第2話 風の生まれた場所 ①
翌日は内勤だった。
週刊でバイオリズムが馴れていた沙都子なので、月間のリズムは或る意味で間延びして感じられた。
だが、する事自体はほとんど変わらない。細部に気付くのはまだ難しいが、それでも指示されれば即応出来る自信はあった。
守山は、陸上の他にラグビーも担当していたので慌ただしいことこの上ない。そんな守山は沙都子に「暇を見てスポーツ界のことを調べろ。いいか?俺がいない時はネットで情報を大量に呑み込め。うちのバックナンバー読みあさっても良い。それも大事な仕事だ。はじめは見ておくだけで構わん。そのザッとした大量の情報が、現場での見聞に有機的に作用する。俺らはスポーツファンと違って現場の選手や関係者に取材するだろ?個人的に仲良くなることだってある。そうした個人的な感情は大事でも、雑誌を作る上で最優先じゃない。ファンの視点じゃダメなんだ。勿論スポーツを好きじゃないと困るが、ファンの立場で応援する――ってのはちょっと違うからな」と話していた。
「そして夕方まで俺は居ないから勉強しとけ――か」
沙都子は数人しか人影の無い広い部屋でパソコンを開いた。バックナンバーに目を通しながらコーヒーを啜る。週刊に居た頃には無かったゆとりではあった。
気付くと、雄介の記事を探していた。
「こんなにも話題なんだね、君は」
大会結果記事はもとより、試合数週間前から調整の話題が並ぶ。それだけでは無い。テレビ出演も幾度も経験していた。
「ふわぁ…こりゃすごいわ。でも…」
写真に目が留まった。それは沙都子も知るアイドル歌手との対談時のもので、並んでVサインを見せているものだ。不意に、違和感が沙都子の中に生まれた。
急いで他の記事を見返すうちに、違和感は確信に姿を変えた。
「この子…笑ってない」
レース後のトラックでのインタビューでも、対談記事でも、一枚として雄介の笑顔を捉えたものは無かった。
ふと昨夜のことを思い返した。守山とは何度も顔を合わせているらしかったし、事実、緊張感のようなものがあったわけでも無い。だが――。
「あの子、一度も笑わなかったわ」
「そんなに感じが悪い奴じゃ無い。が、とっつきは悪い」――と言った守山の言葉を思い出したが、実を言えば、とっつき悪い感じも沙都子は受けなかった。ただただ静かで、無表情だとは感じたが、それだけだ。
「無愛想な人って普通に居るけど、こんなにも表情の無い人って居るの?大会で優勝した記事は真剣って事でまだ分かるけど、アイドルさんとの対談ですらニコリともしないなんて」
気になっていたことがムクムクと心の中に頭をもたげるのを感じた。
坂本雄介という絶対王者にして記録保持者の、生い立ちを沙都子は知りたくなった。
当初決めていた現行のレイアウトを変更する――という連絡が守山から届いた。
「写真は一枚を大きめに変えて、その分二ページ目は小さく。テキストをもう少し入れたいからそんな感じで手書きラフ作れ。それ見て良いようなら、デザイン起こして、今日中に送ってくれ」という文章のあとに一言あった。
「今日は多分戻らないからよろしく――だぁ?この野郎…」
取材対象が決まると、その時点でページ概要はほぼ決まる。記録会の結果など事前に決まっているはずもなく、その日の結果次第で記事の内容は激変せざるを得ない。が、雄介の場合、その可能性は低い。それでも、話した内容で文面が生き物のように変わるのは当然だ。
肩を揉み、A4の紙を前に置いた。ロットリングペンでザッとラフを描いていく。字数は面積で大体掴める。
「使えない先輩だわ」
沙都子の独り言に、後ろを通った上司が笑うのが聞こえた。
ラフを描きながらも頭から雄介のことが離れない。
「こりゃマズいわね。気になることはサッサと解決しないと」
描き上げたラフを元に、ソフトを起ち上げてデザインを作っていく。慣れた作業ではある。指示のLINEから四ページ分の元デザインが完成するまでに二十分掛からなかった。沙都子の「よし」の声に、離れた席の上司は「ひゅぅ」と口笛を吹いた。
宣言通りに守山は戻らなかったので沙都子も早々に切り上げた。
家に戻り、手早くシャワーを済ませるとジャージに着替え、買ってきたコンビニ弁当を突きながら社のアーカイブを覗いた。
「いつくらいから台頭した子なんだろう?」
読み返していくと、大学入学時には既に鳴り物入りだった。大学記録を更新した際、表紙にもなっている。
「すげ…」
時代を遡っていくと、高校時代も注目の選手だった。イケメンという事ではないが、涼しげな切れ長の二重が静かに、こちらを見つめている。スッキリとした好感の持てる男の子――という風貌もあって、陸上ファンのみならず人気は相当なものだった。
「私が知らないってだけで、これは相当なんだわ!」
感心しつつ、雄介が中学生だったあたりのバックナンバーを漁ってみた。流石にいまほどの頻度で見かけることはない。あっても扱いも小さかったが、記録会や各種大会記事に優勝者として名前を見ることが出来た。二位は無い。
「不敗って守山さんは言ってたけど、凄すぎるわよ。王者と称されるのも当然よね」
帰りのクルマで守山に訊いた話を思い出した。
「あらゆるスポーツが、その上位に行くために才能と努力を求めてくるのは当然だ。簡単に言えば運動神経とか客観的な研究心とかな。けど、こと短距離走に関して言えば、生まれ持った素質――ってのが大きく影響するんだ。駆けっこの遅い子も、コツを習い、練習をするなかで記録は伸ばせる。けどそれはある程度まで――だ。足の速さって、生まれついてのものだって俺は思ってる」
その理屈で言えば、子供時代の雄介がすでに常勝だったことも頷ける。
そんな事を思いながら、遡っていく。中学二年になって雄介の名が初めて挙がるのが、夏の終わりの大会からだ。それより前の記事を探すが、大会は記されていても雄介の名は無い。ようやく見つけたそれは、二年生で出た夏の大会から十ヶ月以上前のものだったが、その記録に、沙都子は声を上げた。
「え?」
雄介の名は二位に記されている。
〈中学生関東陸上記録会男子陸上百メートル第二位・坂本雄介〉
「さすがに最初から全部一位って事は無いわよね」
ようやく人間らしい部分を垣間見ることが出来て、沙都子は内心でホッとした。
表情が少ないだけに、雄介に対して走るサイボーグのような印象を抱いていたのだ。
「じゃあ、中学一年から二年に上がる頃にうんと伸びたのね?」
無いことでは無い。そう沙都子は考えた。ボンヤリと眺めていると、奇妙な違和感を感じた。
「なんだろ…何だか変じゃない?」
自分でも何が気になるのか最初は分からなかった。
雄介の記録を遡って辿ってきたが、更にその前――中学一年から小学校高学年と見ていくうちに、ハッとした。
「違う…!雄介君が伸びたのはあるかも知れないけど、それだけじゃない!」
雄介が二位に甘んじている間、その一位を占めていた名前があった。
「梶原…翔太?」
数は少ないが、年に三度ほどある小学生大会では毎回学年記録を更新して優勝を飾っていた。その二位に、坂本雄介の名が並んで記されている。
「雄介君でも勝てない相手が居たのね」
疑問が浮かんだ。
「あれ?じゃあなんで中二からあとに梶原って子の名前がないの?調子悪かった?」
もう一度見返していったが、以後一度として梶原翔太の名は見つけられなかった。
「走るのをやめた――とか?」
それもあり得るとは思った。が、なにか釈然としない。
「ここまで速い子が、辞めちゃうなんてあるのかな?」
他のスポーツに転向することはよくある。事実、守山も陸上からラグビーに転向している。
「だよね。うん。そんなとこなんだろうな」
納得しかけた時、一つの考えが浮かびかけたが、それは慌てて押し殺した。一番〈あってはならないこと〉だと感じたからだ。
記録上、坂本雄介が陸上百メートルで絶対王者の名を独占する以前、それ以上に速い子供が居たことは分かった。そして何故かその子供は記録の上から消えてしまったことも。
奇妙な不快感が沙都子の心に澱のように生まれた。
「坂本の子供時代?」
時々、沙都子には守山が大きな熊に見えることがある。気も無さそうに沙都子の話を聞き、「うんうん」と返事をしていた熊が振り返った。ペン軸が折れたらしく、太い指でペン軸を接着していたらしかった。
「なんだそれ?」
「聞いてなかったんですか?」
「前半分は」
「部下の話に耳を傾けるのが現代の上司のあるべき――」
「お前も俺の話を聞けよ」
「聞いてますよ?」
「言うこと聞けって意味だ!」
「あぁ…。時と場合ですね。それより坂本君です。彼って、どんな子だったのかしら?」
「知るか!普通の子だろ。まあ、足は速かったろうな」
その言い方で沙都子は理解した。
――守山さんは気付いてないんだわ。
「調べて良いですか?」
「仕事で?そんな記事差すのか?そんなスペース今回は――」
「興味を持てって言ったの、守山さんですよ」
言葉に詰まり、守山は腕組みをした。二の腕は丸太のようだ。
「だがなぁ、進捗もほら――」
「それなら大丈夫ですよ。データラフ(記事の元になる基本デザイン)はもうデザインさんに回しました。今日中にチェック終えられます。入稿もバッチリ間に合いますし、手が空いたら再来月発売予定の臨時増刊合計八ページも競技スケジュール睨んで組み始めてみます」
背後で上司の口笛が鳴り、「すげえな」という声が聞こえた。
守山は溜息を吐き、頷いた。
「いいだろう。ただし」
「ただし?」
「あぁ、ただしだ、いいか?なにか見つけても、誰かに漏らすな。あ、いや、政治家なんかと違って選手は一般人だからな」
「それなら心得ています。じゃあいいんですね?」
巨大な背中を向け、守山は「しっ!しっ!」と手を振って見せた。その勢いでペン軸の半分がポロリと床に落ちるのが見えた。
守山に宣言したとおり仕事を完璧に熟し、午後二時半には予定を消化し終えた。
会社を出ると、沙都子は時間節約のため新幹線に乗り、S県O市の駅に降り立った。
資料を見る。雄介は新幹線の停車駅があるO市のとなり――S市の生まれで、小中は地元の公立に通ったとある。
タクシーを拾い、先ずは小学校を訪れてみた。既に授業は終わり、帰宅する者で〈ごった返して〉いる。子供の波を避けながら沙都子は教員用昇降口を目指した。
「よくいらっしゃいました」
出迎えたのは、教頭の井伊口という男だった。年齢は五十代前半。薄くなった頭を掻きながら見せる笑みは、いかにも小学校の教員らしい柔らかさがあった。
「電話をさせて頂きました、奏文社『スポーツデイズ』の若林と申します。今日はお時間を頂きましてありがとうございます」
そう言いながら名刺を渡した。井伊口はその名刺を眩しそうに眺め、頷いた。
「それで、坂本君の事でなにか?個人のことですと、なにぶんお答え出来ることと出来ない事が――まあ、時代ですしね」
特にそれが週刊誌では――と言外に滲む。沙都子はその匂いを、これまで何度も嗅いできた。
「心得ています。何か秘密が知りたいとか、そういった主旨で参ったわけではありません。ただ、子供時代の坂本選手ってどんな風だったのか、その辺りを少しお聞かせ願えたらと思いまして」
井伊口はまた頷いた。特に問題なかろう――という表情に見えた。
「そうですか、でしたら私が少しはお力になれるかな?いえ、なにせあの子が小二に上がった年に赴任しまして五年生になるまでここに居ったのです。それから一度他所に行きましたが、昨年また戻ったような形でして。だから、今回こういったお話だというので、実は懐かしくて」
沙都子はボイスレコーダーを見せ、了解を取り付けるとスイッチを押した。
「お話を切り取るような形で直接記事にするという事は無いと思いますが、もしも使わせて頂く場合は必ず事前にもう一度許可頂けるか確認するようになると思います。無理な場合は、責任を持って消去致しますので」
井伊口は安心したように笑い、スリッパを出した。
「どうぞ、応接室も空いていますし」
沙都子は何処か懐かしさを感じさせる廊下を、井伊口に付いて奥へ向かった。
時間にして三十分。沙都子は雄介に関する思い出話を井伊口から聞いた。だが、それは沙都子の興味を特に引くようなものではなかった。
礼を言い、小学校をあとにした。中学までは商店街を抜けて徒歩で行けると教えられたので、その道すがら、沙都子は考えていた。
――足の速い子で、体育では勿論一番。低学年では校外どころか校内の記録会なんてものも無いから、せいぜい運動会で保護者などから驚きの声が上がる程。学校生活では真面目。責任感が強くて友達にも優しい…か。優秀な子供だったのは分かったわ。よその親が驚くんだから大したものだったのね。でも、高学年の頃の話があまり聞けなかったのは残念だな。五年生から始まる全国小学生陸上大会では二位だったって…それはウチのアーカイブでも分かってたし。一位の子に関しては他所の学校だから分からないって言うし…。
「でも、あれには驚いたな」
沙都子は井伊口が出してきたアルバムを見た時の驚きを反芻した。
そこには、友人と並び笑っている雄介の姿があった。
沙都子の直感は、覗いてはならないものに近づいているのでは無いか――?と訴えていた。
梶原翔太の学校に行くかは迷った。梶原翔太を知る教師が居る保証もない。仮に教師に会えたとして、どう話を向けていいか考えつかない。
「次の中学校でなにか話が聞けたらいいんだけどな…」
土手沿いに見えた中学校の校舎から、部活動の明るい声が聞こえていた。
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