第8話 見えてきた事実
「梶原って、ほんと、道具を大事にするよな」
感心したように言いながら鎌田は額の汗を拭った。他の子等は既にバスに乗り込んでいる。翔太だけが、シューズの土を念入りに落としていた。
「トラックは全天候なのに、アップ用グラウンドは土なんだもん!それにこれ、母さんが買ってくれたんだ」
担任の鎌田は受け持ちの家庭状況をある程度把握している。翔太の家が母一人子一人なのも、その母親が毎日長時間働いて帰るので、夜まで家には翔太しかいないのも知っていた。
「そうか、それは大事だよな」
「うん!」
仕上げに布で拭き、シューズバッグにそっと仕舞った。
「チーム優勝、良かったな。お前も、種目別優勝出来たから、お母さん喜ぶぞ」
振り返って見上げた少年は、陽に焼けた顔に満面の笑みを浮かべた。
「ほら、そろそろ行かないと、みんな待ってるし」
「はい!」
行きかけた二人の足が止まった。少し離れた場所に立っていたのは、雄介だった。
「君は、東中の――」
そう話しかけた鎌田でなく、雄介の視線は真っ直ぐ翔太を捉えていた。
「キミ、すごいな」
雄介はそう言い、手を差しだした。目を丸くして翔太は雄介の手を見た。
「ずっと陸上をやるよね?そしたら、また一緒に走ろう!」
ぎこちない言葉遣いで、雄介はもう一度手を突き出して見せた。
微笑んで見守る鎌田をチラリと見て、翔太は照れたように雄介の手を握り返した。
「うん、やるよ!ずっとやる!」
「だったら勝負だ!」
「そうだね!」
笑い合う二人に、バスから声が飛んだ。
「おーい!翔太、早くしろよ!」
翔太と雄介はユックリと手を離した。
二人がバスに乗り込むと、バスはすぐに動き出した。雄介の目の前で大きくターンしたとき、窓際の翔太と目が合ったが、手はうまく触れなかった。翔太が周囲の目を気にしていたように思えたからだ。
陸上競技場の門を出て行くバスを見送った雄介は笑顔だった。
事後、鎌田から聞いた話として、千紗は沙都子に語った。語り終えると、ホゥッと溜息を吐いた。
「事故だと聞かされたのは、仕事の最中でした。連絡は学校からと、警察から頂きました。病院を教えられましたが、私が駆けつけた時にはもう――」
テーブルに視線を落としてはいるが、口調は落ち着いていた。表情は無く、ただその時のことを淡々と、言葉を探す風も無く口にした。そうなるまでに流れた時間を思い、沙都子から次を催促は出来なかった。
「今にして幸いだったんだろうなって思うのは、顔が綺麗なままだったことです。朝、出掛けていく時に、最後に見せてくれたあの顔のまま――それがせめても…」
視線を上げて微笑んだ。
「お子さんは?」
「いえ、私は…」
「そうなのね。なら、実感としてはお分かり頂けないでしょうけど、自分の子供の死というものほど辛いことは無いと思うんです。それは男性だって同じだと思うけれど、でも、身を分けて産んだ母親には特に、ね…」
想像は出来た。喪失感は、半端ではないだろう――と。
「駆けっこが得意で、運動会ではヒーローだったんです」
――そうだろう…。あの坂本雄介が、一度も勝てなかった相手なのだから…。
「ここにね、ほんの少しだけ残っているんです。走っている姿が」
握りしめていたのは、古い型の携帯電話だった。千紗は電源を入れ、そっと操作した。
見せられたのは時間にして二十秒あるかないかの短い動画だった。そこにあったのは、小さなトラックを風のように走る少年の姿と、応援する者達の歓声だった。少年は最も近づいた時、レンズの方をチラリと見て笑ったようだった。そのまま母親の前を駆け抜け、風はゴールへと向かった。
「うちにはカメラがないので、走る姿はこれしか――」
沙都子は目を閉じ、頷いてそっと携帯を返した。
――これしかないの?子供の走る姿は、これしか?お母さんは、この映像を一体何度見返したろう?何度も何度も充電して、何度も何度も……。
胸が詰まり、言葉も出せなかった。沈黙は何分間だったか。何秒だったかも知れない。それでも沙都子には、とてつもなく長い時間に感じられた。
「雄介君のことで――」
千紗の言葉で我に返り、視線を上げた。
「いらしたのでしょう?」
頷けなかった。これ以上、この人に何を話させるつもりだろう、私は――。だが、千紗は微笑んでいた。
「いいんです。さっきも言いましたように、そろそろいらっしゃるかしらと思っていたので。でも、てっきりあの身体の大きな方が来られるとばかり――」
「え?身体の…大きな?それは…」
千紗はテーブル上の名刺を見て、頷いた。
「どこだかでコーチをしてらっしゃる、なんて仰ったかしら?少し変わったお名前の…確か…臨在さん?」
沙都子は唇を噛んだ。自分は何をしているのだろう――そんな思いで、肩から力が抜けていった。
「一度いらして、翔太のことや雄介君とのことを聞いて下さって」
千紗は天井を見上げた。
「ずっと見てきたんです。見られる範囲で――今はほら、動画サイトですか?そういうのも発達してて、高校や大学の全国大会なんて観られたりしますよね。ありがたいわ、本当に。それで雄介君の勇姿はずっと――」
「先日の八大も?」
「ええ。拝見しました。だから尚更、そろそろかしらと」
臨在はおくびにも出さなかった。――だからなおさら、坂本君の会心の走りでは無いから、なおさら…。
「雄介君、まだ引きずっているのね、あの日のこと」
千紗の口から出た結実と同じ言葉に、沙都子は驚いた。
「でも、お母さん!坂本君は事故に関して何も――」
「そう。事故があった時、雄介君はまだ競技会場の片付けの手伝いをしていたそうです」
「ならなぜ?坂本君の走りにまで影響するような一体何があったと仰るのですか?」
千紗は柔らかな笑みを天井に向け、思い出すように言った。
「さっきお話ししましたよね?翔太がシューズなんかの片付けをして、バスに乗り込んで、それを雄介君は見送った――」
「伺いました。でも」
「自分が、呼び止めなかったら、バスは事故の場所にいなかった――そう、私に言っていました」
ギクリとした。
――そんな風に思ったの?そんな…。それはそうかも知れないけど、でも――。
「会われたことが?」
「一度、お墓参りの時に偶然お話しました。お花を持ってきてくれたんですよ。優しい子ですよね。その時に、自分のせいだ――って、泣いて…」
「それは…いつ頃のことですか?」
千紗は頷いた。
「臨在さんからも同じ事を訊ねられました。あれは…」
思い出していた。懐かしむように。
「初めて日本記録を書き換えた、その直後だったと思います」
沙都子は合点した。全てが繋がる気がした。そうか――そうなのだ――と。
――最強と認めたライバルを子供の時期に失いながら、その後は必死の練習で記録を生むまでになった。お墓参りは、その報告だったのかも知れないけど、そこで翔太君のお母さんとバッタリ会い、打ち明けるうちに後悔や罪の意識が思い出されたのか、膨らんでいった――。
思いながら、何かが欠けているように感じられた。
「坂本君とはそれ以後?」
「お会いしていません。いつでも来てねと伝えてはあるのですけどね」
胸の中で沙都子は感じた。疑問への答え、その最後のピースは勿論雄介自身に聞くしかないことだろう。だが、その前に――。
――臨在さんにもう一度会ってみよう…。
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