おしゃべりなスパイス(ファンタジー)
カランカラン。
真鍮のドアベルが軽やかな音を立てる。ドアノブに手をかけるより早く、店の扉が内側から開く。
「いらっしゃいませ!」
出迎えた白髪頭の店主は、いかにも好々爺といった風貌で、皺だらけの目元を更にくしゃくしゃにして、嬉しそうに私を出迎えた。
「こんにちは、
「こんにちは、
私がこのスパイスショップ『terramerita―テラ・メエリタ―』を訪れたのは先月のこと。今日で二度目の来店なのに、名前を憶えていてくれたらしい。
前々から「魔法使いが営んでいる」と噂されていた小さなスパイスショップは意外にも繁華街のど真ん中にあり、探し当てるのにそう苦労はしなかった。
雑居ビルの二階への階段を上り、入口に辿り着くまでの通路にはたくさんの観葉植物の鉢がちょっとしたアーチのように並べられていた。
店主の
驚いた私は一瞬本物の魔法使いかと思って尋ねると、鹿枝さんは笑いながら種明かしをしてくれた。観葉植物への悪戯防止に廊下に監視カメラが仕掛けてあって、店内にあるモニターで確認できるのだそうだ。
「ご相談とは?」
「こちらでは天然染料も扱っていると聞いたのですが、私が探しているものがあるかどうか……」
落ち着いたマホガニー材の色調でまとめられた店内は、カウンターの向こうに天井高いところまで木の棚が備え付けられ、色とりどりのスパイスが所狭しと並べられている。
余計な埃や泥を持ち込まないように、入口の所で靴を脱ぐシステムだが、ある意味神経質と言えなくもない仕様の割に、店主は大らかな性質らしい。
スパイスの話を始めると止まらないようで、先月訪れた時も2時間以上滞在して彼のスパイス愛を聞いていた。私の本業は染色で、料理は趣味程度、このお店を探したのもただの好奇心だったが、彼の深くて幅広い知識はとても興味深いものだった。
「どのような染料が必要なのですか?」
「ええ、ちょっと信じてもらえるか分かりませんが……『音の出る染料』です」
「おと」
「すみません、荒唐無稽すぎましたよね。いくらこのお店が品揃え豊富でもさすがに……」
「ありますよ」
「あるんですか!?」
私は驚いて思わず大声を出してしまった。
先日、私の工房を訪れた客が、『音の出る染料』で生地を染めて欲しいと依頼してきた時は、どうしようかと頭を抱えたものだ。本来なら断っていたところだが、もしかしたら鹿枝さんの店にあるかもしれないと思い至り、探してもなかったら断ってもいいという条件付きで引き受けた。
さすがは魔法使いの異名を持つ鹿枝さんだ、と奇妙な畏敬の念を抱きながら、期待を込めて彼を見つめた。
「あることはあるんですが、彼らが煩いので店内に置けないんですよ。屋上に温室がありますから、そこまで来て見ていただけますか?」
「もちろんです」
「ではこれを」
鹿枝さんは私に小さな耳栓を手渡した。いよいよ本格的だ。彼らとは誰の事だろう。担がれているのではなかろうか、と疑い半分、好奇心半分で歩き出した彼に続く。
店内の奥にある大きな扉から非常階段に出ると、鹿枝さんは一歩ずつ螺旋の階段を上っていく。
やがて屋上に到達すると、鹿枝さんは私に耳栓をつけるように言い、ボイラーや換気口などの間に建てられている小さな温室に近づいた。
分厚いガラス張りの室内は熱帯の気温に設定してあるのか蒸し暑く、長袖では汗ばむくらいだ。
鹿枝さんは時々振り返って私がついてきていることを確認しながら、鬱蒼と茂った熱帯の植物の間を奥へと進んだ。外から見た大きさとは違って中は存外広いようだ。
不思議な感覚に囚われながら、鹿枝さんの姿を見失わないように必死に追いかける。
彼は大きなねじくれた木の傍に辿り着くと、そこで足を止めた。私にその場で待っているように身振りで示し、自分は木の根元に近づいていく。
大きな木の根元には、黒い蟲瘤のような塊がいくつもあり、蜂に似た昆虫が飛び回っていた。刺されないのだろうか、と心配している私をよそに、鹿枝さんはしゃがみ込み、虫たちに挨拶するような仕草をする。
耳栓のせいで何を喋っているのか分からないが、何か話しかけているように口元が動いている。蜂たちは鹿枝さんの周りを飛び回り、規則的な動きをしているようだ。
蜂と鹿枝さんの間で何らかの交渉が成立したようで、彼は、根元にある蟲瘤の一つを、エプロンのポケットから出した小型ナイフでそっとこそぎ取った。再びポケットから出した小さな壜に慎重にそれを移し、しっかりと蓋を締めて立ち上がる。
鹿枝さんは私の傍まで来ると、にっこり笑って壜を掲げてみせた。中には黒々とした丸い物体が入っている。それが本物なのか実物を見たことがないので確認のしようがないが、とりあえず頷いてみせる。
また鹿枝さんの後について温室を出ようとした私は、ふと気になって背後の木を振り返った。蜂のような羽の生えた小さな生き物が、一瞬人の形のように見えて、思わず足を止めた。
見間違いかと目をこすっていると、振り返った鹿枝さんが笑顔で私の腕を引く。首を横に振りながら、唇の前に人差し指を立て、また腕を引っ張る。
私は茫然としたまま腕を引かれて歩き、気付くとまた店内にいた。カウンターの向こうから鹿枝さんがハーブティーの入ったカップを出してくれ、勧められるまま一口飲んで、その優しい風味にやっと人心地がつく。
「なんですか!?あれ」
「………!………!」
「あ、すみません」
驚きのあまり耳栓を外すのを忘れていた私は、鹿枝さんに手振りで指摘され、赤面してそれを外した。
「なんですか?あれ」
「蟲ですよ」
「むし?でもあれは……!」
「蟲です」
有無を言わさずにっこりした鹿枝さんの言外の圧力を感じて、私は黙り込む。
「分かりました。そういうことにしておきます」
「それがいいでしょうね」
「ところでこの黒いのはどうやって使うんですか?」
「お湯につけて溶け出した成分を、酸で溶解した鉄と混ぜてください。最初に黒くなりますけど、何色にするかは話し合って決めてください」
「依頼人と?」
「いいえ、この蟲瘤と」
鹿枝さんがあまりにも真面目な顔で言うので、笑うことも出来なかった。蟲瘤と話す?どうやって?途中までは蟲瘤からインクを作る手法と似ているようだが、話し合うとはどういうことだろう。
首を傾げる私に、鹿枝さんは当然のように言った。
「音が出る染料なんですよ?会話くらいできます」
「では、依頼人とも相談して…」
「いえいえ、蟲瘤の選んだ色にした方が、依頼人の方も喜ぶと思います。そんな依頼をするくらいですから、ちゃんと分かってらっしゃると思いますよ。大丈夫、相談はしないで、瘤と話し合ってくださいね」
「はあ…」
「お代は染料が無事出来上がってからで結構です。次回いらっしゃる時にでも。ご不明な点がございましたらまたご来店ください」
カラン、カラン。
ドアベルが鳴る。私は狐につままれたような心境で、『terramerita―テラ・メエリタ―』を後にした。鞄の中には、意思疎通が出来るらしい蟲瘤の入った小壜。
信じられない体験をした。早速、工房に戻って染料を作りたいような、なんだか怖いような。
すっかり暮れてしまった繁華街の中を歩きながら、「一杯だけ呑んで帰ろうかな」と思った私の鞄の中で、小壜が不満げに「ぶぶぶ」と唸った気がした。
果たしてどんな染料が出来上がるのだろうか―――。
終
―――――――――
【後】
『terramerita―テラ・メエリタ―』ターメリック、ウコンのラテン語。
鹿枝(生姜)の意味。
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