第3話 風の生まれた場所 ②
応接室に通され、待たされること十分。入ってきたのは痩身の中年男性と、沙都子と同年代に見える女性の二人だった。
「お待たせしました。私は二年の学年主任で杉田といいます。こちらは阿久津といいまして――」
女は丁寧に頭を下げた。線は細く見えるが、身のこなしに、しなやかな強さを感じさせる。沙都子は、阿久津がスポーツ経験者ではないかと感じた。
自己紹介のあと、電話で伝えておいた訪問の意図を再度告げると椅子を勧められた。三人は西日が入る窓辺で向かい合った。
「坂本選手の在学時代の話、でしたね?電話でも申しましたとおり、現在この学校に彼の在学時を知る教員はいないんです」
杉田は、そう言うとチラリと隣の阿久津を見た。
「ただ一名、阿久津君だけは――」
阿久津が小さく頷く。
「当時の教職員は全員もう異動になりまして。昔は長らく同じ学校に留まる教員というのがいたものですが、昨今ではそうしたケースも少ないんです」
その上で、杉田は小学校の教頭と同じ事を言った。
「個人の情報にも関わりますので、その辺りに関してはお話し出来ないこともありますが、よろしいですか?」
沙都子は頷いた。沙都子の知りたいことがなんなのか、沙都子自身にも掴みかねるところがある。知りたいことが個人情報に関わるのか、教えて貰えないことが残念に思えることか、まだ分からなかった。
「でも残念ではあります。当時を知る先生が居られないというのは」
ボイスレコーダーをテーブル中央に置き、沙都子は言った。
「それなんですが、実は、ここに居る阿久津は坂本君の二年上級でして。電話でそちらのご主旨を伺ったあとで思い出したんです。なあ、阿久津先生」
雄介は現在二十一才。その二年先輩で母校の教員ということは、教員歴一年かそこらという事だ。髪を後ろで束ね、地味に見えるので、もっと上かと思ったが、実年齢は沙都子より四歳も下だった。
「坂本君のことはよく覚えています。学年は違いますが、同じ部活でしたので」
「え?では、陸上部ですか?」
阿久津はまた小さく頷いた。
「当時、私は三年生に上がったばかりでしたが副部長に選ばれたんです。恒例では副部長は二年生が務めるものなんですが、たまたま新二年生の人数が薄い年だったので。それで、部への勧誘なんかも私が――」
「坂本選手も勧誘で?」
「いえ」
阿久津は笑った。
「陸上に興味ない子を誘う――そんな意味の勧誘を彼にすることはありませんでした。彼は別格です。小学校時代から市内でも有名でしたから。と言っても、私自身は彼とは別の小学校だったので、凄い子が居るんだよ!今年はあの学年凄いの!――って友人から聞かされて、その程度の知識しか無かったんですけどね。で、坂本君ですけど、体験入部初日に彼の方から来てくれました。勿論その場で即、正式入部でした」
「なるほど。それで、部活動での坂本選手の様子って、どんな感じだったんですか?」
「感じ?ですか?うーん…」
阿久津は膝の上の拳を見つめた。言いあぐねる――という表現が似合う顔で考え込んだ。
「なにか個人情報的な?」
横で聴いていた杉田が助け船を出したが、阿久津は首を横に振った。
「そうでは無いんですけど、なんて言うか――」
沙都子は表情を浮かべず、あくまでも静かに根気強く待った。人が話しづらい場合、最もしてはならないのが〈催促〉だと知っていた。無理強いすれば、相手にとって伝えたくない情報に余計な防御線が張られ、真実を覆い隠すことは良くある。聞けないことは聞けないのだ。言い淀んだ間を申し訳なさそうに、阿久津は口を開いた。
「すみません、秘密とかそういうアレじゃないんです。ただなんて表現したら良いのかと。彼って、ほんとに独特でした。それは足の速さもそうですけど、雰囲気が大人っぽいと言うのかしら?中学生って成長が著しい時期で、一年生と三年では随分雰囲気も違うものなんです。でも彼の場合、三年も少し恐れ入っちゃうような感じがあって。それで――」
阿久津は伏せていた視線を上げた。
「いつも一人でした」
目の表情で〈そこをもう少し〉と伝えると、小さく頷いて返した。
「仲間はずれだの、そういうのって全然無かったんですよ。学年を越えて、わりと仲の良い部でしたし。でも、気が付くと彼は一人で居ました。いえ、一緒に走ると機嫌悪いとか、そういうのも無く、ただ見かける度に一人で」
「親しい友達のような人は、部には居なかったんでしょうか?」
「いません。少なくとも私にはそういう子は心当たりがありません」
「そうですか」
過去の記録を眺めても、笑顔の坂本を見つけることが出来なかったことを沙都子は思い出した。
「坂本君は本当に練習の虫でした」
阿久津は続けた。
「オーバートレーニングは、特にあの年頃では気をつけなくてはならないことの一つです。闇雲に身体に負担を掛けたから技能が向上するというものでは無いので。確かに筋肉の面で負荷はある程度必要でも、それに耐えうる骨格成長と相まって居ない場合、様々な故障の原因にもなってしまうんです。でも、坂本君は、なにか…なんて言うのかしら…」
「そんなに?」
「はい。真面目とかそういうのではなく、鬼気迫るというのか…。顧問の指導には人一倍素直に従っていたのを覚えていますけど、取り組む姿勢――あれはもう〈物凄い〉っていう域でしたね。なんだろ…一日でも早くもっと速くなりたいっていうのか」
「中学一年生で」
「はい、体格は恵まれていましたが、顔立ちなんかは未だ幼さも残ってて、でも、まるで何かに追いかけられてるみたいだよな――って、当時部長だった友人も言ってたほどです」
雄介と会った時、沙都子は一つの質問をし、その答えは貰えなかった。ふとそれを思い出した。
――見ていたものは、なに?って訊いたけど、それともそれは、追ってくるなにかだったの?
「初めての市内大会の時」
阿久津の声に我に返った。
「彼も代表に選ばれたんです。当然ですよね、部内で百が彼より速い子は居ませんでした。部長よりも速かったくらいですから。それで、総合運動公園で彼はデビュー戦を」
アーカイブの記事が脳裏に浮かんだ。
「二位でした」
心臓が一つ、ドクン…と鳴るのを感じた。一つの名が、脳裏に浮かんだ。
「二位――」
「はい、二位です。物凄い子が居て、それで…」
阿久津は、脇に置いていたスクラップブックをテーブルに乗せ、付箋を挟んだページを開けて見せた。写真や記事で埋め尽くされている。
「部の記録です。行政の広報誌や、新聞記事なんかを集めてあるんですけど、過去十五年分くらいあって、見つけておいたこのページは、今話していた市内大会の競技別順位表です」
男子百メートル――表の最上段に種目名が書かれ、坂本雄介の名が二段目にある。その上に〈上田野中一年・梶原翔太〉の名がある。一位と二位の差は、0・07だった。
「部の子がいってた、今年の一年生は色々と凄いんだよ――という話、勿論坂本君のことでもあるんですけど、この梶原君の事でもあったんです。なにしろその友達は梶原君と同じ上田野中出身だったので」
「いま阿久津先生は、今年の一年生は色々と凄い――と友人から聞いた、と話されました」
阿久津は頷いた。
「そのご友人は他校のことにも詳しかったんですか?こちらの地区では何か小学校同士で、交流のようなものがあるんでしょうか?私はあまりそういった経験が無いんですが」
当然の疑問だ――と言わんばかりに大きく頷き、阿久津は言った。
「あります。というか、ありました。以前、四校対抗というのが毎年催され、種目は少ないですが学校間で競い合うような場が」
「確かそれ、阿久津先生が高校に上がった年くらいを最後に無くなったんだっけ?」
杉本の言葉に阿久津は「はい」と小さく返事をした。伏せられた目がスクラップブックを見つめている。沙都子は阿久津の言葉を待ったが、四校対抗に関するそれ以上の話は出てこなかった。
小学校時代から有名だった雄介――中学では目立つほど孤独に、目立つほど必死に練習に没頭していた。それでも、市内大会で二位に甘んじた。雄介の無表情が、なにに由来するものなのか、沙都子にはその端緒が見えた気がしていた。
阿久津という、当時の部活の先輩がいてくれたことは大いに助かったが、それ以上学校生活に関して聞くことが出来なかったのは沙都子の中では残念な結果だった。
幾つか当たり障りの無いエピソードを聞き終え、礼を言い、部屋を出た。
廊下に並ぶショーケースの中に各種の優勝盾やトロフィーが誇らしげに置かれている。随分古そうな物から最近の物まで揃っていた。それを見ながら昇降口へと向かった。
「坂本君の実家までは流石に教えて貰えなかったな。まあ当然よね」
名刺を渡し、「何かあったら連絡を下さい」という決まり文句は残してきた。だが、期待はせず、沙都子は中学校をあとにした。
校門を出て駅へ向かう路はグラウンド脇を通る。イチョウの葉が色を深める並木が続く。グラウンドには掛け声や笑い声が渦巻いていた。
フェンス脇で立ち止まり、それを見つめ、沙都子は呟いた。
「私は坂本君のことで、なにを知りたかったんだろう…」
ハードルを置き、フォーム練習をする者たちが見えた。トラックを周回するのは中・長距離の選手か。そして、その一角でスタートの練習に励む者達が居た。
「短距離ね」
そのどれも、線の細さが際立っている。華奢――とすら言えそうな体格の子供たちが、時には笑顔を見せながら、懸命に鍛錬する姿は爽やかだ。
「絶対王者――か…」
そう呼ばれる経験をする子供など、そうは居ない。
――坂本君は慣れてるんだろうけど、どんな気分がするものなのかしら――。
表彰と言えば中学の時、課題の感想文で佳作を取ったことがあるくらいだった。それも、どんな大会で誰から貰ったのかさえ思い出せない。そんな沙都子には王者の気持ちは想像もつかない。
「抜かれないように、そればかり考えてるんだろうなあ。それはそれでプレッシャー凄そう」
独り言が口をついた。
――にしても、梶原って子が坂本君よりも速かったっていうのはどうなの?それほどの子が、やめちゃう?
思い巡らしながらフェンスを握り、駆け回る男子を見つめた。蘇る懐かしくも甘酸っぱい感触に浸っていると、突然背後から声を掛けられた。
「あの……」
驚いて振り返ると、見知らぬ女が立っていた。
「記者さんですか?」
「え?あの…」
返答に迷っていると、女は頭を下げた。
「そういう人が今日みえるって聞いて――坂本君のことで取材にいらしたのは、あなたですか?私、坂本君と同級だった佐和といいます」
「坂本選手の?」
「はい。小、中学校が同じでした。家が近かったんです」
目鼻立ちはスッキリとし、物腰も育ちの良さを思わせる。
「お話ししたいことがあって……」
佐和と名乗る女は、もう一度頭を下げた。
中学校から徒歩で十分ほど。駅前通りにある、昔懐かしい雰囲気漂う喫茶店で、沙都子は佐和結実と名乗る女と向かい合っていた。緩やかなジャズの流れる店内に客は二人だけだった。
「それで」
湯気の上がるコーヒーカップを見つめたままの結実に促した。
「私に何かお話があるとか」
自分から声を掛けてきたわりに、結実は口が重かった。沙都子は話の〈とっかかり〉を替えた。
「想像ですけど、私が今日来る事をあなたに教えたのって、阿久津先生?」
結実はチラリと視線を上げ、頷いた。年齢が近いのでそう思ったが、繋がりが分からない。その答えは、結実の口から出た。
「莉花さんは、あ、阿久津先生のことですけど、莉花さんは私の従姉なんです。以前はよく一緒に遊んで貰ったりしていました」
「でも、それでなぜ私の訪問を阿久津先生はあなたに?」
結実は目を伏せた。
「それは――」
沙都子の中に一つの直感が生まれたが、一旦先入観は振り払った。
「訊いてもいいですか?」
再び上げた視線は、真剣なものだった。
「はい?なにかしら?」
結実は、おしぼりを握りしめた。
「ゆ…坂本君とは会ったことありますか?最近とか…」
「ええ、つい昨日」
結実が見せた表情で、沙都子は先入観が確信に変わるのを感じた。
――この人、坂本君を……。
「そうですか…。あの…坂本君元気でしたか?」
「優勝したことは?」
「知っています。ニュースでもやっていましたし…」
「私は会場にいて取材してたの。その後、コーチと私の上司の四人で食事しながらインタビューさせて貰いましたよ」
それがどうしたの?とは訊かなかった。
「そうなんですね」
「それで、私に話したいことと言うのはなに?坂本選手のことだという想像つくけど」
水を向ける。はじめよりは結実の表情も和らいでいた。
「私、坂本君の走りをずっと見てきました」
坂本君を見ていました、の間違いじゃ無いかしら――と、内心思った沙都子だった。
「それで、なんていうかそれで…こんな話はして良いのか分からないんですけど、なんとか坂本君に立ち直って欲しくてそれで」
「え?ちょっと待って、立ち直って欲しい?彼に?それはどういう意味なのかしら?彼は昨日も大会記録を塗り替えたのよ?」
大会での雄介の様子に、奇妙な翳りを見ていた沙都子は、朧に見ていた胸の中の影を目の当たりにしたような気がした。
――やはり彼には何かある!
そう思い、結実の言葉を待った。結実は苦しげな顔でカップを持った。一口啜ると、小さな溜息を漏らした。その目はテーブルの先の、何処か遠くを見つめていた。
「物凄かったんです、坂本君の走りって。本当に、同じ学年にこんな子がいるなんて、まさに驚きでした。体育の時間なんて、彼の走りを見た人は、みんな言葉を無くすくらいで。見惚れるというか、夢を感じる――なんて言うと変に思われるかも知れませんけど、でもそういう感じでした」
言葉を切り、先を探しているのが分かった。邪魔をしないよう、沙都子は動きも息も可能な限り殺した。
「それが、あの時以来もう全然彼らしくないって言うのか」
「あの時――」
思わず沙都子の口が復唱した。
「はい。あの、梶原君が亡くなったバス事故以来」
沙都子は耳を疑った。
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