第10話 真相と、いつか来る〈その時〉
社交辞令の挨拶を交わすと、それきり臨在は黙り込んでしまった。
どんな話があるのか――と、期待と不安が綯い交ぜで訪れた沙都子だったが、さすがに出だしの告白――雄介は自分の孫だ――という話には驚かされた。
「驚きましたが、でも、そう聞かされれば『なるほど』と思える点はあります」
沙都子から口を切った。
「私、うちの守山から『坂本君のコーチになるまで、臨在さんがどうしていたか、よく分からない』というような話を聞かされた時、不思議に思ったんです。駆け出しの私が言うことで無いのは承知で申しますが、臨在さんは凄いコーチなのだと思います。ご自身も嘗ての日本記録保持者であり、勇退されたあとは大学で運動に関する理論を学び直され、後進の育成を現役後の人生の目標にされた――と伺いました。現状で、臨在コーチは坂本雄介という不世出の日本記録保持者の指導をされています。それが突然そうなった――とはどうしても思えないんです。各地で指導などをされていたらしい――という話も守山から聞いて知っております。その時に接点があったのかと考えていました。頌徳で出逢われる以前から坂本君となにがしかの接点があったのでは――と。でもまさか血縁関係だったとは…」
一気に話す沙都子を、感心したように眺めていた臨在は、その視線をまた空に向けた。
「うん、血縁だというのは、自分の口から今初めて他人に話した。これまで言ったことは無いから、驚かれるのも無理は無い。出会いだが、最初に言ったようにはじめから――生まれた時から知っているわけだ。私も若さから、過去に色々とあってね。最初の結婚は、うまく行かなかったんだ。月並みだが、価値観とでも言うのか…。離婚そのものは互いに理解し合った上での、謂わば円満なものだった。その後の彼女の生活は何より優先で支えると約束もしたし、自分なりに実行していたと思っている。その彼女が再婚したのは、風の便りで聞かされたよ。何せ彼女も陸上競技者だったので、そんなツテでね」
「坂本選手は、じゃあ――」
「離婚した時、彼女はお腹に子供を宿していた。娘だった」
「それが坂本選手の?」
臨在は俯き、呟くように言った。
「母親だ」
沈黙のあと、臨在は普段見せる事の無い、力ない笑みを横顔に見せた。
「私は最低なんだ。話し合いで離婚は円満だった――だの、価値観だの…。それはそうかも知れないが、女性が自分の力だけで子供を育てていくなど、支援があろうとも楽なはずも無い。それを――。どこかで、ちゃんとやったんだ。彼女もドライに生きているんだ――なんて勝手にね…」
沙都子は黙って下を見ていた。
「生まれたことも、元気よく育っていることも、折々に彼女は教えてくれたよ。どんな気持ちでメールをくれていたのか、当時の私には分からなかったが。それでもそれを読むのは楽しみだった。それが、二十年だ。二十年経った頃、突然その娘からメールが来たんだ。それまで一度も無かったんだが、アドレスは母親に聞いたと書いてあった。その中身は、『自分は素晴らしい人と出会い、結婚することになりました。式には呼べませんが、もしも子供が生まれる時には、絶対に見て下さい』と書かれていたよ。驚いて――そして嬉しかった」
小さな咳払いをひとつして、臨在は笑った。
「私のそんな話はまあどうでもいいんだが、これも雄介の事に関係あるので、先ずは聴かせたような次第だ。娘は、約束してくれていたとおり、出産の日程を教えて寄越したよ。その日、指定されていた時間に駆けつけてみると、ガラスの向こうにあの子がいたんだ。雄介さ。それが生後三日目だったんだ。小さかったよ。どこか妻の面影があったな。娘は私に似ていると笑っていたが…」
ジッとトラックを見つめる臨在の目には、過去の様子が蘇って見えているのだろう――と、沙都子は思った。
「私は既に再婚をしていたが、今の家内は本当にありがたいことに、過去のそうしたことに理解を示してくれて、ね。時々あるそうしたメールのやり取りなんかも、大事にして上げてね――と言ってくれる奴なんだ。」
臨在が何を自分に伝えようとしているのか、沙都子は掴み取ろうとしていた。
「小学校に上がった――授業参観を見てきた――初めてのプール授業だった――そんな話を、教えてくれたよ。その頃には、彼女の母親よりも頻繁にメールをくれていたんだ。そんなひとつに、運動会の報せがあった。彼女は私に提案したんだ。何処からか観ているだけなら構わないんじゃないか――とね。言葉に甘えたよ。勿論、本当に物陰から眺めるだけで帰ろうと思って出掛けたんだ。いや、驚いたね」
笑みがこぼれた。
「私が同じ年頃だった頃よりも、あの子は足が速かったんだ。スタートした途端に他の子を置き去りにしてしまって、呆気にとられたのを覚えている。それを、メールで伝えると、娘は『いつかコーチして上げて、それで日本記録や世界記録をとらせて上げて』と――」
頬が、微かに痙攣するのが見えた。が、沙都子は視線を他所に移した。臨済は話し続けた。
「君が言うとおり、私は後進を育成しようと考え、大学で学び直した。それまでの経験を評価され、有難いことにそれなりのポジションを与えられたので、先ずは少年期の指導に当たったんだ。それこそ全国各地で教えたよ。その中の一つが雄介の居る小学校だった。ようやく近くに行けたわけだ。無論、彼は私のことを知らなかった。余計な話で混乱させたく無かったことが理由だ。それでも楽しかったよ。孫に教えている事も勿論だが、教えることを砂が水を吸うように覚えるんだから。ほんの数時間だったが、その間にも彼はそれ以前より速くなっていた。これは伸びる!と、思ったね。だが――」
臨在の頬の笑みが消え、表情も翳った。
「定期的にくれていた記録会なんかの情報が、プツンと途絶えたんだ。何があったんだろう?と心配で、娘に訊くと、走るのを辞めている――と返ってきたよ。そう、あの、梶原翔太君の事故の後さ」
何度も沈黙を挟みながら、臨在は語り続けた。
「雄介よりも速い子――と聞かされた。それが雄介との試合後に、事故で亡くなったと聞かされ、驚いたよ。まだ十三さいくらいなのに――」
梶原千紗の力ないが、芯から生まれる笑みを沙都子は思い出した。時間が癒やすものと、時間だけでは癒やされないものがあることは沙都子にも分かる。千紗は、その両方を抱いて生きていた。悲しみすらも大切な自分の宝物――と言わんばかりの優しい笑みだった。
「当時私も多忙にしていて、雄介に会うとか、細やかなことは出来ずにいたんだ。だから、事故の数ヶ月後に、また走り出したと聞いた時は嬉しかった。立ち直ってくれた――そう思ってね。だが実際には、本当の立ち直りじゃ無かったんだ。それはあの子の走りを、高校の競技会で見た時に感じたよ。これは違う――!あの子本来の走りじゃ無い――!」
沙都子の脳裏に、佐和結実の顔が浮かんだ。恐らくは雄介に恋心を抱く結実の、心からの心配顔が、臨在に重なった。
「それで私は、レース後の雄介に声を掛けたんだ。あの子、私を覚えていてね、それで、私の『大学で指導したい』という申し出を、まあ時間は掛かったが受け入れてくれて、それが頌徳だったわけさ」
「その時点でも彼はすでに絶対王者と――」
「ああ、呼ばれていた。あの子の走りは、他の追随を許さなかったから、そう呼ばれるのも当たり前だったろう。だが、私もそうだが、あの子自身にもその意識は無かった。絶対王者…それは、なんだろう?誰と比べての話だろう?自分よりも遅い子と?そこにある意味はなんだ?あの子は苦しんでいたよ。なぜって――」
名伯楽・臨在の目は、再び空を見ていた。
「何故って、あの子は知っているんだ。自分よりも速い奴を。確かにあの子の前を走っていた、背中を、声を、笑顔を、知っていて、それを無くしたんだ。生まれて初めて自分を負かした相手を、追って追って、それでも届かずに、そのまま――」
――ああ…、そうだ。雄介君のあの視線は、彼の前を見つめていた。ゴールを、誰よりも早く切りながら、笑顔一つ見せない絶対王者は、彼より早くゴールした梶原君の背中を見ていたんだ。
「目標を持つことは大事な事でね。自分の成績が自分――と言うより、何かを求める者には、目標を追うことそのものが存在意義な面がある。それは確かに、ライバルという目標を失うなんて出来事は普通にあることだ。だが、早すぎたんだ、あの子には、その経験が」
沙都子は合点した。そこまでの思いを抱えて、絶対王者は走ってきたのだ――と。
「梶原君のお母さんに会ったのは、雄介が日本記録を作った後のことだ。躊躇いは勿論あったが、あんな雄介を、原因を知りながら放置は出来なかった。そんな私を、お母さんは温かく迎えて下さったよ。よくいらっしゃいました――あの子も嬉しいはずです――そう、言ってね」
真相は、辛いものだった。何処かで〈していたつもり〉の覚悟も、及ばなかった。
臨在は、沙都子を見た。
「伝えられることがあれば伝えよう――そう思って梶原さんにお会いした。それは双方に対してね。雄介にも、私から伝えられることが何かあるのでは無いか――そう考えたからだ。この事、記事にするしないは、そちらの判断だ。それも覚悟で話させて貰ったよ」
「何故それを私なんかに?そういうお話なら、私なんかよりも守山の方が気心も知れてらっしゃるでしょうに」
臨在に笑顔が蘇った。
「そうなんだが、なんだろうな、君に話してみたかったんだよ。打算も何も無く、真実はなんだろう――と見つめてきた君にね。聞いた話では、君は雄介に突撃取材を試みたそうだが、アイツが珍しく苦笑いを見せたんだ。どんな話だったかまでは知らない。だが、そんな君なら分かってくれるんじゃないか――と思ったのさ」
「分かる?」
「うん」
臨在は、トラックを見た。
「陸上競技には、自分のレーンを替えられない種目が幾つかある。百も勿論それだ。あの子は、替えられないレーンで藻掻いている。何秒の記録を生もうと、あのこの前を先に走る子の背中に、追いつけず、苦しんでいるんだ。そんな子もいるという事実を分かった上で取材して貰えたら、ということかな」
「他社が聞いたら怒りますよ」
冗談めかして言うと、臨在は笑わずに言った。
「いつか、あの子に〈その時〉が訪れたら、記事にして構わない。それまでは内密に頼めれば、それでいい」
立ち上がり、臨在はトラックに出た。
「キミはスポーツ経験者では無いようだが、たまには走ってみてはどうかね?そうすれば競技者の気持ちにも少し近づけると思うぞ?」
それには苦笑で応え、沙都子は臨済に尋ねた。
「臨在さんと自分の関係を、坂本選手はご存じなんですか?」
臨在は軽くストレッチをしながら首を振った。
「教えてはいない。恐らく知らないはずだ」
そう言い残し、臨在は走り去った。
残された沙都子は臨在を見下ろす青空を見た。
「人が走っているんだ。心のある、感情のある、思いや、悲しみや、そんなもの全部抱えたままで」
呟きが出たが、臨在の残した言葉が気に掛かった。
「その時が来たら――の、その時って、一体いつの事なんだろう…?」
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