第5話  雄介の苦悶 

 出来上がった原稿をプリントして編集部の上層に配り終えた。特別大きな問題が指摘されなければ、ここで入稿――通常は各ページ担当から印刷屋に原稿が回される。その後、印刷屋から戻される試し刷りをチェックするのを「校正」と呼び、それも済み、実際の印刷に回す時点で「校了」と呼ぶ。そこでようやく全ページ揃った雑誌という形が完成する。発売十日前、沙都子たちは翌月初発売号の仕事を完了した。

 と言って、息が抜けるわけでは無い。実際、編集作業を熟しながらも各種競技は全国各地で行われるし、インタビューなどは相手の都合なので、何を置いても出掛けねばならないのだから。それでも週刊のペースよりは格段に楽に感じる沙都子だった。

 腕を頭の後ろで組み、椅子で仰け反り欠伸をした。

 あれ以後、雄介のことで特段の動きは無い。佐和結実から、あれ以上の連絡があるわけでも無い。取材して得た話を記事にも挿さなかった。

「なんだかなぁ」

「なにがだよ?」

 椅子ごと倒れそうになった。見ると、いつの間に居たのか、背後に巨体が立っていた。

「あ、熊…」

「あ?なにが困ったんだ?」

 守山は、手にしたコーヒーカップから立ち上る湯気を楽しみながら沙都子に訊ねた。

「困ってないです。全然、くまってません」

 沙都子の冗談が分からず、守山は肩を竦めた。

「にしちゃあ元気が無いな。あの件はどうなったんだよ?」

「あの件?」

「坂本の」

「あぁ…」

 言うべきか、帰社したあとも迷ったのは事実だった。恐らくは何処も書いていないサイドストーリだ。世間の興味関心は煽るだろう。だが、守山にすら言えなかった。

「なにか掴んでも、人には言うな――って、守山さん言いましたよね」

 守山は黙ってコーヒーを啜った。

「ある事を耳にはしました。でも、言うか迷っています」

「うん」

「どうしたらいいでしょう?」

「自分で考えろ」

「冷たいんですね」

「俺はお前の保護者じゃ無い。部の先輩ではあっても、最後に考えるのは記者自身だ。そりゃあヤバいケースなら上も止めるさ。だがそれが特に、他人の人生に深く関わる話なら尚、先ずは自分だ。この先もそういったケースは山ほど出逢うぞ。その度誰かに訊こうとするんじゃない。お前が編集なんだ」

 沙都子は守山を見つめた。

「なあ、新米。俺たちは裁判官じゃ無いし、覗き屋でも無い。俺たちの仕事はなんだ?スポーツに惹かれる人たちに現場の匂いを送ることだな?それは、だが決してその選手の裏のなにかを暴いて回ることなんかじゃ無いはずだ。と、俺は思っている」

 コーヒーを見つめる守山の表情は穏やかだった。

「お前が考えて決めるんだ」

 言い残し、離れていった。沙都子は不思議に感じた。

「梶原君という、坂本君以上に速かった子の存在が、幼かった当時の坂本君を傷付けたらしいとして、でもそれが、守山さんの言うほどの〈暴く〉なんてレベルの事かしら」

 政治家という、謂わば公人を相手に取材活動をしてきた沙都子にとって、有名とは言え私人の背景は社会的にも酷く脆く思え始めていた。それだからこそ、軽々に触れるべきでない事があるのは理解している。

「今回調べて分かったこと――特に表に出すことは無いのかも」

 そう思い、手元のボイスレコーダーを手に取った。しおり機能で呼び出したのは、結実と話していた三十分ほどのちょうど中盤だ。

 昨夜、何度も聞き直しているうちに気になる箇所があった。それは、実になにげない会話の中に。

 イヤホンをして再生した。

「…彼が気にすることなんかじゃ無いのに…」

 再生を止めた。

「気にすることじゃない――って、なに?」

 直に聞いている時には、バス事故のことだと自然に受け取っていた。だが考えてみれば奇妙な話だった。新聞記事のアーカイブを調べて分かったことだが、バス事故は間違いなく貰い事故だった。トレーラー運転手が手元のスマホに気をとられたため――と書かれていた。勿論全国紙に、乗客の中でただ一人死亡した少年が何者で、なにの帰りだったかなど書かれてはいない。

「梶原君のバスが事故った時刻に、当番校の坂本君はまだ市の競技場で後片付けの最中だったって佐和さんは言ってたんだから、だとしたら事故ろうがなにしようが、それはどう考えても坂本君に関係ないわけじゃない?」

 ボンヤリとした呟きが自分の中に浮かんだ。

――何があったら気に出来るのよ…。

 皆目見当も付かない。見れば守山は他の編集者と談笑している。

「くっそ…。頼れないしな」

 一つ分かったつもりになると、また一つ分からないことが生まれる。堂々巡りでも無いが、収集のつかなさを感じていた。

「本人に」

 言いかけたが、心は〈ダメよ!〉と叫んでいる。

「本人に訊いてみるしか」

 心の叫びを押さえ込み、ボイスレコーダーを握りしめた。

「それしかない」


 「幸いにも佐和結実さんからの伝言もある!」

 沙都子は、頌徳大学文京キャンパスのグラウンド脇で拳を握りしめた。

「まあ、正確には〈立ち直って欲しい〉っていう希望?の伝達だけど、それだって考えようでは立派に伝言だわ!」

 自然に苦笑いが出た。

「情報じゃあ練習は午後五時に終わり、その後はどこにも寄らずに徒歩十五分ほどの距離にある駅向こうの寮へと帰路につく。大体一人で。って事まではさっき他の陸上の子から訊きだしたんだけど、〈でもあいつ、取材とかにはなにも話さないよ〉ですって…ガッカリ情報までありがとよ…」

 ポケットに手を突っ込み、雄介が出てくるのを待った。

 だが、そろそろか――と思えば思うほど、後悔も出てきた。会って何を言うのか、私は――と。なにを訊くのか。それがもしも、本人にとって痛みだったなら。

――少なくとも私は、坂本君にとってその事は気分のいい話で無いだろう事を知っている。それでも私は取材と言ってそれをするのか……。

「聞き出すよりも、佐和さんの気持ちを伝えることをしよう。そこからは流れだわ」

 そう決めた時、部室のある木立の先から雄介が歩いてくるのが見えた。雄介の方でも、すぐに沙都子に気付いた様子で、歩く速度が幾分落ちた。

「ごめんね、来ちゃって」

「いえ…別に」

 沙都子を見ずに呟いた声は、やはり弱々しく優しげだった。

「取材とか、そういうつもりじゃないから、少し並んで歩いてもいいかな」

 雄介は辺りを見回し、小さく溜息を吐いた。

「まあ…はい」

 並んで並木を歩き始めた。雄介は、特に意地悪く速く歩くわけでもなかった。

「私ね、どうも気になると分かるまで調べちゃうクセがあって、それで…まあ、あなたの出身小学校と中学校に行ってみたの。どんな子供だったのかなって」

 不快に思われるかと横顔を探ったが、意外なほど雄介は穏やかだった。

「ごめんね、マスコミってこんなで」

 それでも雄介は特に言葉を発することは無かった。

「先生たちは誉めてたわ。学校の自慢だって。あ、あとね、佐和さん?って女性と会ったわ。偶然にね」

 部の先輩、阿久津教員のことは伏せたが、雄介が初めて沙都子を見た。

「佐和?へえ…」

「実はね、今日はまあなんていうか――その事で来たというか」

 止めていた足を雄介はまた前に出した。なだらかで短い下り坂は終わり、車の通る通りに出た。近くに商店街があるせいで、買い物帰りらしい主婦や老人が多く歩いている。雄介は、すれ違う彼らに気を配って歩いていた。

「佐和が何か言ってましたか」

 静かな口調だった。

「心配をしていたわ」

 返事は無かった。

「あなたの走りを小学校の頃から見ていたんですって。だから――」

「もういいのに」

「え?」

 初めて聞いた雄介の感情のある言葉は、思いもかけず、吐き捨てるような口調だった。

「もういいのに――って言ったんです。俺は別に――」

 その言い方は、沙都子が想像したとおり、話題が雄介にとって触れて欲しくない部分である事を教えていた。

「私には詳細は分からない。ただ、子供時代の坂本選手の凄さとかを聞いているうちに佐和さんが言ったの。そのまま言うね?〈彼は凄かった。早く立ち直って欲しい。あの煌めくような夏の風みたいな走りを見せて欲しい〉」

 そこまで言い、沙都子は雄介の横顔を見た。怒ったりするのかと想像したが、意外なほどの悲しげな顔が、そこにあった。

「夏の風――ですか。俺が」

「佐和さんはそう言ってたわ」

 雄介がフッと笑った様に思ったが、横顔は無表情だった。

「俺が、風――」

 立ち止まった。帰宅を急ぐ人の波が二人を避けるように流れていく。沙都子は、時が止まったように感じた。少なからず衝撃を受けていた。雄介の口調には、自分を卑下する、そんな匂いがあった。

「風は」

「え?」

 雑踏のざわめきに、雄介の言葉を聞き逃してしまいそうだった。

「爽やかな風は、人を死なせたりしない」

 言い捨てると、雄介は人混みへと消えていった。

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