第5話 撃癒師、翻弄される

 すらりと伸びた細く長い両脚、華奢な胴体は十四歳の子供の片腕でも、絡めとることができた。

 続く胸は豊かに実り、伸びた首筋は白いうなじを見せて、年頃の男に悩ましい思いを起こさせるだろう。

 上に載る卵型の小さな顔は更に魅惑的で、美貌と抜群に均整の取れた肢体を持つ美女ばかりを集めた宮廷に上げても恥ずかしくないほどだった。


 解けば腰辺りになるだろう豊かな銀髪に映える菫色の瞳の色は意志の強さを感じさせる。

 それらの凛とした佇まいを見せる彼女の声は、人生に迷った者に救いを与える聖女のような、優しさと気力に溢れている。

 他者を気遣い、そのために自分の苦労を厭わない。


 それを苦とせずに笑ってやってのけることのできる、そんな綺麗な魂の音色を奏でる声だった。

 ついでに彼女には――足がない。


 杏型の形の良い瞳と薄く整えられた眉が印象的だったのに、いまでは後ろにある木目の壁が透けて見えている。

 おや、と思った。

 女性にしては鍛えられた背中に触れ、心臓の音を聞き、心に亡き母親の面影を甦えらせながら、あの暗闇の底から地上へと生きて戻れたはずだった。

 決して腰の細さに比べればより豊かな胸に抱かれて羽毛にくるまれたような、抱き心地を味わおうとしてはずでは――ないのだけれど。


 何があった……?


 男にとってみれば、天国にも等しいその感触にもっと包まれていたいと望んだとき、

 ばしゃっ!

 と、顔面に大量の水がぶっかけられた。


「うわあっ!」


 その冷たさに意識は一気に覚醒する。

 慌ててはね起きたカールは悲鳴を上げた。

 ついで極上の安堵の中から一変してしまった現実が把握できずに、しかし、長年鍛え抜かれた肉体は緊急に備えて身構えることができた。

 心は呆然としたままで何の役にも立たない構えだったが、自分がいまどういう状況にあるかを知るには十分だった。


 どこか見覚えのある民家の敷地内で、その脇にある井戸から汲んだ水を、彼女は手桶で自分にぶっかけたらしい。

 自分を助けてくれた相手がそこに桶を持ったまま立っていた。

 薄暗い闇の中で、彼女の顔が不安そうに揺れる。

 両肩を落としてしまい今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 よくよく見るとその全身は自分よりも泥まみれになっていて、顔の額から上を覆った藍色の飾り布も水気を含んで黒くなっていた。

 家屋から漏れ出す人工の灯りに照らされて、土に汚されてもなお彼女の美しさは損なわれることがない。


「君は……ああ、そうか」


 それだけ言って、カールは夢を見ていたのだと理解した。

 しかし、起こすにしても、なんとも酷い扱いをされる。

 助けてもらって文句を言うのもおかしな話だが、この起こし方はないのじゃない? と問い詰めたい気分になる。

 それも相手が悪意があればの話だった。


「良かった。お気づきになられた」


 彼女は冷水をかけたことを悔いているように、視線を彷徨わせる。 

 運んでいる間に目覚めないから心配したのだろう。

 どこまでも不安そうな顔をして心配そうにこちらを見下ろされたら、何も言えない自分がいた。


「いきなり水を浴びるのは、ちょっと予想外だったかな」

「すいません!」

「いや、いいよ。助けてもらったし」


 相手のことより、自分のことだ。

 四肢は動く、頭は疲労でぼんやりとしているが問題はない。

 身体にはこれといって異常はなかった。ただ一言を発するのが億劫になるくらい、衰弱しているだけだ。

 うろんな表情のまま立ち上がると、少女は喜んでいるのか困っているのか分からない顔をしてこちらを見ていた。


「御気分は……治癒師様」

「最悪だけど?」


 起こし方に問題があると嫌味を述べたら、相手は顔を真っ赤にして平謝りに謝ってくれた。


「申し訳ございません……。その、暗い土の底から戻った者には、地精がつく、と……言われているのです。戻った者は最初の起きていてもやがて深い眠りにつき、二度と戻ってくることはないと……」

「それは何? この土地の伝承か何か? それとも本当にそんな悪意のある精霊がいるの?」

「いえ、それはわかりません。ですが、地精は水を嫌うと言われておりますので、それで、その……」


 彼女はチラリと自分の背中に視線を這わせた。

 そこには井戸があり、彼女が手にしているのと同じ形の手桶が二つほど見える。

 大地の精霊がもし悪戯をするなら、水を与えるのは逆効果だろ、と精霊について知識を持ち使役できるカールは心で毒づいた。


「その伝承が多分間違ってる」

「え?」

「悪い大地の精霊を取りつかれた人間から祓いたいなら、金属を額に当てればいい。剣とか、短刀とか。そういった、人が作り出した武器の類だったら、彼らは怯えてどこかに行ってしまうから」

「あ、ありがとうございます。そのようにみんなに伝えます」


 最初は怪訝な顔をして。それから自分が行った対処法が過ちだったことを気づいた彼女は、大きく頭を下げた。

 腰を深く折り、頭の先が地面についてしまうのじゃないかと思うぐらい。

 その頭は深々と下げられていた。


「うん、そうしてあげて……」


 謝罪が続く。延々と続く。ただひたすらに、馬鹿の一つ覚えのように少女は体勢を変えないまま、申し訳ございませんを繰り返す。

 こちらがもういいよと言うまで、それは続けられた。

 多分、彼女は何事に対してもこんな感じで真摯に勤めてきたのだろう。

 相手の誠意が強すぎて、心のどこかに浮かんでいた嫌味のすべてが、いつのまにか消え去っていた。


 自分の感情をこうして態度で伝えることができるのは――強いな。

 この女性は、強い人だ。そんな風に思えた。

 臆病で逃げ回ってきた自分とは真逆にいる存在に思えてしまう。

 そう考えると、これ以上深く関わってはいけない気がした。


「もういいよ。本当にもう、気にしてないから」

「いえ、いいえ。申し訳ございません、自分のしたことを本当に恥ずかしく思います。誤った考えで治癒師様に不快な思いをさせたこと、お詫びいたします。どうか」

「いや、だから。もういいって」

「ですが! ……罰を受けるならば、どうか私だけに。母にはなんの罪もありません、どうか……」


 いやいや、誰も君と母親を罰するなんて言ってないけどね。

 行動力の強さは思い込みの強さに比例するのかもしれない。

 とりあえず彼女たち一家に対して、怒りはないし罰を与える気もないことも伝えたらようやく彼女は顔を上げてくれた。


「ちょっと待って。僕は君たちに何か罰を与えたりしないから。助けてくれた恩人に向けて恩を仇で返すようなことはしないから。とりあえずその頭を上げてよ」

「本当に? 本当でございますか?」

「本当、本当だって。言ったことは守るよ。だからとりあえず、その――」


 明かりに照らされて映し出される彼女の肢体はずぶ濡れのままで、目のやり場に困る。

 今更ながらに相手の着ている服が若緑色の裾と袖口が長い胴衣と、黒い厚手のズボンだということに気づいた。

 どちらも朱色の鮮やかな飾り糸で刺繍が施されているが、いまは肌に水を吸ったそれが肌に張りついて逆に艶めかしい。


 時と場所が違っていてもしもカールが悪人だったなら、今すぐにでもベッドの中に誘い込みたいような、そんな成熟した肉体を彼女はこちらに向けている。


「その、何でしょう?」

「いやとりあえず、僕のことは大丈夫だから。あなたの方を、ね。その、着替えなどをされた方が良いかと。風邪を引くでしょう?」

「私はそんなに弱い体をしておりませんから、大丈夫です。それよりも治癒師様の御召し物をどうにかしないと。そちらこそお風邪を召してしまいます」

「ああ……うん」


 そうだね、と手で土まみれの頭をかく。

 パラパラと半乾きの土くれがそこかしこに舞った。

 それはカールの悩みを表しているようだった。


 彼女にとって今一番大事なのは自分のことなのだ。

 身分の低い彼女自身よりも、身分が高いカールのことを優先しなければいけないと思い、彼女は自分のことを二の次に置いていた。

 外観などどうでもいいのだ。それよりもさっき彼女自身が言った言葉が全てを物語っている。


 カールの機嫌を損ねることは彼女達、母娘の未来を暗くする。

 そこに恥じらいなんて意識が介在する理由はなかった。


「わかった。それじゃあ悪いけど、お風呂を……」

「お湯を沸かして、水浴びができる場所ならばございますが……」


 と、少女が困ったように首を振る。

 確かに。彼女たちが住む家に、そんな設備が整った場所があるとは思えなかった。

 貧しいのだ。湯沸かし水と混ぜて、肌を拭くことはできるだろうけれど。

 火を燃やし、薪をくべて水を使うようなことは、贅沢に値する。

 そのことに気づいてカールはそれ以上、望むのをやめた。


「そう、だね。なら、それを貸してもらえたら嬉しいかな?」

「もちろんです! そのために湯も、いま沸かしております。いつでもお使いできるように、母が支度を整えております」


 彼女は申し訳なさそうにそう言った。

 自分が気を失ってからどれくらい時間が経ったのだろう。

 夜空を見上げると月が山の中腹ぐらい昇っている。

 冷たい夜風が吹いてきて、冷え切ったカールの肌をさらに冷やかしていく。

 くしゅんっ、と小さくくしゃみをしたら、相手は驚いてしまい焦って目を大きく見開いていた。


「ああ、大変! こんなことになって、どうしよう!」

「いや、くしゃみをしただけだから。とりあえず家の中に入りません?」

「はっ、はい。どうぞ……こちらになります」


 助けてくれた時の働きぶりとは打って変わって、ぎくしゃくと己の気まずそうに動く少女は、項垂れて肩を縮める。

 一回り小さくなってしまった感じのする背中を追って、カールは改めてずぶ濡れの身に虚しさを感じた。


「うん」


 案内に従って家屋に入る。

 中は大きな部屋が一つと、奥に扉が二つ。

 暖炉が一つとテーブルに椅子、生活に必要なものがおさまった棚に、二人が揃って寝るだろう奥に一段だけ高くなった狭い場所に布団が敷かれていた。

 その内の扉を押して、タイル張りになった洗い場にカールは通される。

 脱衣場も含んだ部屋の狭さ、黄ばんでひび割れたタイルの壁に、彼女たちの貧しさが染み出ているようだった。

 もう一人いるはずの母親の姿が見当たらない。

 どこか別の部屋に引っ込んでいる可能性もあり、しかし昼間、治療を施した時にはあんなに弱り切っていたのに……?


「お母様はどちらに?」

「母は治癒師様の寝床を設えておりますので。後ほどご案内できること」

「ああ、そういう」

「はい。湯を、こちらに……水はそちらの桶に溜めておりますので、どうぞお使い下さい。拭くものはこれを……」


 そう言い、先程の手桶二杯分の湯が届けられた。

 暖炉の火と、魔鉱石を使った鉱石ランプの灯りによって、かろうじて屋内が見渡せる薄暗さ。

 もう何年もこんな場所に来ていないなと思いつつ、それを受け取る。


 ふと見た少女の全身はまだ濡れたままで、外套を脱いだ下に着ていた腰ほどまでの上衣も、やはり泥まみれのままだった。

 手だけは汚れがなく、さっきの井戸ですすいだのだろう。寒さで白い肌が青白く翳って見える。

 その身に被った泥がつかないよう丁寧に置かれた数枚のタオルは、やはり、些末なものだ。


「ありがとう。あなたも早く着替えた方がいい。僕よりも寒さに疲れてしまってる」


 泥まみれだし、とは言えない。とりあえず暖炉の火にでも当たって暖を撮って欲しかった。

 ついでに色っぽいその外観も、どうにかしてほしい。

 まあそれは言えないんだけど。

 やっぱり目のやり場に困って視線を彷徨わせるとようやく彼女はそのことに気づいたらしい。


 今度は別の意味で顔真っ赤にして「申し訳ございません! 私ったら……」と悔いるように叫ぶと、慌てて洗い場から出て行ってしまった。

 全力を出しすぎて失敗するタイプだろうか?

 それともどこか抜けている?

 演技して欲しいようには見えないし、そこまで大騒ぎすることもないだろうに。

 この土地柄なのかもしれないけれどコロコロと大きく変わるその仕草に翻弄されそうになる。


「……なんか、別の意味で疲れる……」


 カールはタオルの他に、着替えとして置かれていた誰かの衣類に目を通して、首をかしげた。

 この家には母子、二人だったはず。


「亡くなられた父親のものかな?」


 とりあえず着ているものを脱ぎ、水が張られた人一人が腰まで浸かることのできそうな深さのある桶に湯を注ぎつつ、体の泥を落とす。

 自分の次には彼女がこれを使うだろうから、なるべく水を汚さないように気をつけて、全身を洗った。

 ドラゴンに怯えてどこかに走り去ってしまった自分の馬。あれには着替えも石鹸も当座の食料だって括りつけていた。

 いまではその石鹸がないことが恨めしい。


「あの、治癒師様!」


 そう思っていたら背中に小さく声がかけられた。

 洗い場の扉が開き、白く細い腕が何かをタイルの床上に置いて、引っ込む。


「それをお使いください。安いものですが汚れは落とせるか、と」


 置かれていたのは、いい香りのする使いこまれて小さく先細った石鹼だった。

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