アップルパイ(恋愛)

 あの人は今日も釣りに行ってしまった。

 結婚前から釣りが趣味だと分かっていたし、独身時代は何度か一緒に渓流釣りに行ったことはあった。

 でも私には何時間も釣り糸を垂れる面白さがちっとも分からなかったし、生餌を触るのも見るのも嫌だった。

 あの人は退屈する私に、釣り用の細いワイヤーとテグスを使って小さなトンボやクモを作ってくれたけど、オモチャでも虫は嫌だったので、私は終始むくれていた。


 そのうちついて行くのをやめてしまった。趣味を理解も共有もできないのは少し寂しいけど、仕方ない。仕方ないけど、2人とも休みの今日くらい家にいてくれてもいいのに。

 普段は寡黙で落ち着いているのに、釣りに行く時は朝早くから子供の様にそわそわしているのですぐ分かる。

 いそいそと防水ズボンを鞄に詰め込んでいる後ろ姿に、つい咎めるような声が出たのは無意識だった。


「今日何の日か覚えてる?」

「あ…、ああ、うん」

「言ってみて」

「えーと…結婚記念日?」

「なのに釣り?」

「ごめん、うっかりしてて…もう約束しちゃったんだ。なるべく早く帰ってくるから」

「もういい」


 申し訳なさそうに目を伏せる彼に、私は素っ気なく言った。どうせ行ったら夢中になって何時間も帰ってこないに決まっている。

 口もきかずに洗い物や洗濯物を片付けている間に、玄関のドアが静かに閉まる音が聞こえた。


「行っちゃった」


 呟いた声が空虚な居間に響く。ソファの上にクッションを抱えて座り、脱力した。隣に猫が乗ってくるのを惰性で撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らす愛猫に話しかける。


「今日の晩御飯はお魚決定ですよお。君の分もあるかな」

「にゃー」

「せっかくプレゼント用意したのに」


 新しい釣り用のウェアというところが皮肉だが、彼の喜ぶものは釣り関連が多いから必然的にそうなる。


「いいお酒だって用意したのよ?」

「にゃー」

「もう、一人で飲んじゃおうかしら……よし、そうしよう」

「にゃ?」


 まだ昼前だが構うものか。私はキッチンに向かい、冷蔵庫から出した冷酒を、グラスに注いだ。赤と青の切子のペアグラスは、去年の結婚記念日に買ったものだ。


「あー、美味し。ふふん、昼間から酒を飲む背徳感、最高」


 夜に食べようと下ごしらえをしておいた酒の肴を、つまみ食いしながら仕上げ、立ったままグラスを煽る。お行儀悪いなんて気にしない。


 いい感じに酔いが回ってソファでうとうとしていると、玄関のチャイムが鳴った。あの人なら鍵を持っているから勝手に入ってくるはずだ。

 私は覚束ない足取りで近付き、モニターを覗いた。画面いっぱいに赤い何かが映っている。


「お届け物です」

「あ、はーい」


 酔いも手伝って、たいして警戒もせずに開錠してしまったが、宅配業者は名乗っただろうか。

 ドアを開けると、そこにはあの人が立っていた。両手に薔薇の花束と大きな包みを持っている。


「おかえり…?釣りは?」

「奥様への贈り物を釣りに」


 彼は大きな花束を私の前に差し出した。深紅のビロードのような花弁、馨しく甘い香りが鼻孔をくすぐる。驚いたけれど、花を貰って嬉しくない人はそういない。


「ありがとう。こんなにたくさん…」

「101本。花言葉は……『これ以上ないほど愛しています』だって、お店の人が教えてくれた」


 顔を真っ赤にして、不器用すぎる言い方で言う彼に、感動するより先に笑ってしまう。それに慣れないことをされて、私も恥ずかしい。顔が熱くなっているのはお酒のせいだけではない。


「そうなんだ」

「最初100本だったけど、1本足した方がロマンチックだって」

「上手く乗せられたわねえ~」

「君が喜ぶならそれでいいんだ」


 彼は照れ隠しの様に俯いて靴を脱ぎながら、もう一つの包みを持ち上げた。

 ケーキを入れる箱のような形。私の両手が塞がっているので、キッチンまで運んで、テーブルの上に置く。


「あとこれ」

「なあに?ケーキ?」

「開けてみて」


 私は薔薇の花束をそっと置き、ケーキの箱に手を掛けた。蓋を開けると、中から甘い香りとともに、こんがりと焼けたアップルパイが現れる。


「アップルパイ!」

「前に好きだって言ってたから……僕が作った」

「へ?」

「僕が作ったんだよ」


 私はあんぐりと口を開けて、真っ赤なままの彼の横顔を見つめた。趣味は釣りで寡黙で不器用なこの人が?料理はからきしダメなはずなのに。


「サプライズしたくて…ずっと練習してた。友達が自分の店の厨房を朝早くならいいよって使わせてくれたんだ」

「それで朝早く…」

「釣りを言い訳にしたのはまずかった。サプライズなのに、君を怒らせてたら本末転倒だよね」

「そんなことない!もう怒ってない!ありがとう、嬉しい!」


 満面の笑みで勢いよく抱きつくと、彼も笑いながら抱き返してくれた。が、すぐに少し眉をしかめる。


「酒臭い…」

「それは、だって、今日も遅くまで帰ってこないと思ったから…もう呑んじゃえ~って」

「それはごめん」

「いいの、いいの!一緒に呑もう!つまみはアップルパイ!」

「結局呑みたいだけか」


 苦笑する彼を早く早くと急かしてアップルパイを切り分けてもらう。その間に数本だけ根元を切って処理した薔薇も花瓶に飾り、居間のテーブルに運ぶ。


 2人で食べた少し焦げ目のついた林檎のパイは、冷酒とは合わなかったけど、今まで食べたどんなパイより美味しく感じた。


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