第17話 風ふたつ
『自己最高タイ』――その文字をモニター上に見つめ、沙都子は考え込んでいた。
――何秒を出しても、きっと彼は笑わない。それでも走る理由――。
「とりあえず職業じゃ無い。走ることが好きだから――は、それは当然根っこにはあるよね。でも、苦しい。毎試合、目指す結果の最高峰は、一位になることだし、そこに記録が伴うなら最高だよ。でも彼は笑えない。喜べない。それなら――」
何がどうすれば笑え、喜べるようになるのか。沙都子は考えた。
「当事者しか分からん!」
声を出すと、あたりで小さな笑いが起きた。編集部内に残る数少ない同僚が、沙都子から目を逸らして仕事を続けた。
コーヒーを取りに部屋を出た。
「あ、クマ」
「なんだ半人前」
守山はソファーに掛け、コーヒーを飲んでいた。手にした紙コップが異様に小さく見えて、沙都子は笑った。
「蜂蜜じゃ無いんだ…」
「あ?」
コーヒーを手に、沙都子は守山の隣に腰掛けた。見比べても、同じ大きさの紙コップだった。
「オリンピック代表選手ですね」
「そうだな」
「すごいですよね」
「そうだな」
「笑って、ませんでした」
「そうだな」
「壊れたんですか?同じ事ばっかり」
「異論を挟めることを言ったら違う事も言えるぞ」
沈黙が流れた。
「書くとしたら」
「え?」
呟いた守山を沙都子は見た。
「何を書いてみたい?」
記事のことだった。その機会は無い――それは沙都子にも分かっている。取材は勿論として、デザインや何かに参画は出来る。が、記事は書けないだろう――と。
「無理ですから」
「そうだな…。まあ、そうなんだが、仮にだ。仮に書くなら、何を書いてみたいんだ?あれだけ凄い坂本にも、こんな背景があります――とかか?」
違う気がした。そこに触れる勇気はない。
「ならなんだ?凄い選手ですよねー!か?」
「ばかでしょ、それじゃ」
「そうだな…」
天井を見つめる守山を見て、沙都子は思った。
――先輩もずっとそうだったんだ。自分では書けないことを抱え、それでも記事を作る事をしてきたのね…。
「自己最高タイ――五輪切符獲得――なのに、なんですかね、この気持ちは」
守山は、今度は「そうだな」とは言わなかった。
「坂本選手、今どんな気分なんだろ」
大会からすでに一週間が過ぎている。いくつかのテレビ番組で坂本の姿を見たが、その度に沙都子はチャンネルを替えた。本当が見えなくなる気がするのがイヤだった。
その夕方、そんな沙都子の元に一通のメールが届いた。差出人は、梶原千紗となっていた。急ぎ本文を見た。沙都子が訪問した折、翔太の写真に手を合わせてくれた事への礼で始まり、そして――。
『選手権はテレビで拝見していました。坂本君、よく頑張りましたね。本当は、ご本人に伝えたかったのですが、実は彼のメールアドレスなど把握していないもので、失礼ながら若林さんに送らせて頂くことにしたわけです。ごめんなさいね?もしも折があるようでしたら、私も翔太も応援していたこと、彼に伝えて下さいますか?翔太は、いつも応援をしているんですよ――と。坂本君の走りを、翔太は好きだと、よく言っておりました。一緒に走ると風が見えるんだ――とも。翔太の口癖をお伝えします。あの子はいつも、僕は風の王様になるんだ、と申しておりました。風にも先頭があって、最初に吹き始めた風があって、それになるんだ。誰かの起こす風を受けるんじゃ無く、自分が風になるんだ。それは、最高なんだ――と。その翔太が、坂本君の事を、こうも申しておりました。坂本と一緒に走る時は、二人とも風なんだよ、お母さん。それはとっても楽しいことなんだ。だから、来年の記録会が楽しみでさ――と。ですから、坂本君あなたは――』
そこまで読むと、沙都子の顎から一粒、涙がデスクに落ちた。泣いていることも気付かずに読んでいた。静かな、温かな想いが胸に満ちるのを感じ、目を閉じた。
暫くそうしていたが、目を開けると沙都子は徐に返信を打ち始めた。そのメールへの回答は、すぐに貰えた。それを見て、沙都子は守山の机に向かった。
「守山先輩にお願いがあります」
その沙都子に、守山はただ一言先に言った。
「いいぞ。オッケーだ」
沙都子は頭を下げ、自席のジャケットを掴むとすぐに部屋を出た。
頌徳大学陸上グラウンドには練習に励む姿が多く見られた。ここを最後に訪れてから、ひどく時間が流れた気がした。
明るい声が飛ぶ。その声に応えるように、あと一歩を頑張る姿がある。
「昨日の練習よりもあと一歩前へ」
誰にとも無く呟いた。それは、前回の敗北より前に行く決意の一歩だ――と、沙都子には思えた。実際は違うかも知れない。だが、そう思える自分でいることに意義があるように思えた。
ゆったりとダウンをする雄介が、トラックを回ってくる。その姿が目の前に来て、沙都子は頭を下げた。
雄介はチラリと沙都子を見ると、微かに頷いた。
いつもの出口で待機していると、濃紺のジャージを白いタンクトップの上に羽織った雄介が出てきた。
「オリンピック出場おめでとう」
そう言い、沙都子は雄介に並んで歩き始めた。
「今日は質問じゃ無いから」
そう言う沙都子に、雄介は頭を振った。
「どうですかね」
沙都子は笑い、携帯を出した。
「坂本選手のLINE教えて」
「え?」
「早く!ほら!」
「え…あ…はい…」
有無を言わさぬ沙都子に、雄介は慌てて従った。
「今から送るから、それを読んでみて」
意味も掴めぬまま、雄介は着信を待った。
「来ました。読めばいいんですか?」
沙都子は微笑み、黙って頷いた。
歩きながら読み始めた雄介だったが、その足が止まった。沙都子は、一緒に立ち止まり、前を向いていた。夏の風が並木の梢を揺らすのが見える。イタズラな風は、沙都子のスカートも揺らし、駆け抜けていった。
読んでいた雄介が、半歩沙都子の前に出た。表情は見えないが、沙都子はそれを見ようとは思わなかった。
「確かに届けたわよ?じゃあね…」
雄介を追い抜き、坂を下りていく沙都子は、千紗のメールを思い返していた。
『ですから、坂本君あなたは風になるの。あの子はそれを望んでいます。同じ風になって誰よりも速く駆け抜けて下さい。あの子はあなたの前を走ってなどいませんよ。ずっと、もうそれこそ小学校の頃からずっと、同じくらい速いあなたと並んで走ることを楽しんでいたのですからね?あなたも風でしょう?一緒なのよ、あの子と。その姿を見ることが、今の私には本当に楽しみなの。どうか、お身体にはくれぐれも気をつけて、晴れの舞台であの子と走って下さい。あの子は、あなたの走る隣にいつも居ます』
前を向き、歩きながら沙都子は泣いていた。
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