんだ? まさか、まだ屋流の店に残っているんだろうか。

 だとすれば、どこまでバカなんだ。


 藤坂の態度を見ただろう。

 俺たちの頑張りを、なんとも思っていないような口振りで、全てを踏みにじっていった。

 むざむざと見せつけられた。自分と藤坂の違いを、凡人と超人の差って奴を。

 いくら背伸びしたところで、俺は凡人っていうのは変わらない。

 最初から、特別な存在というのは決まっていて、みんなその区分わけ通りに生きるしかないんだ。

 俺は自分の身の丈を弁えず、出しゃばったからこんな惨めな思いをしているんだろう。


 空を見上げれば、黒い雲から水が吐き出される。

 それは月並みな表現で言えば、空が泣いてるみたいだった。

 気が滅入る。

 ただでさえ、うつむきたくなる状況なのに雨のせいで一層に曇ってしまう。


「クソっ!」


 俺は地面を蹴った。

 こんなにも無力感を感じたのはいつ振りだろうか。

 分からない。

 何を間違えてしまったんだろうか。というより、何がいけなかったんだろうか。

 そう考えれば考えるほど、己の過ちは身の丈に合わない振る舞いをしたことのみ。

 はぁ。

 ため息が漏れた。


 これが凡人の限界。

 あぁ、なんて無様なんだろう。

 ロールも、俺に愛想を尽かしたんじゃないか? こんな弱い俺を見限ったんじゃ……。


「センパイ!」


 そんな泥沼じみた悲観思考に飲まれかかっていた俺は、ロールの声で正気を取り戻した。

 丁度、俺が走ってきた道を通り、ロールは俺に駆け寄る。(正確には駆けてはいないけど)


「何してたんだ?」

「どうしても、すぐに店を出る気にはなれなくて……」


 雨すらもすり抜けて、ロールは申し訳なさそうにそう言った。

 どうやら、藤坂の様子を見ていたらしい。

 もう、思い出すだけで気分が悪くなる。二つの意味で。

 太陽に憧れて、近づきすぎたバカは翼を焦がされて地に落ちた。それと同じで、俺の翼も燃やされてしまった。

 俺にできるのは、彼女を忘れること。


「さぁ、帰ろうロール」


 俺はできるだけ優しい声で言う。

 まだむかっ腹は立っている。思い出すだけで怒鳴り散らしたくもなった。

 でも怒りを向けるべき相手はいない。

 その相手から逃げてきた俺に、怒りを吐露する資格なんてないのだろう。だから、俺は全てを忘れて眠りたかった。

 できるなら、ロールも一緒に帰って欲しい。けれど、ロールは首を横に振った。


「センパイ、もう一度店に戻りませんか?」


 真っ直ぐとした瞳で俺を見据える。

 思わず、俺は目を逸らしたくなった。ロールの提案も、彼女の輝く瞳も、今の俺には耐えきれない。

 俺は、聞こえなかった振りをして一歩足を踏み出す。

 我ながらバカみたいな抵抗だ。そんなものが通用するわけもない。


「センパイっ!」


 ロールの叫び声が耳をつんざいた。

 こんな声も、出せるんだ……ロールは。


「藤坂が俺たちに何をしたか知ってるだろ!」


 負けじと、俺も声を荒げてしまう。

 結局、引き返したって無駄に傷ついてしまうだけなんだ。俺はまだいい。でも、ロールが傷つくのはやっぱり我慢できない。

 なんでロールはわざわざ茨の道を突き進もうとするんだろうか。

 得なんて何一つもないのに、藤坂の顔だってもう見たくないのに。


「でも、本当にマイちゃんがあんな酷いことを言う人だって思うんッスか!」

「それは――」


 言葉をつまらせてしまった。

 それはどうだろうか。

 そうだって、ハッキリと言い切れない自分がいた。俺は知っている。藤坂が自分の身体に無数の傷を作って、それでも見知らぬ誰かを守ってきたということを。

 俺の命を二度も救ってくれた相手だってことを。

 でも。

 だとしても。

 俺は知っている……手のひらを返したように冷たい態度を取って見せた藤坂を。

 見られただけで身体が震えてしまう恐ろしい瞳だって。

 ロールのケーキを踏み潰したことだって。


「センパイが、そう思うならいいッス。でも、そう思わないなら……絶対戻るべきッス! 自分は嫌ッス、このまま終わっちゃうのは!」


 そんなの理想論じゃないか。

 俺だって、俺だって嫌だ。

 こんな終わりなんて望んじゃいない。いるはずがない!

 でも、でも……。


「ダメなんだよ。俺じゃ、ダメなんだ」

「どういうことッスか」

「俺は、平凡な人間だ。今だって、藤坂が本当はあんなことをする奴じゃないって思いたくても、心の中で藤坂を憎んでるし、行動にだって起こすことはできない。うだうだグチグチ、悩んで、迷って、それでいつも時間だけが過ぎていく。そんな凡人なんだ、俺は。だから――」

「だから、諦めるんスか」


 今まで見たこともないような、真剣な眼差しが俺を貫いた。


「センパイは凡人ッス。平凡ッス。どこにでもいるような人かもしれないッス。でも、それがなんだって言うんスか!」

「……」


 その言葉が、さらに俺の胸を貫いていく。


「凡がたくさんあったっていいじゃないッスか! 自分にとってのセンパイは、目の前にいる亜月日々ただ一人ッス! 自分を助けてくれた、平凡で、凡庸で、凡人で、でも誰よりも輝いて見えたセンパイなんスよッ!」

「……」

「これは言わないでおこうと思ったッス。でも、センパイがまだ決心してくれないって言うんなら、言っちゃうッス」


 ロールは息を吸い込んだ。


「マイちゃん、泣いてたッス!」

「……!」

「みんなが、感情がないとか、鉄仮面だって言ってるはずのマイちゃんが、泣いてたんスよ! それで、それで! 自分で踏んづけたはずのケーキを、地面に落ちたケーキを食べてたんスよ!?」

「っ!」


 その言葉は、衝撃的だった。


「だっていうのに、センパイは、それでも店に戻らないっていうんスか?」

「……」


 俺の身体は勝手に動き出していた。

 わけが分からない。

 自分で、あんなことを言っておいて泣いてただとか、自分で踏んづけたケーキをわざわざ食べるとか。意味不明だ。

 不可解だ。

 理解不能だ。

 だから、こんな気持ちのまま帰るなんてできるわけがない!

 俺は走る。

 ただ、走る。

 雨の中を。

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