第4話 風の先にあるもの

 一旦会社に戻り、進捗を確認したあと、沙都子は普段より早い午後八時には会社をあとにした。

 部屋に戻り、シャワーを浴びてサッパリしても、今日のことが頭から離れない。壁に背をつけ、脚を投げ出して天井を見た。結実の思い詰めた表情が浮かんだ。

 テーブルに置いたボイスレコーダーを再生してみた。結実の、思い詰めたような声が流れ出た。

「私たちの市って小学校高学年の陸上対抗戦があるんです。はい、四校対抗って言われてました。出場できるのは五年生と六年生だけです。その学校での予選で上位の子達で、勿論百は坂本君がウチの代表でした。どう考えても優勝だろうって先生も思ってたと思います。でも、そうはなりませんでした」

 小さく沙都子の声が入った。

「梶原君……ね?」

「はい。梶原翔太君は上田野小の子で、背は坂本君よりも、ほんの少し低いくらいだったと思います。予選の上位八人で決勝をやるんですけど、第三コースが梶原君、となりの第四コースが坂本君でした」

 終始テーブルに視線を落としたままの結実の語り方は、目の前のことを話すように鮮明だった。だが、その表情は終始苦しげだった。思い出す事自体が苦しみ――というのはある。沙都子は複雑な思いで結実の声を聴いていた。

「五年生でした。初めて市の陸上競技場に立った坂本君に、私たちは精一杯声援送ったんです。コースに立った坂本君は、クラスでふざけている時とはまるで別人みたいにカッコよくて。で、私たちも絶対優勝だって思ったんです。でも、そうはならなくて。梶原君は速かったです。風みたいでした。坂本君も勿論速かったんですよ。でも、ほんの少し追いつきませんでした」

「それが梶原君との最初ね?」

 返事は聞こえない。力なく頷く姿を、沙都子は思い出していた。

「坂本君は普通にしてましたけど、悔しさはあったと思います。だって、その後の坂本君は、小学校に陸上部なんて無いのに、夕方までグラウンドで走る練習してたし……」

――指導する者もいなかっただろうに。そう思うと、胸も熱くなった。

「梶原君という子は、いつ…?」

 その問いには、首を横に振って見せた結実だった。

「もう少し後です。四校対抗はあっても、普段は交流も無い学校の子だし、クラスの子にしても覚えてなかったと思うんです。でも、一年後、また四校対抗戦があって、そこでも坂本君と梶原君の一騎打ちみたいな空気でした。前の年のことを覚えていたり、思い出した人たちの歓声が凄くて」

 結果を聞くのが何故怖いのか――沙都子は自分が不思議だった。陸上の世界に触れて未だ数日しか経っていない自分は、なにを怖がっているのか――と。

「試合は梶原君の優勝でした。この時も、二人の差はホンの少しで。観客席から見た感じでは、五十センチなんて無かったと思います」

 数秒の沈黙。

「ゴールして、坂本君は自分の両膝に手をついて、ハァハァいっていました。他に誰か気が付いたか、それは分かりません。けど私にはなんとなく分かりました。坂本君の目は、応援団に手を振っている梶原君の背中に向けられていたと思います。ジッと、ずっと…」

 溜め息が録音されていた。それは沙都子のものだった。

「二年連続――それはとても辛かったと思います。でも、本当の辛さはその半年後に――」

 結実は話し続けた。その相手が何故自分なのか――と、沙都子は思った。

「中学一年になって、坂本君は本格的に陸上部で練習するようになりましたけど、雰囲気は前と違っていたんです。教室で話せば、そうでもなかったんですけど、とにかく走ることが彼の一番大事なことになってたというか。その年頃って色々と目移りもして、何かだけに熱中するとかって意外と少ないように思うんです。部活やってても、それだけじゃ無いっていうか。でも、彼は違いました。副部長だった莉花さんも言ってたんです。何かに取り憑かれてる感じ――って。市の大会に出場することが決まって、クラス担任もみんなに言ったんですよ。三年生を抜いて坂本が出場する――って。みんな拍手でした。けど」

 沈黙が再び訪れた。沙都子は手にした缶ビールを呷り、そのまま天井を見つめ、長い溜息を吐いた。

「梶原君の勝ちでした。他の中学の三年生も、勝てなかったんです。坂本君は二位で…」

「凄い子ね……」

「はい。物凄かったです。でも、その驚きより、ゴール傍で項垂れてる坂本君に目が行きました。あんな坂本君見たのは初めてでした。もう…なんて言うのか、死刑判決を受けたみたいな…」

――絶対に勝てない相手、か…。

 沙都子は坂本の気持ちを慮った。幼い頃から一際足の速い子供で、恐らくそれは本人にとっても自慢だったはずだ。それが、三年連続、完膚なきまでの敗北――。

「でも、その市内大会が坂本君にとって、とても重要な意味を持ったのは、負けたからじゃないんです」

「まさか…」

「はい、その日です。帰りのバスにトラックが衝突して、梶原君は亡くなりました。学校が出していたバスなので、他の生徒も何人か怪我をしましたけど、トラックがツッコんできた、その窓際に梶原君は座っていたそうです。私、その日のニュースも見ました」

 言葉も出せなかった。気持ちを察したくても、自分の中にあるものは想像だけで、役に立つとは思えない。

「それから坂本君は部活に出なくなって」

「待って。そんな出来事があったらショックなのは分かるわ。それも未だ中学生だものね。でも、その事と、あなたの言う〈立ち直って欲しい〉というのは、どう繋がるの?だって彼、その後は日本記録も打ち立ててるのよ?」

 一人の、暗い部屋に自分の声が流れている。理解出来ないものを理解しようと試みる自分を感じた。数秒の沈黙のあと、結実は呟くように言った。

「私には、本当のところはよく分かりません。陸上は苦手だし、というか、運動神経無いんですよね。だから、なおさらなのか、坂本君の苦しみも本当のところ分かってないんだと思うんです。でも、感じることはあります。ずっと見てたから。今の――いえ、あの時から坂本君の走りはなにかおかしいんです。上手く伝えられないんですけど、小学生だった頃の彼の走りって本当に」

 聴き入る沙都子は目を閉じた。

「本当に、煌めくような夏の風みたいって言うか」

 詩的な表現をする子だ――と感じた。ボイスレコーダーを止め、闇を見つめた。その向こうから吹く風を想像してみた。

「夏の風――」

 分かる気がした。まだ、そう多くの「凄いもの」を目の当たりにはしない年頃に、本当に凄いものに触れると、多感な子供は感じ入る。それは生涯心に残り、凄さの基準になっていく。恐らく雄介の周囲に居た子供たちにとって、その圧巻の走りは支配的ですらあっただろう。

「風の――王様か」

 店を出て別れる際、結実が残した言葉が思い出された。

「あの頃の走りをして欲しいんです。記録じゃなく」

――先頭の風は、その先になにを見てるのかしら。一番を走る風は、誰と競うのかしら…。

 試合会場の、静かな雄介の様子が思い出された。

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