第15話 風の少年
選手が位置につく。見ている自分の呼吸音すら抑えたくなる緊張の時間だ。
そこからの記憶が、後になっても沙都子にとって奇妙なものとして残った。
選手たちの動きは異様にスローで、周囲の他社、観客の声、それは風景画のように停止している。その中で自分だけが普段通りに動けている。気付けば雄介も普段の通りに動いているが、普段からユッタリとしているので違和感は無い。
スターティングブロックに足を置き、いつものように前方を見つめている。その雄介の、声が聞こえた気がした。
「僕が見ているものは、いつもこの風景です」
沙都子は、雄介の目を通して同じ景色を見ている気がした。
「真っ直ぐ伸びたレーンは、並んだ選手たち一人一人に与えられてて、勝つんだ!という気持ちは誰も似たようなものなんです。でも、この中で僕じゃなく、誰かが一位になるとしても、それよりも早く梶原はゴールするんですよ。小学校五年の時から、それはいまも」
沙都子は居並ぶ強敵を見回した。そこに、梶原翔太の顔は勿論無い。だが感じた。何処に居るか分からなくとも、確かに鳥肌が出るほどの存在を、レーンの先に。
「うん…わかる。梶原君は居るんだね」
雄介の手がスタートライン上に置かれた。その視線はラインを見つめている。絶対王者と呼ばれてはいても、強豪の存在は当然ある。互いを意識し合う想いが、時に恐怖ですらある。それでも乗り越えようと燃える心を抱える。そんな中にあって、それでも雄介は孤独に見えた。
「君は、そうやっていつも誰とも戦わず、梶原君の背中だけを追ってきたんだね」
雄介は腰を上げた。
一体どれ程の長い時だろうか――と、沙都子が思う程に、長い時が流れている。セットしてから号砲が鳴るまで、それは見つめろ――と迫ってきた。見つめないなら、何も分からないぞ――と。
合図が長い残響を残し、それが消えないうちに、雄介は既に数メートルも飛び出している。他の選手は見えない。雄介だけが空気を裂き、二本の白線で挟まれたレーンを行く。沙都子は自分もレーンを行くような気分で、雄介を見守った。
「君の前に見えるよ」
雄介が身体一つリードする。加速されたその選手自体が、風になる瞬間、沙都子には見えた。
「そっか…。それが梶原君…」
雄介の走るレーン上、数メートル先を走る者がいた。それは、少年だった。
雄介の心臓が破裂しそうに鼓動を打つのも感じられる。その雄介の声が聞こえた。
「翔太…待てよ翔太…」
少年は振り返ることなく走り続けている。その二人の姿を、沙都子は眼前で捉えた。
少年は笑顔だった。雄介もまた、泣きそうな顔で笑っていた。
二人は沙都子の前を過ぎていく。誰にも追いつけない風が、永遠にも思えるほど長い数秒を駆け抜ける。沙都子はモニターも見ずにシャッターを押し続けた。
二人の後ろ姿を見送り、止めていた息をユックリと吐き出すと、心臓の高鳴りを初めて感じた。沙都子もまた、走りきった後のように疲労していた。
大歓声が戻り、五十メートル先で雄介が流すのが見えた。その表情は、沙都子からは見えないが、想像は出来た。
「きっと、もう今は笑ってない」
レースは終わった。そして、翔太の影も消えた。
「坂本君は、ずっとこうして――」
記録掲示板に数字が灯ると、大歓声が湧き上がった。それは、大会記録を塗り替える自己最高タイ記録だった。
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