うたごえ(人間ドラマ)

 記憶が飛んでいた。

 朝からぐずっていた2歳の息子は抱っこ紐の中でスヤスヤ眠っており、右手は5歳の娘と繋いで、薄暮の中を歩いていた。

 手作りしたクッキーのオヤツがイヤだと駄々をこねる娘をなだめすかして「散歩に行こう」と外に出たのはまだ明るい時間だったはずだ。


もう夕方?あの人が帰って来る前に早く夕飯の準備をしなきゃ。


 そう思うのに足は商店街の方に向かない。夕方の喧騒と活気にあふれた空気の中を歩くには、私の心は疲弊し切っていた。


 昨日も夫に殴られた。きっかけは些細なこと。

 胃の調子が良くなくて、家族に用意した物とは違うお粥と豆腐を食べようとしたら、「何故みんなと同じ物を食べないのだ」となじられた。

 常日頃から『家族はみんな一緒』『運命共同体』だと夫は言う。それが円満の秘訣だと。


 間違っているとは言わないが、誰だって体調が悪いことはあるし、お粥を食べることがそんなに悪いことだとは思わない。少しカチンと来て、そんな内容のことを言い返した。


 すると頬に手が飛んできた。身体の大きな夫は手も大きい。バチンと大きな音がして、頭に衝撃が走った。

 シン、と静まり返った食卓で、娘はとばっちりを食わないように頭を低くしてひたすらご飯をかき込み、状況を理解できない息子はポカンとしている。私は黙ってご飯をよそい、皆と同じ物を食べ始めた。


お前には常識がない、お前は何も分かってない。

俺が躾け直さないと駄目だな。

こんなことも出来ないのか、お前は駄目な人間だ。


 幾度となく聞いたそんな小言を延々垂れていた気がしたけど、「そうですね」以外の返事をすればまた殴られるのは分かっていたので、心を無にしてひたすら聞き流した。

 もっとも、「そうですね」と言い続けていれば「自分の意見というものはないのか、馬鹿」と言われる。自尊心や尊厳を根こそぎ奪い取ろうとする無限ループの小言。


 眠くて頭がふらふらする。昨日殴られた頬も少し腫れているようで、切れた口の端がズキズキする。

 息子の夜泣きが酷くて夜もろくに眠れず、体調を崩して休んでいれば「俺の飯は?」と聞かれた挙句「体調管理も出来ないようでは母親失格だ」と言われ、何も言い返せなかった。


 付き合っていた時や結婚した当初は「そのままの君でいい」と言ってくれていた夫はどこへ行ったのか。

 妻や母親になった途端、完璧を求めるのはどうしてなんだろう。何をしても駄目出しをする。何か問題が起こると全て私が悪いことにされてしまう。

 いったいどこで間違えたんだろう。考えても疲れ切った頭では答えは出ない。


 夏の終わりの夕暮れ時、娘の手を引いてゆっくりゆっくり歩く。あちこちの明かりが灯り始めた家々から、夕餉の良い匂いが漂ってくる。

 

 気付けば線路の傍でぼんやり佇んでいた。軋むレールの音、遠くから響く踏切の音。近づく電車の走行音。

 その瞬間は特に何を考える訳でもなかった。感情が摩耗していた。私は娘の手を握ったまま線路に向けて一歩足を踏み出した。


「なーつのおーばーじー♪なーつのおーばーじー♪」


 私の手を握っていた娘が急に歌い出した。私はハッと我に返り、娘を見下ろした。

 娘は歌うのが好きで、親馬鹿だが声質も音感も良いと思っている。彼女はいつも自分で作った歌や耳で覚えた好きな歌を歌う。独特な言語感覚で時に不思議な言葉を使う。


「お歌上手ね。『おばじ』ってなあに?」

「んーと、おばじはね~。わかんない!」

「そっか。わかんないか」

「おばじは夏に出てくるの」

「夏が好きなんだね。蝉かな?」

「セミじゃないの。セミはジジジって言うからこわいけど、おばじはこわくないよ」

「そっか」


 私は娘と顔を見合わせて「ふふふ」と笑った。通り過ぎた電車の音に驚いた息子が目を覚ましてモゾモゾと動いている。


「帰ろうか。ごはん何がいい?」

「おにく!!」

「そっか、おにくね~。よし、おにくいっぱい食べよう」

「うん」


 娘は満足そうに頷いて、また歌い出した。


「なーつのおーばーじー♪なーつのおーばーじー♪」


 何が変わった訳でもないのに、妙に憑き物が落ちた気分だった。逢魔が時に響き渡る、澄んだ幼い歌声に心が解けていくのを感じる。

 

 私は娘の頭を撫で、小さな手をしっかり握って商店街の方へ歩き出した。

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