第6話 過去に何が
昼までの予定で守山と訪れたのは、陸上の強豪として名を馳せる名門・鷺ヶ岡学園だ。
中高併せ持つ学園の施設の充実振りに驚いていると、インタビュー相手である陸上の顧問が現れた。空調も効いたグラウンド脇のスタッフルームで向かい合った。
「はじめまして、スポーツデイズの守山といいます」
名刺を渡す守山の脇で、沙都子も「若林です」と頭を下げた。
高校陸上界に名を轟かす名伯楽は、純白の髪を掻き上げて笑った。
「鷺ヶ岡学園陸上部顧問の杉原です。お噂はかねがね」
守山は、顔が広い。その守山が、全国的に名を知られる名指導者と初対面だというのが、沙都子には俄に信じがたかった。
「今日はお忙しい中、お時間を頂きまして」
席に着いても、巨体を縮めるようにして頭を下げる守山を不思議に思って沙都子は眺めた。
――クマでも緊張ってするのね…。
「いえ、光栄ですよ、私にすれば。あのスポーツデイズさんからインタビューされるとは。ただまあ厳しい事で知られる守山さんがお相手だ、どうかひとつお手柔らかに願いたいですな」
陽に焼けた笑顔は、実年齢六十五才より随分若く見えた。
「それで」
真顔に戻し、杉原はコーヒーに手を伸ばした。
「電話では、秋の東京都私立高校駅伝記録会について何か私から聞きたい――ということでしたが?」
守山は杉原に頷いた。
「はい。毎回そうですが、今年の秋の大会も鷺ヶ岡さんが有力視されています。昨年の優勝時メンバーが六人も居て、しかも擁するのはエースの根田君。関東陸上八大のひとつである頌徳大への進学が既に決まっているとも言われる逸材ですしね」
守山に、杉原は笑って応えた。
「進学先は未定ですよ。マスコミさんは色々と言われますが、そこはまだ――ね。だがまあ、頌徳には私の知り合いもいますし、縁が無いかといわれれば、そこはまあ――」
「確か、臨在誠一コーチとは大学も同じでしたか?」
沙都子の眉がピクリと動いた。
「うん、臨在は私と同級だね。彼も頑張っている様子で、嬉しく思うよ」
「はい。臨在さんには先日お話を伺う機会がありました。今は坂本雄介選手専任のように指導されています。あの臨在コーチと同級の杉原さんですが、この年代の指導力の高さには何か秘密でもあるんでしょうか?いつも不思議に感じるんです」
杉原は苦笑いを浮かべ、首を横に振った。
「ないね、そんなもの。あったらこちらが聞かせて欲しいくらいだ。チーム戦である駅伝でいうなら、選手は毎年どころか試合ごとに替わる。同じ選手でも、日々ですら変わる。鍛えた結果を見せろ――という大会はスケジュールも決まっていて、そこに合わせた調整はしても、それが毎回上手くいくというものでは無い。指導力などというが、結局は一番リスクの無い道を一番近い場所に居るものが判断する――それだけだな」
「それにしても鷺ヶ岡は強いですね」
「選手層では恵まれているからね。もっとも部内の競い合いは強豪と言われるところほど厳しいものだよ。とは言え、指導する側的には嬉しい悲鳴だ」
「それがあっても尚、難しいものなのでしょうね、指導というものは」
杉原は頷いた。
「そうだね。なにせ相手はまだ子供だ。発育も良く、外見的には立派に見えても、内面に抱えるものは実に脆いことが多い。技能面で如何に鍛えたとしても、それが発揮される最高の条件は精神面に関わっても来る。自分ですら気付かないような心の揺らぎが身体を支配するんだ。普段の暮らしならばまだしも、競技という真剣勝負の時間にはそれが顕著に表れる。実になんと言うか――」
一瞬言葉を探し、微笑んだ。
「可愛いものだ」
「最大の指導とは、愛情の上にある」
「うん、誰かそう言っていたね。まあ私としては、持とうとして持つというより、持ってしまうというところだが」
「なるほど」
その後、話題は秋の大会の事に集中した。主力が大量に抜けるタイミングを翌年に迎える学園として、どう再構築していくのかなど、守山は巧みに引き出してインタビューは終わった。
「ありがとうございました。今回のお話は、秋の大会の直前号で使わせて頂くことになると思いますが、その折りにはまた暫定の稿をお送りしますので何かありましたらご指摘ください」
「こんな話で良かったのかね?老いぼれの昔話も、ネタなら大量にあるよ」
笑顔でコーヒーを飲み干すと、杉原は立ち上がった。
「ところで、一緒に見えているそちらの女性は、一言もなかったね?お仕事の勉強中かな?」
それにはすかさず守山が答えた。
「そうなんです。こいつはまだ修行の身で――」
守山を押しのけ、沙都子が身を乗り出した。
「一つ伺っても宜しいでしょうか?」
「おまえはまた!」
止める守山を杉原が笑顔で制した。
「いいとも。あなたの学びになるなら」
器の大きさに、沙都子は頭を下げた。
「先ほど杉原さんは臨在コーチとの事を話されました」
隣の守山が頭を抱えるのを見て杉原は苦笑した。
「うん」
「坂本選手のことは、ご存じですか?」
「坂本君?勿論だとも!絶対王者といわれている日本記録保持者だ。素晴らしい選手だと兼々――。その坂本君がどうかしたのかね?」
「坂本選手と臨在コーチのこと、あるいは過去に関してなどはお耳にされたことはおありでしょうか?」
「若林…それはストップだ。杉原さん、申し訳ありません。こちらとは関係の無い話をコイツは――」
沙都子の目をジッと見ていた杉原が首を横に振って見せた。
「仮に知っていることがあっても、私から話すべきものでも無い。というのが質問への常識的な答えだろうね」
沙都子の言葉を待たずに、杉原は守山に言った。
「なかなか面白い質問だ。新人君を叱るなよ?だが、私としても他所の選手のコンディションまで頭に入っているわけではないからね。坂本君が難しい時期にあることは想像出来るよ。トラック競技の中で、百は最も短い勝負時間で競う。求められる集中力は尋常なものでは無い。それを年間通じてコンスタントに維持するなんて、そもそも不可能な話だ。それでも臨在と坂本君なら必ず乗り越えるだろう。一陸上ファンとしても日の丸がオリンピックスタジアムで翻るのを本当に楽しみにしているしね」
背を向け、ドアノブに手を掛け、二人を見ずに呟いた。
「風の王様は、自分すら抜き去るものだ」
会社に戻ると、それまで文句を言い続けていた守山は他の仕事に没頭した。
「おじさん、切り替えは早いよね」
ぼそっと呟いて笑い、沙都子は椅子に浅く掛けて天井を見つめた。
――知らない、と否定はしなかったわ、杉原さん。
根拠は無かったが、沙都子には杉原もなにかを知っているように思えた。
「坂本君よりも速かった子――その子の事故死――臨在コーチの存在と、今日会った杉原さんの存在と…」
頭の中に点在する情報が繋がらない。
「今の坂本君の調子に関わる何か――」
七年も以前の出来事が、どんな意味を持つものか、沙都子には想像しか出来ない。
「予断を持つな。想像は小説家の仕事で、ジャーナリストの端くれなら事実だけを見つめろ――か」
新米記者だった頃、上司からいわれた言葉が脳裏を過る。
「事実――」
佐和結実の顔が浮かんだ。
電話を手にし、聞いておいた結実の電話番号を押した。
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