第28話 船医の不毛な恋

 翌朝。

 羽毛のような柔肌に抱かれて、カールは目を覚ました。


 夢の中ではサティナがいて、まだ見ないあられもない姿が、なぜかくっきりと具現化されていて、これは夢だと自らも理解しながら楽しんでいた最中だった。


 しかし、いきなりイライザが。

 あの黒狼の生意気な小娘が現れて、カールに向かいバケツ一杯の冷水を浴びせかけてくる。


「イライザぁ! なんでっうわっ……ぶはっ」


 と、そこでカールの夢は破られた。あと少しでいいところだったのに、と目を開けるも焦点が合わない。

 自分はこんなに目が悪かったかな?


 前から近眼の気はあったが、一気に加速して悪くなったのか、などと医師らしく思案してみる。

 しかし、そこにあるのが二つの人肌程度に温かい双丘だということに気づき、カールは身動きをそっと止めた。


 サティナがまだ心地よさそうに寝息を立てている。

 背後から彼女を抱きしめて、カールの中では男らしく腕枕をして寝たつもりなのだが。

 いつの間にか、抱き締められていたらしい。


 ……これは眼福だ。おまけにサティナ以上の女性なんてこの世に存在しない……。

 他に女性を知らない若者の世迷言と聞こえそうだが、カールは本気でそう思って信じていた。


「お、起きないよね?」



 胸の中についつい顔を埋めてみた。妄想が現実になる瞬間。

 背徳的な行いだと分かっていてもやってしまった。

 ごめんね?

 妻はふっと鼻息を一つついて、許してくれた。


 彼女の胸の中で窒息死するならそれも悪くないと思うほどには、妻を愛している。

 いや、それはあれかな? 結婚とか恋の始まりに目がくらんだ男の言うことかな?

 そんなことを考えながら、自分の額に彼女の健やかな寝息がかかってくる。


「カール」


 と、いきなりサティナが名前を口にする。

 それは寝言だったのだが、カールは小心者だ。


 自分のことについてはとても主張が弱い。

 こんなことをして楽しんでいる自分をサティナに知られたくないと思い、そっと胸から顔を手を離した。


「君は凄いよね。僕ならそんなに熟睡できないよ」


 初めての夜を何もせずに過ごした自分の不甲斐なさを呪いつつ。

 カールはサティナを起こさないよう、そっと寝所を抜け出すと、顔を洗い寝癖を直してから部屋に戻った。


 まだ寝ている彼女の横顔を堪能しながら、普段着に手を通す。

 そうしていたら、彼女が目を覚ました。


 最初、見知らぬ天井があってびっくりしたらしい。

 形の良い杏型の瞳が大きく見開かれていた。


「やあ、起きた?」

「……カール」

「ちょっと」


 不安そうな顔をしていたサティナは、夫が声を掛けてベッドの側に腰かけると、いきなり抱き着いてきた。

 その勢いが良く、カールは転げそうになる。


 どうしたの、と訊いてみたら、「寝ぼけて」とお茶を濁していた。

 寝起きで状況把握ができず、段々と思考が落ち着いてくると、過去を思い返して気恥ずかしくなるのは、よくあることだ。


 更に抱き寄せられ、圧迫感が高まる。

 同時に、彼女と過ごす二人きりの朝が新鮮な魅力に包まれていく。

 カールは新妻の魅力に骨抜きにされそうだった。


「まっ、待って! もう駄目だから。それ以上は、ね……食事に行こう?」

「……そうね」


 昨夜から、キスというものの感触を初めて知った。

 これだけでもう懸想を催したくなる。


 分かりづらい?

 彼女をベッドに押し倒したくなる。男なら当たり前の感情だ。


 まあ、初めての結婚、初めての、初めての……と連続しそうになっているのだから、落ち着きがないのも無理はない。

 まだ青春すら始まるかどうかというカールにとってそれが、あまりにも刺激的すぎるのもまた、問題だった。


 サティナは四度目の結婚ということで、そこいらは落ち着いたものだ。

 特にがっつくということもなく、年若いカールに全てを委ねて待とうという。そんな余裕すら感じさせる。


 歳の差が離れすぎているというのもある意味、問題で。

 夢の中で自分にバケツの水をぶっかけてくれたイライザのように、感情を端的に表す尻尾がサティナにもあれば、色々と有利に立てるのにな。


 ……などと不敵なことを考えてしまうカールだった。


「食事に行きましょう。でもちょっと待ってください準備が……」

「いいけどどれくらい?」


 女性の仕度には時間がかかるものだ。姉弟子たちの経験でそれは心得ている。

 サティナの準備が整うまで、あのワニの痕跡などを調べるつもりだった。


「……三十分はかからないと思います」


 意外と長かった。

 


 あのワニ。

 ドラエナと名乗った。

 赤の月の女神様、とも言っていた。

 神話にも出てくる、赤い月の女神リシェス。


 いまは太陽に隠れて見えない三連の月が、夜空には浮かんでいる。

 青に赤、そして銀。

 季節によってそれぞれ位置を入れ替えて夜空を回るその天体は、神が住む宮殿があるといわれていた。


 腐蝕の魔神バルッサムと浄化の女神リシェス。

 その二神が確かそれぞれの覇権をかけて争っているとかいないとか。いまだにその決着はついているとか、いないとか。


 まあ、そんな神話があって。

 魔導師たるもの、魔法の原脈となるのは神の力だから、神話学を学ぶのはそれこそ、常識を学ぶのと同じくらい当たり前のことだった。


「それにしても、間が悪い。あのドラゴンといい、ヘイステス・アリゲーターといい」


 まるで示し合わせたかのように、僕の行く手を阻もうとする。

 とんでもないトラブルを解決したら、最高の伴侶を手に入れた。


 そうなると、次に繋がるトラブルはなんだろう?

 そう考えていたら、昨夜同様に激しく、部屋の入り口がノックされた。


「先生、カール先生!」


 ローゼが泣きそうな声で扉を叩いていた。


「旦那様!」


 浴室から顔を出したら、サティナはちょうど顔を作っている――いや、化粧の最中だった。

 顔面の半分が別人のようになっていて、ちょっと驚きだ。いやそこじゃない。


「僕が出るよ。はいはい……待ってね、と。うわっ、何!?」

「男爵様ぁ! 助けて下さいっ、このままじゃ結婚させられちゃう――っ」


 扉を開けたら、髪を振り乱したローゼがいた。

 昨日のようにびしっとした格好はどこに行ったのやら。

 今日は紺色の開襟シャツに黒いタイトスカートの彼女は、あの船医の証である、白いたすき、すら掛け忘れてきたらしい。

 もう勤務時間は始まっているはずだから、カールは彼女の態度に緊急性を感じ取る。


「とりあえず中で訊くよ。入ってください」

「男爵、わたし、私っ……!」


 ひぐっ、えぐっと嗚咽交じりに泣きじゃくるローゼを部屋に招き入れると、カールは廊下の状況を一瞥し、扉を閉じる。


「どうしたの、大丈夫ですか、ローゼ様」

「ううううっ、おじさんと結婚したくない……っ!」


 サティナの胸に泣きついたローゼは意味不明なことを叫び、また再び、大声を上げて泣きだしてしまった。

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