風の王

狭霧

第1話 笑わない王様

 『関東八大・第三十三回夏季記録会』

 頭上の垂れ幕を見上げ、若林沙都子は首を回して肩を揉んだ。

「なんでアタシが……」

 開場にはまだ三十分はある。振り向けば観客用ゲート前には既に多くの人だかりが出来ている。母校応援と思われる揃いのTシャツも華やかに、誰もが笑顔だ。

「応援ねえ…。陸上ってそんなに人気あるんだ?」

 子供の頃からスポーツが苦手な沙都子には理解出来ない光景だ。

「駆けっこなんて大っ嫌い」

 周囲に聞こえないような小声で呟き、肩を落とした。

 大手出版社である奏文社に勤務する沙都子は、四月までは社を代表する週刊誌『奏文』で政治記者をしていた。単なるゴシップではなく、政治の舞台裏を真摯に暴いていく姿勢で、安定的な人気を得ている社のフラッグシップだ。その政治担当チームに女性は沙都子一名のみ。女代表――などと力むつもりは無かったが、それなりに誇りと使命感を持って取り組んでいた沙都子に、転機が訪れた。

 その日、沙都子は外資系ホテルのロビーにいた。待ち合わせた相手は、折々に情報をくれる事情通の男だ。元は衆院議員だったが、不倫と、そこにセットのDV問題が露見し、議員辞職に追い込まれた人物だ。

 与野党通じて自身と同世代の議員との交流があり、それを利用して裏情報を流してくれるが、問題も多い男なのは沙都子も知っていた。

 遅れて現れた男は沙都子の目の前に掛けると、大仰な足の組み方をして見せた。沙都子のチームとの付き合いは長いと言うが、沙都子が単独で会うのは初めてだった。

 話はスムーズに進み、必要な情報を得たところで終了――の予定だったが、立ち上がった男は並んで歩きながら沙都子の肩に肩を寄せ、囁いた。

「部屋に行かない?君の興味をもっと引きそうな話もあるんだけどね」

 沙都子もウブでは無い。取材活動をしている中で、似たような話を持ちかけられることは幾らでも経験している。が、男は積極的に過ぎて沙都子の逆鱗に触れてしまった。沙都子の手首を掴んだのだ。

 立ち止まり、その手をジッと見つめていた沙都子が考えたのは、これからする事がチームや編集部に迷惑になるかかどうか――その一点だけだった。そしてそれは間違いなく迷惑になることだった。

 沙都子は男を睨むと、男の手を振りほどき、その頬に思い切り平手を振った。静かなロビーに乾いた音が鳴り響いた。

 男にとっても沙都子にとっても不運だったのは、男の顔を知るものが居合わせたことだった。情報はインターネットを通じ、瞬く間に拡散した。

 その時点で相手の女が週刊誌の記者だとまでは知られていなかったが、ライバル他社からの〈援護射撃〉で匂わせの追い情報が広まると、今後も情報源は手放したくない奏文としても男に対して形式的にケジメを付けねばならない事態に陥った。

 社内異動の辞令は、事件から四日で発令された。

「スポーツ…ですか」

「スポーツだ」

 唇を噛んで項垂れる沙都子から、編集長は目を逸らした。化粧っ気も無く、日夜を問わずに駆けずり回った沙都子の姿勢を知るだけに、掛ける言葉も無かった。

 スポーツを低く見る意味は無かった。だが、仕事には誇りが必要だ――というのが沙都子の、まだまだ短くはあっても社会経験で得た持論だった。誇りを持った仕事を去る時は、自分が納得した形で去りたかった。社会には、暴かねばならない闇がある。少なくとも、国民の暮らしに深く関わるような部分の闇は、そこに近づける者が暴く責務を負っている――と、考えていた。その意味で、スポーツ班への異動は、心外だった。


 社員証を見せ、取材者用通用口を入る。湿ったコンクリート臭が、まるで沙都子の行く手を阻むかのように無風の中に漂っている。その長い廊下を進む。

 何人かの報道関係者を見かけたが、当然のごとく顔見知りはいない。それどころか、話している言葉すら分からない。前方に出口が見えたが、その出口で良いのかすら沙都子には分からなかった。

 傍まで行くと出口と思ったそこには鉄柵があった。跨げば跨げる。思案していると、背後から声が掛かった。

「通れないぞ」

 驚いて振り返ると、階段に男が一人立っていた。大男――という形容があるが、沙都子の脳裏に浮かんだのがそれだった。

「グラウンドレベルに出て良いのは記録会終了後の少しの間だけだ。試合前に取材者は選手と接触出来ないからな。おい、そこのを運べよ」

 誰かも知らない男が顎で沙都子の隣を示した。畳んではあるが二メートルほどある脚立が立てかけてある。

「どれを、どうするって?」

「お前なぁ、それが先輩に対する口の利き方か?」

「先輩?」

「なんだよ、聞いてないのか?お前、若林だろ?週刊奏文だった」

 カチンときたが、堪えた。

「まさかお前、スポーツの現場も初めてのクセして、フラッと来てなにかできると思ってたわけじゃないんだろ?俺がお前のお世話をする偉い先輩の守山広大だ。先輩はエラい。後輩はエラくない。出来ることも少ない。だから出来ることを精一杯にする。だよな?」

 沙都子はウンザリした表情で脚立を見た。

「まあそんな顔すんな。見ての通り俺はカメラやらパソコン入れたバッグやらで手一杯だ。本当なら今日はいつも組んでる奴が来るはずだったんだが、嫁さんが産気づいたって事で急遽…な」

 短髪の頭を撫でて笑っているが、その笑顔は〈かたぎ〉の笑みには見えない。

――どう見たってスジ者じゃないのよ。なんなのこいつ…。

 沙都子は溜息を吐き、脚立に腕を通した。

「おう?要領は知ってるんだな?」

「一応…前の所属でも使ってましたから…」

 守山は沙都子の応えに「ウンウン」と相好を崩した。

「じゃあ来い。急げよ。場所は確保してるが、油断してたら取っといた場所がそれとなく狭くなってることもあるから」

「え?階段上るんですか?脚立を抱えて?」

「当然だな。このグラウンドには取材陣用のブースは二階席にしか無い。上がるんだよ、脚立クンを抱えて階段を」

 指で招き、守山は背を向け、階段を上がり始めた。

「マジかよ…」

 小さく毒づく沙都子に、既に踊り場を回っていた守山が言った。

「マジだ」

 静かな階段に溜め息が聞こえた。


 脚立の足を階段にぶつけながらも上がりきると、沙都子は思わず声を漏らした。

「う…わぁ…!」

 目の前に広がるのは陸上専用グラウンドの芝の緑と、グラウンドそのものをスッポリ包む抜けるような青空だった。その直下、全天候のトラックが青空に負けないブルーを白線で仕切られている。流れる川を思わせるが、海の波の様にも沙都子には見えた。

「グラウンドの外でも空は見えてた。だが、ここで見るとまた違うだろ?景色って面白いよな。立つ場所で色々に――」

 パソコンやカメラ機材を広げていた守山が沙都子を見上げた。

「なんだ?どうかしたか?」

「いや…守山さんって詩人ですか」

「いや。記者だ」

「ですよね、ってか、どう見ても詩人には見えないし、それ以上に記者って言うより――なんかやってました?スポーツ」

 レンズを替えながら、守山は「ああ」と相づちを打った。

「ラグビーだ」

「あぁ…」

「その前は陸上やってたんだぜ」

「砲丸投げ?」

「小学校の頃からこの体型してたと思ってんのか?上背はあったが、細かったんだよ」

「いやあ、信じられないですよね。筋肉が喋ってる」

「事実だ。長距離やってたんだよ。でも、元から球技も好きでな。高校からラグビーに…まあ弱い学校ではあったが転向して――」

「先輩の歴史ですね。必須ですか?」

「選択科目だ。いいから、脚立をその通路にセットしろよ。通行の邪魔にならんように、柵一杯まで前に出しとけ」

「普通は邪魔にならないように後ろなんじゃ無いんですか?」

「いや。それじゃあアングルが狭くなる。ここじゃあカメラが何より最優先なんだよ。他の社もそうだろ?」

 言われて見回すと、確かに守山が言うとおりだった。

「席からじゃあ立ち上がっても他の奴の頭が邪魔だ。遠景だけじゃ無く、下の画も欲しい。だからそこだ」

「なるほど…」

「分かって貰えたみたいで恐縮だ。じゃあ、休んでろ」

「え?休むんですか?」

 守山は手を止めた。

「なにか出来るか?」

 返す言葉も思いつかない。が、膨れることは出来た。

「くそ…」

「うん、それでいい」

「え?」

「いいから飲み物でも買っておけ。競技が始まれば便所もままならないぞ」

 そう言われ、沙都子は慌てて階段を戻っていった。


 競技は午前の部と午後の部に分かれていた。

 エスプレッソコーヒーを飲みながら、プレスに配られた進行表を見ていた沙都子が守山に視線を移した。グラウンドの状況を見回しながらタイピングをしている。

「ブラインドで打てるんですね」

「驚かせてスマンが、俺も記者なんだぞ?」

「驚いたのはそこじゃ無くて、指ですよ」

「あ?俺の指がどうかしたか?」

「だって、先端面積がキーの二倍くらいあるじゃないですか?それでよく押せますよね」

 タイピングが止まる。

「だが俺の指使いはソフトなんだぜ」

「はい、それ以上のオヤジエロギャグはセクハラですから勘弁してください」

「何言ってんだ?俺はピアノも弾くんだ。小学中学と習ってて――」

「親御さん…格闘技とかって思わなかったんですかね?そっちに向いてそうとか」

「両親ともに教師だし、静かな家なんだよな。思わなかったんじゃないか?」

 刃が立ちそうもないので話題を替えた。

「私、なにしたら良いですか?こっちの世界の事って何にも分からないんですけど」

「面白い質問だな?どうだと思う?」

「え?いえ、だから私が質問してて――」

「知らない世界のことで出来そうなことなんてあると思うか?」

 ジロリと見上げた守山の目は笑っていなかった。

「お前は、報道の素人じゃ無い」

 カメラのレンズを替えながら守山は静かに話した。

「だから、新入社員にするような話はしないぞ。お前は何にも出来ない。間違いなく足手まといだ。指示しても、俺が望むような形には出来ないだろう。でもな――」

 三脚にカメラを固定し終えると、進行表をパソコン脇のテーブルに貼り付けた。

「学び方はもう知ってるだろう?向こうでも苦労はしたはずだよな?誰かが手取り足取り教えたか?俺は、ハナっからスポーツ畑だから政治報道のことなんかは知っちゃいない。コツやタブーやクセなんかも山ほどあったろう?それでもやれたのはなんでだか分かるか?いや――」

 座り直してトラックを見下ろした。

「なんでやれたか、自分を思い出せ」

 それだけ言って守山は黙り込んだ。沙都子は守山の背を見つめ、悔しげな苦笑いを浮かべた。


 競技会に参加しているのは有志の八大学で作るグループだ。それでもマスコミが注目する理由は、その各校が日本の大学陸上界を牽引していると言って過言では無いからだ。

 特に注目される選手がいた。

「この、坂本雄介って子は、なんなんですか?」

 レース結果とは違い、事前に用意出来るテキストもある。その整理も終えて第一競技を待っている守山がネットで色々と検索をしている沙都子に「うん」と頷いた。

「よく気付いたな」

「そりゃあすぐに気付きますよ。こんなにどこにもここにも記事の上がってる選手なんて」

 タブレットを返して画面を見せた。

「それは去年の日本選手権だな。坂本が自分の日本記録を百分の三だけ下回った試合だ」

「本命圧勝――ってありますね」

 守山は返事をしなかった。

「その前の試合も、その前もホラ、物凄い話題じゃ無いですか?プロじゃ無いのに、こういう選手もいるんですね」

「プロだけがスポーツでも無いしな」

「それは分かりますけど、でもやっぱり――」

「まあな。マスコミだってカネになるから動くんだ。その意味じゃ、それがアマだろうと世間の注目には敏感なのは当たり前だ。ていうか、そいつは別格だ」

「そんなに?」

「そんなに――だ。なにせ、全中の二年生からあとは現在にいたるまで、不敗だぞ」

「え?一個も負けてないんですか?」

「公式レースでは負け無しだ」

「すごい…」

「凄さが分かるか?坂本はいま二十一だ。中二からだから、七年くらい誰の背中も見てないんだよ」

 そう言ったところで、場内アナウンスが始まった。進行は、これもまた八大学各校の放送研究会が分担で受け持つ。守山と沙都子は周囲の他社に負けじと身を乗り出して競技開始を待った。

 目の前で繰り広げられる真剣勝負に、沙都子は目を見張った。トラックもフィールドも、そこには若い力のぶつかり合う飛沫が飛んでいる。テレビとは違う、リアルな肉体が躍動する様は圧巻だ。若者の真剣勝負に、沙都子は息もひそめて見入った。

「そろそろカメラに行く。お前はここで自分のタブレットに気付いたことを記事風に書いてみろ。要領は教えない。自分の感覚そのままに表現するんだ」

 言い残し、守山は脚立に上ってファインダーを覗いた。

「書けって言われても――」

 見出しと、なんとなくな煽りは書けなくも無い。が、記事は別だ。選手個々の情報や、事前取材で得たサイドストーリー、周辺情報なども盛り込まねばならない。それがゼロでは、書ける文章など無い。

「政治も同じだけどね」

 苦笑し、タブレットに向かった。だが視線は競技を捉えている。結果だけでは無く、スタートラインに向かう選手の表情や、一挙手一投足を逃すまいと見つめた。だが、特にトラック競技では選手は常に複数で同時に競い合う。アップも同時だ。その全てに注目するのは、考えている以上に至難だ。

「全員の紹介記事じゃ無いんだし、どうしても注目選手に目は行くよね」

 呟きが聞こえたはずは無い。が、守山がほくそ笑むのを感じた。

「ふん!」

 沙都子は鼻を鳴らして指を動かした。


 各種目とも、参加者は最大十六名。エントリー出来るのは、一校から二名と決められている。その大学に、仮に日本記録保持者から歴代三位までが在籍していようとも、校内記録会での上位二人だけしか大会にはエントリー出来ない。

 運営の都合上、フィールド競技と3000SC(三千メートル障害)が昼までのメインとなる。それらが終わるやいなや守山は姿を消した。現れた時、守山はコンビニ弁当を二つぶら下げて戻って来た。礼を言うのは悔しかったが、沙都子は頭を下げた。

――いいとこあるんじゃん。

 そう思ったのも束の間、午前中に試し書きした記事にはボロクソ言われてしまった。

――いいとこなんか無い!

 ムッとして食事を終えると、間もなく午後の部が始まった。

「坂本君の学校――頌徳大学には日本記録を持ってる彼と、歴代二位の記録を持つ衣藤って子が居るんですね?ハイレベルな学校なんだ…」

 沙都子の独り言に、守山は首を振った。

「ま、確かにな。だが、なんて言うかな…」

 言葉を濁した守山だった。

 恒例として最終競技は、四百メートルリレーと決まっている。男女百メートル走は、その直前の午後三時開始予定だ。それまで沙都子は守山が用意した予備のカメラで撮影の基礎を〈守山の隣で〉学ぶことになった。勿論競技と競技の合間に。

「ちがう!それじゃあ、どれを被写体として選んだんだか分からなくなっちまうぞ!」

「友達の大会に遊びに来て撮ってやってるんじゃ無いんだからな!」

「抜くのは意味だ。意味のあるショットだ。狙った選手の狙った表情以外にも、彼らの精神状態が写り込んでくれるかどうかはカメラマンの腕の見せ所で――」

 記事に使う写真は撮りつつ、守山は連写のようにダメ出しを繰り出した。それに沙都子が辟易し始めた頃、百メートル走の選手がトラックに姿を見せ始めた。

「どれが坂本君ですかね?」

 選手名簿で坂本のゼッケンナンバーを確認しようとする沙都子に、守山は指を差して言った。

「あれだ。七番の。日本記録保持者がいる場合、ゼッケンは一桁が与えられるからな。まあ俺は顔で分かるが、お前はそんなのも参考にするといい」

 なるほどと頷いてトラックを見ると、確かに白地に紺の七番がベンチに見えた。

「座ってる?みんな軽くアップしてるのに?」

「あぁ…。あいつはあの時点ではもう動かないんだ。自分なりのルーティンなんだろう」

「へえ…」

 スポーツはまったく詳しくない沙都子だが、テレビなどで観たことはある。選手は個々に柔軟をしたり軽くジャンプをしたりするものだとばかり思っていた。

 沙都子の知る〈当たり前な〉試合前準備に入った選手たちの中で、そこだけ時間が止まったかのように雄介はジッとしていた。カメラで見ると、その視線はトラックに落とされている。なにを考えているのか分からない静かな目だった。

「昂ぶっているのか、それとも逆に自信が漲って心が静かなのか、皆目分かりませんね」

 沙都子の言葉に守山はプッと笑った。

「何がおかしいんですか?」

 抗議しようと思ったが、守山は言った。

「あぁ、すまん。そういう意味じゃ無い。畑は違っても、やっぱお前も記者なんだなと」

 見えているものの正体を知りたい――それが記者魂だと上司からは教わった。

「見えていようが、人は本質を見落とすものだ。見えていると思いたがるのが人間だ」とも聞かされた。

「伝える側が思い込んだら、伝え聞いたり読む側はどうなる?だから、お前のような姿勢は大事なんだ。立派だと感心して笑ったのさ」

 あまりにストレートな褒め言葉に二の句も出ず、沙都子は俯いてしまった。伏せた顔が赤らんでいるような気がして暫く顔を上げることは出来なかった。

「さあ、始まるぞ。どの競技の、どの試合も意味深いが、この試合は特に一般紙なんかも来てるくらい大注目だからな」

 言葉に、微かだが皮肉の香りを感じた。守山らしくないなと思い、声を掛けようとしたところで場内アナウンスが始まった。


 雄介はベンチに掛け、前に放り出すようにしていた足を静かに引き寄せた。

 脚に掛けていたタオルを丁寧に畳むと、ユックリ立ち上がった。一本目の八人がスターティングブロックの調整をする中、自走の八人は邪魔にならないように後方に控える。その中には時々自分で頬を張り、闘志を表すものもいるが、雄介の表情は静かなまま変化はなかった。

 ファインダーの中にそれを見ている沙都子には奇妙な違和感があった。

「変よ…」

 守山に言ったわけでは無い。ただの呟きだが、それを耳にした守山は小さな溜息を吐いた。

 第一レースでは一着が十秒三一、二着がコンマゼロ三秒遅れてゴールしたが、雄介の持つ記録は九秒八九で、記録だけを見れば他の追随を許さない――といえる。だが、どうしても沙都子には雄介の表情が「王者のそれ」には見えなかった。

 勿論雄介を見るのは初めての沙都子なので、いつもああいう表情なのだ――と言われればそれまでだが、沙都子の見る雄介の表情は、静かと言うよりも、悲愴という言葉が合っていた。

「アイツは」

 隣の守山が言った。

「日本記録を作って以来、ずっと調子が悪い」

「え?でも記事じゃあ――」

「そうだな。記録上もそうだ。調子が悪いなんて言う奴は居ない。いや、アイツのコーチの臨在さんくらいか。そんな事言うのは」

 沙都子は、雄介を見た。スターティングブロックを既に調整し終え、静かに佇んでいる。その様は、落ち着いていると言うよりもやはり沈んでいるように思えた。だが常勝なのだ。記録も、自己の持つ日本記録を更新こそ出来ずにいるが、そもそも日本記録がそう簡単に出るはずもない。大方の評価は、雄介の万全を語っている。それでも、守山は浮かない顔で言った。

「俺の知る雄介は、あんなじゃなかった」

 沙都子が問い掛けようとした時、最終競技のアナウンスが入った。


 小さくジャンプする者が居る。名を呼ばれてスタンドに手を振る。応援に駆けつけている学友や同窓生等が懸命に鼓舞する。否が応でも血が滾る。それは沙都子も同じだった。母校でも無い学校だが、今日一日陸上競技を見て、自分が知らなかった世界の息づかいを肌で感じることが出来た。

 第一組は接戦だった。が、守山が予告していた学生の勝利で終わった。

 沙都子は自分でも理由の分からない興奮を覚えていた。鳥肌をそっと撫で、第二組、スタート直前の雄介たち選手を見つめた。

 競技進行のアナウンスがスタートラインへのセットを求めた。選手たちは自分のスターティングブロックに足を乗せ、前を見つめた。

 雄介はと言えば、同じようにしてはいるが、どこか見ている場所が周囲とは違うふうに沙都子には見えていた。

――あの子、なにを見てるんだろう?って言うか、なんであんなに悲しそう?

 コールが掛かり、各自がいつも通り寸分の差も無い位置に指を置いた。そしてレースは始まった。十秒ほどの中に詰められた物語が沙都子の前で繰り広げられ、そして終わった。


 「インタビュー?え?私も行っていいんですか?」

 沙都子の頓狂な声に、守山はむしろ怪訝な顔を見せた。

「なんだ?おまえ、うちの社の人間じゃ無かったのか?」

「いえ…でも…」

 配属後、初めて試合会場に来たような自分が、種目優勝インタビューなどという栄えある場を経験させて貰えることに奇妙に感動を覚えた。守山は笑った。

「まあ正直いえば十年早い。が、飯食いながらの雑談的な奴だし、お前のスポーツ記者デビューにはちょうど良いだろ」

 守山の冗談めかした皮肉もどうでもよかった。百メートルの日本記録保持者にして、今日の記録会も優勝で飾った相手だ。鳥肌の第二幕だった。

「会えば分かるが、そんなに感じが悪い奴じゃ無い。が、とっつきも悪い」

 笑いながら荷をバンに乗せ、インタビューの場に指定した近くのレストランへと向かった。

 二階の個室で待っていると、十数分遅れて男が二人現れた。実際に間近で見ると意外に上背のある坂本雄介と、そのコーチで、嘗ての日本記録保持者である臨在誠一が沙都子たちの前に立った。すでに齢六十五と聞いていたが、とてもそうは見えない。守山と互して上背もある。互いに一礼をし、席に着いた。沙都子の正面に臨在が、守山の正面に雄介が座った。

 腹が減ったという臨在はステーキのセットを頼んだが、雄介は寮に戻ってから管理栄養士の指導食を食べるため、ノンシュガーで紅茶を啜った。

「時間もとらせたくはないので、食事中でも話を伺いますよ」という守山に臨在は「構わんよ」と応じた。

「先ずは坂本選手、優勝おめでとうございます」

 守山の言葉に、雄介は小さな首肯で応えた。

「今日のレース、まあ記録会という事だし、一般論で言えば勝敗は気にしなかったわけですよね?」

「まあ……はい」

 こうしてテーブルを挟んでいても雄介は笑顔を見せない。幾ら本命と呼ばれようとも、試合前にはそれなりに緊張もあるはずで、笑顔が無いのは当然なのかも知れない――と、沙都子も思うが、インタビューの席ですらその様子は変わらなかった。

 初めて耳にした雄介の声は、とても陸上の日本記録保持者と思えない。小さく、消え入りそうなものだった。

「うん。で、結果に関しての受け止めなんだけれど、御自分ではどうなのかな?記録という意味で――」

「現状ではアレが精一杯でした」

「なるほど。その辺は普段から見ている臨在さんにも伺いますが、どうなんです?」

 臨在は肉を楽しんでいた手を止めた。

「来月には、謂わば本チャンの全日本がありますよね。そこで次回五輪への参加参考記録をクリアしたいわけでしょうけど」

「問題は無いよ。今日のレースでは参考記録までコンマゼロ四秒遅れたが、そもそもこの時期の照準は全日本だ。ここで好タイムを出しても――」

 チラリと沙都子を見て微笑んだ。

「世間は喜んでくれるだろうが、コンディションコントロール上は意味があるかといったら――ね」

 なるほど――と守山は頷いた。だが、沙都子は雄介の表情が気になって仕方が無かった。

「折角頂いた機会だし、突っ込んで伺ってもいいでしょうか?」

「うん。どうせ突っ込んで訊くんだろうが。お前いつもそうじゃ無いか」

 親しげな雰囲気だ。臨在と守山の関係も気になった。

「どうも。じゃあ雄介君、本当のところどうなんだろう?俺にはとても、世間がいうような万全の調子――には見えないんだ。日本記録を樹立した昨年の関東選抜以後ね」

 臨在は手を止め、背もたれに背を付けて隣の雄介を見た。雄介の表情はレース直前と何ら変わらない静かなものだった。だが守山のその問いに、答えたのは臨在だった。

「守山、お前も知っているとおり、アスリートのコンディションってのは極めて繊細、微妙なんだ。確かに雄介はあの大会以後、そう絶好調って訳でもない。それは認める。だが、不調というのでも無い。勿論記録が求められるのはトップランナーなら普通の選手以上に仕方が無いことだが、記録ってのは、そんなに毎回ヒョイヒョイ出るもんじゃない。様々な要素が絡み合って辿り着ける域なんだ」

 守山は、想定していた答えらしく、小さな息を吐いた。

「分かります。雄介君の最高潮は五輪に向けてあるべきだし、臨在さんが付いている以上、そうなるでしょう。俺が気になったのは、記録そのものじゃないんです。なんていうか、走りそのものっていうのかな」

「感性だな」

「そう思います、自分でも。そのへんでなにか雄介君が自分として感じるものってあるのかなって」

 雄介は表情を変えず、静かに首を横に振った。

「いえ…自分では特にそうしたものは感じていません。コーチも仰ったことですけど、毎回記録を狙っているわけでないのは事実です。といって、なんであっても負けるのは嫌いなので全力である事に間違いもありません。その上での結果として記録があったり、見てくださる――例えば守山さんとかの中に印象が感じられることはあるんでしょうけど、特に自分として、この一年で何か変わったことがあるのかといわれて、思い当たるものは…無いです」

 沙都子は、話す雄介を観察した。訊いてみたいことがあった。

「うん、分かりました。まあ俺としたら雄介君には是非とも金メダルを取って貰いたいし、そのプロセスの上で見えてることに、安心してたいだけなんだろうな」

 笑い、コーヒーを飲んだ。

「なにを見てるものなんですか?」

 沙都子が訊ねた。視線は雄介に向けられている。

「おい…」

 止めようとした守山を、臨在は笑顔で「構わんよ」と制した。

「スミマセン、若輩ですが、今日初めて坂本選手の試合を拝見して、どうしてもお訊きしてみたかったことなんです。坂本選手は、試合前にとても静かな様子でした。スタートライン上でも同じように、静かに前を見てらっしゃった。あの時って、なにを見ているものなんですか?」

 なにを訊ねるのかと、内心でヒヤリとした守山だったが、いかにも素人がしそうな質問に安堵して雄介を見た。が、当の雄介はハッキリと分かるほど身を強張らせ、沙都子を見つめ返していた。「雄介君、いいんだ」と、守山がストップを掛けた。インタビューが終わるまで雄介は考え込んでいたが、遂に雄介の口から沙都子の質問への答えを聴くことは出来なかった。


「おまえなあ」

「なんですか?先輩」

 帰り道、社用のバンからすっかり暗くなった街を見つめた。屋根に脚立をくくりつけ、後部座席には得体の知れない機材や箱が積み込まれている。いま沙都子が座っている助手席も、守山が慌てて片付けなければ乗れる状態ではなかった。

「あんまり失礼なことを訊くなよな?」

 守山は幾分憮然とした様子でハンドルを握っていた。

「失礼?でも、坂本君は怒ってなんていませんでしたよ?」

「そりゃあまあ…」

 沙都子は思い返した。

――答えて貰えなかった…。

 眼差しは実直そうな青年のそれだった。沙都子の質問に不快な感情を持ったようにも見えなかった。だが、答えは無かった。

――建前の答えだったらまだ分かるけど、答えられないってどうして?

 困惑したような雄介の表情が窓に映って見えた気がした。

 不意にもう一つ気になっていたことを思い出した。

「守山さん」

「先輩か守山さんか、決めてくれ」

「じゃあ守山先輩」

「はいはい…」

「守山さんと臨在コーチって、どういう関係なんです?」

「プライバシー」

「訊かれて困る的な?」

「ねえよ」

 仏頂面だが愛そうが無いわけではない。スポーツ畑新米の沙都子にも面倒がらずに接している。決して面倒見がいいわけでは無いが、伸ばすのが上手いタイプだとは沙都子も既に感じている。

「臨在さんは、俺がラグビーやってた大学時代、スポーツ理論の研究室にいたんだ。現役引退して、次の目標を後進の育成に置いてたんだよ。人間工学的科学的トレーニング――なんてのが流行りだした頃だな。それで俺らラグビー部なんかも結構世話になったし、色んな学校でも指導講習なんかやってたというか、そんな感じだ」

「へえ。それであの人、いつから頌徳で陸上のコーチを?」

「俺がこの仕事に就いて暫くは音信不通だったし、その辺は分からん。気付いたら競技場で顔を合わすようになってたな。だから…ざっと七年くらいになるのか」

――七年?じゃあ、坂本選手が中学生の頃には大学で指導をしていたのね…。

「なに考えてるんだ?臨在さんがどうかしたのか?それはお前…」

 チラリと沙都子を見て笑った。

「記者魂という奴か?でもな、臨在さんにはゴシップネタなんて無いぞ?奥さんとはムカつくほど仲が良い。女遊びなんて縁遠い人だよ。子供も素直だ。人柄がいいから周りに集まる人間も良い奴が多い。学校側の信頼は絶大で、なにしろ頌徳陸上部の次期監督間違い無し――ってくらいさ」

「ゴシップなんて考えてません。ただ――」

 何がこんなに気になるのかは分かっていた。

――坂本選手を見る時の、コーチの目があんなに寂しそうなのは何故なのかしら?

 薄い色つきのサングラスを掛けてはいても、その奥の眼差しは透けて見える。

――教え子が日本記録保持者で、しかも絶対王者なのに、どうして…。

 思案は、会社の駐車場に着くまで続いた。

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