アフターストーリー
髪を切って
聞いて、と珍しく自社戻りをしている真依に声を掛けられる。
グループミーティングか何かで帰社したのだろう。
「どうしたの?」
「今週、木崎さんが髪切って、カラーもしてきたの」
なんでその話題が一番初めに出るんだろうと思いつつ、無視はできない。
「別におかしな話じゃないんじゃない? 気分転換したいことなんて誰だってあるでしょう?」
「そうだけど、何て言うか、美人なの。元々美人だったけど、落ち着いた雰囲気だったから知ってる人は知ってるみたいな感じだったでしょう? それが明るくなったっていうか、魅力が溢れてて放っておけないくらいなの。
隣のチームからわざわざ木崎さんを見に来るくらい」
「そうなんだ」
「そうなんだって、柚羽反応悪い。本当にすごくイメージ変わってびっくりしたんだよ」
「日曜に会ったから知ってます」
真依が木崎さんと呼んでいるのは、真依と一緒の現場で働いている木崎睦生のことで、わたしの内緒の恋人でもある。
真依にはそのことは言ってないにしろ、よく公園で会う仲だとは知っているので言葉を選んで返事をする。
「なんだ。知ってたんだ柚羽」
土曜日に髪を切りに行きたいと相談されて、睦生の部屋で5歳になる一人娘のひびきちゃんとお留守番をした。
戻ってきた睦生には、わたしはもうとっくに撃ち落とされた後だった。
「木崎さん、短いのも似合うよね」
「そうだね」
感情を押し殺して真依に素っ気なく頷く。土曜の夜はそのせいで止まらなくて、睦生と今までで一番長く甘い時間を過ごしてしまった。今思い出してもちょっと体が熱くなるくらい。
「木崎さん、恋人できたのかな」
「何で?」
「髪を切るのは気分転換もあるだろうけど、見せたい相手がいるから可愛くなりたいっていうのもあるじゃない? 最近ちょっとだけど残業がOKの時もあるし、休みも少なくなったから、環境の変化があった気がするんだよね」
「そうなんだ」
「そこは何も聞いてない?」
「わたし、木崎さんのストーカーじゃないけど」
そう言って真依の追求をはぐらかして、何とか逃げた。
「絶対そうだと思うんだけどな」
真依にも姉の葵にも睦生とのつき合いを知らせてないのは、2人が睦生と同じ場所で働いているからだった。
睦生に変に気を遣わせたくなくて、今は様子見をしている段階だった。
いつまでも隠し続けられるとは思ってないけど、2期開発がもうすぐ終わるので、そこで体制は変わるはずだった。
そうすれば、3人が同じ場所で働くことはなくなるかもしれないので、少なくともそこまでは待つつもりだった。
「どうして真依がそんなに木崎さんを気にしてるの」
「木崎さん、なんか雰囲気変わったんだよね。こっちで作業して、戻ってきたくらいからかな。何でだろうって考えて、好きな人が出来たのかなって。まさかうちの社員じゃないよね?」
「前のダンナさん同業だったから、SEは絶対嫌だって言ってたよ」
「そうなんだ。じゃあ違うか。そう言えば柚羽も髪切ったんだ」
今更のように付け加えられる。
「うん。ちょっと走るのに邪魔になってきたから」
「柚羽が髪を短くするの久しぶりだよね」
「短いと楽でいいよ」
「相変わらずなんだから。失恋したとかじゃないよね?」
「誰にするのよ」
「うーん、マラソンで知り合った人とか?」
「そっち系で知り合いは増えたけど、女性で恋人もいる人だよ」
「そっかぁ。残念」
「まあ、それはそのうち考えるよ」
わたしが真依に恋人ができた、と真実を言えるのはもう少し先になる。
でも、今のわたしは真依よりも睦生の方が大事だから、睦生を守るためなら小さな嘘くらいはつけた。
夕ご飯を食べて帰らない? という真依の誘いを断って、わたしは自分の家のある駅ではなく、隣駅で電車を降りた。
「ただいま」
合鍵で家に入ると睦生は夕ご飯の準備中で、ひびきちゃんはリビングのマットの上でお絵かきをしていた。
「お帰りなさい」
「おかえりなさい!」
2人に口々に言われて、もう一度ただいまを言う。
さっき真依が褒めていた睦生は、今週末に髪を切って更に魅力が増した。アッシュっぽさのあるブラウン系の髪は透明感を感じさせる。それが首辺りまでの拡がりのあるボブに良く合っている。
首の動かし方によっては項が見えて、それがまた色っぽい。
とはいえ、ひびきちゃんの前ではべたべたするわけにはいかないので、抱きつきたい思いをぐっと堪える。
「何か手伝おうか?」
「もうできるから、テーブルを拭いてくれる?」
「わかった」
毎日ではないけど、週の半分くらいは睦生の家に顔を出すようになった。
スーツの上着を脱いでから、テーブルを拭いていると、ひびきちゃんがやってくる。
「ひびきがする!」
「じゃあ交代しようか」
イスの上に膝立ちになったひびきちゃんにテーブルを拭くのを託して、それを見守る。
睦生とひびきちゃん2人の時は、ひびきちゃんは全くそういうことをしなかったそうだけど、今はわたしが何かしているのを見るとやりたがることがよくあった。
「隅まで上手に拭けたね。ひびきちゃんすごい」
胸を張る姿は可愛くて、天使2人に囲まれた幸せすぎる空間は、仕事の憂さを忘れさせてくれる。
3人で夕食を取って、ひびきちゃんとお風呂に入った後、そのままひびきちゃんを寝かしつけるのはいつものことだった。
リビングに一旦戻ると、睦生がお風呂から上がって寛いでいる所だった。
「今日、真依が戻ってきてて、睦生が益々美人になったって力説してたよ」
「一瀬さんが?」
「うん。真依がそんな話をするの珍しいから、よっぽどイメージ変わったんだろうね」
「髪切って、ちょっとカラーを入れただけなんだけど」
「でも、わたしも睦生に変な虫がつかないかなって心配してる」
「ワタシには柚羽がいるんだから、心配することないのに」
「キスしていい?」
頷いた睦生の顔を覗き込んで顔を近づける。
腰に手を回して引き寄せると、体をそのまま預けてくれて唇を重ねた。
2人の時の睦生は、わたしが触れることに寛容で、甘えてくれるのが嬉しい。
「最近告白されたりはない?」
「それはないけど、飲みに行かないかとかは時々声を掛けられるかな。子供がいるからって断ったら諦めてくれるよ」
恋人がいるでないところは少し残念だけど、断る理由としては子供の方が諦めてくれやすいだろう。
「じゃあいいけど、強引な人もいるから気をつけて」
「分かってる。でも、ワタシは子供がいるから断れるけど、柚羽の方が心配だよ」
「わたし? 働き初めてから声を掛けられたこともないよ? 前の恋人は合コンで知り合ってだったし、女性としての魅力全然ないから」
「そんなことないのに」
「わたしは睦生に好きだって言って貰えたら、それでいいよ」
「好き」
背に腕を回した睦生の可愛さに自分が独占できていることが奇跡のようだった。
「睦生が可愛いすぎる。平日は我慢しようって思ってるのに、我慢できなくなるじゃない」
「しなくていいんじゃない?」
「負担にならない? 疲れてない?」
「柚羽が家事や育児を手伝ってくれるようになってから、ちょっとは余裕がもてるようになったから大丈夫」
じゃあ、とわたしは改めて誘いを出した。
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