多分きっと逃げられない(ラブコメ)

 俺の3歳年下の幼馴染のはるかは大人しくて可愛い。儚げといった言葉の似合う、色白で小柄で華奢な女の子。

 家が隣で母親同士も仲が良く、子供の頃からいつも一緒に遊んでいて、俺にもよく懐き、どこへ行くにも「りんちゃん、凛ちゃん」と可愛らしく後をついて来た。


 高校生になったはるかは、よくモテているようで、時々家の前で男子生徒が待ち伏せているのに遭遇する。まあ気持ちは分からんでもない。

 細い手足、すんなり伸びた首筋と肩までのサラサラの黒髪、小さな顔と小ぶりな赤い唇、普段ははにかむように伏せられていることが多い黒い瞳は、よく見るとハッとするほど大きく潤んでいる。

 子供の頃から見慣れているせいか、特に意識してはいなかったけど、結構美少女なんじゃないだろうか。


 その日、俺は大学の帰りに駅前を歩いていた。

 通りを隔てた道の向こうから遥が自転車をこいで来るのが見えた。どうせ帰り道は同じだし、近づいてきたら声をかけようと思っていたら、遥の反対側から来た自転車に乗った学生風の男が、突然彼女の胸を掴んだ。


「おい!」


 驚いて漏れた俺の声は聞こえなかったようで、遥は走り去る男を茫然と見送っている。あの大人しい遥のことだ、泣き出すかもしれない。いじめっ子にも何も言えず、よく俺が庇ってあげていた。

 すぐにでも通りを渡ろうとした俺は、交通量の多い道でなかなか渡れず、遥の傍に行くことが出来ずにいた。

 通り過ぎる車と遥の顔を見比べていると、静かに深く息を吸った彼女は、意を決したように男が走り去った方角を見つめ、自転車の向きを変えた。


まさか追いかける?遥が?おいおい、危ないだろ。


 俺は猛然と走り出した遥の後を慌てて追いかけた。道を渡ることが出来ないので、道路の向かいから必死で呼びかける。


「はるか!」


 俺の声は遥の耳には届いていないようで、ついには立ちこぎで凄まじい勢いで男に迫っていく。男は追いかけてくる遥に気付き、慌ててスピードを上げる。そのまま道を曲がり、どんどん路地に入り込んでいく。これはまずい。待ち伏せされたら敵う訳ない。

 俺は全速力で駆け、2人を追いかけた。クラクションを鳴らされながらやっとの思いで道路を渡り、2人が消えた路地裏へ入り込む。


「ぎゃーーーーー!!」


 耳を裂く男の悲鳴、次の瞬間、駆け付けた俺の目に信じられない光景が映った。

 宙を舞う女子高生、後輪のへしゃげた男の自転車。俺の位置からだと横顔しか見えないが、両腕を組んだまま、倒れた男子学生の肩に足を置き、汚いものを見るように見下ろす遥の姿。


「なにしてくれてんだ、このスケベ野郎!!」

「ご、ご、ごごごごめんなさい」


 歯の根が合わない様子でガタガタ震える男の肩を、無造作に蹴る。俺は遥のあんなドスの利いた声は一度たりとも聞いたことがない。


「ごめんで済んだら警察いらねえんだよ!!」

「ごご、ごめんなさ、いいい!と、友達と賭けしてて、ちょっとした遊びだったんですよおおおお」

「遊び!?賭けだと?いくら賭けたんだよ?」

「せ、せせせ千円?」

「千円!!女子高生の乳揉んで千円!?そんな安い賭けによく乗れたもんだなあああ!!」


 こめかみに青筋が浮き出そうな勢いで今一度男の肩を蹴った遥は、触るのも汚らわしいといった様子で彼の襟首を掴んだ。


「たかだか千円でお前の人生狂うの見届けてやるよ!!警察いくぞ!!」

「ひいい、ごめんなさいいいいい!」


 頬に靴跡がべったりついた男は、口の端から血を流し、鼻血と鼻水と涙を垂れ流しながら両手を握り締め、遥を拝むように見上げた。


「うるせえ!乙女の純情なめんな!立て!!」


 怒鳴った勢いのまま振り向いた遥は、後ろに立っていた俺に気付き、驚いた表情で手から男の襟首を離した。


「り……りんちゃん」


 その隙に男は遥の手を逃れ、俺の脇を素早く走り抜けていった。俺も驚きすぎていて反応出来ず、男はそのまま大通りの方へ走って行ってしまった。逃げ足の速いことで。

 俺は立ち尽くしている遥に恐る恐る声を掛けた。


「はるか……」

「凛ちゃん……いつからいたの?」

「えーと……駅前から?すぐ助けようと思ったんだけど、道渡れなくてね…ははは」

「!!」


 力なく笑う俺の言葉を聞いて、口元を押さえた遥の顔は一瞬で真っ赤になった。そのままじわじわと首まで赤くなり、大きな瞳がうるうると潤む。


「あ、あたし、びっくりして……」

「う…うん。そりゃびっくりするよね」

「あの、その、怒ったらなんか我を忘れちゃって…」

「……そうみたいだね」


 確かに普段の遥とはかけ離れた姿だった。我を忘れるとあんな風になってしまうのか。今後はこの幼馴染を怒らせない方がいいと心にメモをする。


 気不味く突っ立っているうちに、遥は唇を噛んで俯き、不意に俺の胸元めがけて飛び込んできた。咄嗟のことで受け止めることも出来ず、勢いでそのまま後ろに尻もちをついてしまう。


「うわーーーん!怖かったあああ」


 大粒の涙をボロボロ零しながら俺の胸に縋りつき、しゃくりあげる遥にどう対応していいか分からない。うろうろと手をさまよわせ、結局頭の上に落ち着いた。


どちらかと言えば怖かったのは男の方では?


 と、ツッコミたかったが、痴漢にあった本人にそんなことは言えない。


「そ、そうか。怖かったな」

「うん、怖かったの、凛ちゃんが来てくれて良かった…」

「危ないからああいう時は周りに助けを求めるんだぞ」

「うん……今度からそうする」


 いつもように頼りなく儚げな風情で涙を零す姿に、さっきのはアドレナリンが見せた幻だったのだと思うことにする。

 小動物めいた仕草で俺のシャツに頬を押し付ける遥に、妙に胸が騒ぐ。抱き止めた体は驚くほど柔らかいし、信じられないくらい良い匂いがする。

 よしよし、と宥めるようにサラサラの髪を撫でた俺は、俯いた遥の唇が笑みの形を作っていることに気付かなかった。


「あぶなかった…」

「ん?何か言った?」

「ううん、なんでもない。凛ちゃんて昔から頼りになるよね」


 涙の残る瞳が、キラキラと俺を見上げる。よく見ると、いや、よく見なくても可愛いかもしれない。

 俺は何かヤバいものに捕まってしまった予感を抱えながら、多分きっと逃げられないのだろうなと、心の隅で思った。

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