回想 国分亮子

3月31日

 大宮さんの奥さんが写真を撮ってくれた。あたしのスマホにはありさの写真がたくさん入っていたけれど、あたしとありさが両方写っているのは一枚もなかったからだ。ちょうどマンションの前に植わっている桜が咲いたので、その前で撮る。

ありさはあたしに頬を寄せて、ぎゅっと抱き着いてきた。

暖かい小さな体の感触。ありさに頬を寄せられると、いつの間にこんなに大きくなったのかと思った。ちょっと前は2500グラムの真っ赤な赤ちゃんだった気がするのに、この子はもう自分で考えて何かを好きになったり怒ったりしている。

ありさはよく寝る子だった。3カ月くらいの頃には夜泣きしたけど、ゆらゆら揺らしていると泣き止んだ。あんなに小さくてふにゃふにゃだった赤ちゃんが、あっというまにこんなに大きくなってしまった。

写真には涙をこらえたせいでちょっと変な顔になったあたしと、とびきりの笑顔のありさが写っていた。


 写真はプリントアウトして飾った。窓の外の桜は葉っぱが目立つ。写真を撮ってから、もうすぐ半月。上田さんが引っ越して、ありさは最初はさみしそうだった。「おさかなさんの声がする」と、ありさはマンションの外の側溝に屈みこんで言った。あたしは何と言っていいかわからずに、そうなの?と訊くしかなかった。

 ありさは最近星矢くんと一緒によく遊んでいる。同じくらいの歳の遊び相手ができて本当によかった。でも、あたしには気になることがあった。きっかけは小さなことだった。いつもは長谷さんの家で星矢くんと遊ぶが、その日はたまたま家で遊ぶことになったのだ。もうすぐおやつの時間だったから、あたしはゼリーとかチョコレートとか、ちょっとしたお菓子を並べて、お店屋さんごっこをすることにした。お金の計算は難しいから、ぜんぶで5個になるように選んでねと子どもたちに伝える。

ありさはこれが大好きで、一生懸命に指を折りながら、5つお菓子を選ぶ。色合いとか、味の組み合わせとか、ありさなりにこだわりがあるようで、何度も何度も考えて、手にしてから決める。一生懸命に選ぶあまり、口がへの字になるのが可愛くて、あたしはその様子をよく写真に撮っていた。

 星矢くんはお菓子を選べなかった。

一個手にとっては、あたしの顔をじっと見る。目が泳いで、すぐに別のお菓子に変える。「これでいい?」力のない声があたしに訊く。

「どれでもいいんだよ」

あたしが言うと、「正解はどれ?」と尋ねてくる。

「どれでも、今食べたいのとか、好きな味のとか、色がきれいなのを選んでもいいんだよ」

あたしがまた言うと、星矢くんはお菓子を前に固まってしまった。

「ど……」

星矢くんは言いかけて、大きく咳払いした。コアラのマーチの小袋とサッポロポテトの小袋とを真剣に見比べていたありさがビクッとした。

「ど……どれが、正解ですか?」

星矢くんがまた訊いた。この子は時々こんな風にどもることがある。緊張してる時とか、今のように何かを選ぶようなとき。

あたしはなんだか可哀想になって、星矢くんをぎゅっと抱きしめた。

何でもいいんだよ。君が好きなものを好きに選んでごらん。誰も怒らないよ。

星矢くんは、あたしの耳元で囁いた。「お母さんに言わないで」

 あたしは考えていた。星矢くんはストレスを感じているのかもしれない。

あれから長谷さんが毎週くれる「親と子どものハッピー毎日」という冊子には、子どもの吃音はストレスが原因とあった。ストレスに効くアロマとか、親子マッサージとか協会認定カウンセラーとかが紹介されている。だから長谷さんはもう星矢くんにできることをしてあげているんだろうし、それはあたしが考えることよりもずっと効果があることのはずだ。だってあたしよりずっと頭のいい人だし。でも、星矢くんは長谷さんのことを怖がっているような気がするときがある。いつも、長谷さんが小さく頷くまで自分から何かを決めることがないような感じがする。あたしが小さい頃そうだった。うちはずっと母子家庭で、母ちゃんはいつもあたしに言った。人様を困らせるようなことだけはしちゃだめだよ。だからあたしは、自分がやっていることにいつも自信がなかった。誰かが良いって言ってくれると安心した。何が正しいことかあたしは教えてもらってないから、何が正解か分からなかった。

「なんでもいいんよ。オレらまだ子どもなんだからさ」

 そう言ったのはシマくんだった。シマくんの名前は漢字で志真と書いた。小学生の頃、クラスには何人か漁師の子がいたが、網元の子どもはシマくんだけだった。網元の子はみんないばっていて、誰かを叩いても笑ったり、物を隠したりしていじめていた。お金がある家の子だから、お金で仲間を従えていた。あたしも「カタオヤビンボー」とバカにされた。でも、シマくんは絶対にそんなことをしなかった。クラスで立場の弱い子を守っている、ヒーローみたいな男の子だった。シマくんのお父さんも優しい人だった。お母ちゃんはシマくんのお父さんを神様みたいな人と言った。今ならわかるが、母ちゃんはシマくんのお父さんにお金を借りていたのだ。

その上で、あたしがいじめられることがないように、シマくんにあたしと仲良くするように言ってくれた。

シマくんは賢かったし、ケンカも強かった。成績のいい子グループから抜けた幸田さん。空気が読めなくてみんなと一緒にいられないキヨセ。都会の話ばかりしているという理由で嫌われた。そしてあたしは、中学に入っても一緒にいてくれるシマくんとでゆるいグループになっていった。

 みんなに相談してみようかな。その時にあたしは思い立った。

ありさが産まれたことを、あたしは皆に報告していなかった。この頃は、ほとんどメッセージのやりとりも途絶えていた。最後に連絡があったのは幸田さんで、就職活動を始めるから、連絡が頻繁にできなくなることを謝る内容だった。彼女らしい。頑張っているのだなあと思いながら、スマホのトーク画面を見る。ちせのアイコンはいつの間にか産まれたばかりの赤ちゃんの画像になっている。ちせもお母さんになったんだった。この時にありさのことを打ち明けるべきだったんだろう。でも、みんなの祝福のメッセージとキラキラしたスタンプの渦に、あたしは今言うべきじゃないなと判断したんだった。シマくんのアイコンは知らない車メーカーのロゴ。幸田さんは花の写真、キヨセは外国のアニメのキャラクター。なんとなくみんなの最後のメッセージを目で追っていく。シマくんはスタンプ。ちせは「また今度会おうね」。幸田さんは「連絡が途絶えたらすいません」。日付は――もう、ひと月も前だ。


 結局あたしは星矢くんのことを大宮さんの奥さんに相談した。

あくまでも、気になっているという話。大宮さんは「周りを気にしすぎちゃう子なのかもしれないね」と呟いた。

「うちの薫もそうでね」

あたしはこの時、あの金髪の子が薫という名前なのだと初めて知った。

「繊細なところがある子で、それで学校に行けなくなったりして、今は家にいるの」

大宮さんは廊下に続く扉に目をやった。

 知らなかった。いつも昔話に出てくる日本のお姫様みたいにふくふく笑っている大宮さんもそんな悩みがあるんだ。


 4月25日から26日。大宮さんがまた海辺の別荘に連れて行ってくれた。

前よりもたくさんの社員さんが来ている。みんな楽しそうに喋っていた。前と同じく、アメリカの映画みたいなバーベキューをやった。今回はジンギスカンもあって、あたしとありさは初めて羊の肉を食べた。最初の日の夜、この時も焚火を囲んで話をした。庭ではなく、浜辺だった。波の音が低く響いている。みんなで大きな円を作って体育すわりで座る。

大宮さんが「今日は悩みについて、僕のやり方を話そうと思う」と大きくないに、みんなによく聞こえる声で言った。その途端、みんなが先生の話を聞くときのように背筋を伸ばしたので、あたしはびっくりした。あわてて真似する。

「日々の中で、みんなも多少イライラしたり、モヤモヤした感情を抱えることはあると思う。例えば、僕は昨日、定食屋でカレーうどんを頼んで白いシャツが汚れた。なんでカレーうどんを頼んだんだと後悔したがもう遅い」

 みんなが笑った。だが、大宮さんが口を開きかけると、ぴたりと静かになる。

「自分が悪かったり、もう取り戻せない失敗を思い出して自己嫌悪に陥ったことがある人は?」

すっと何人かの手が上がった。

眼鏡をかけた女の人と、ちょっと太った若い男の人。男の人の方は、あたしをここまで送ってくれた人だ。

大宮さんは「井口さん」と一人を指名した。

眼鏡の女の人がしゃべり始める。

「私は寝る前に前の会社での失敗とかが頭の中を回って止まらなくなります」

あるよね。ある。そんな声が他の人からも漏れた。大宮さんは頷いている。

「では、袴田さん」大宮さんが次の人を指名した。

男の人が今度はしゃべり出す。

「その日にこと、誰かと話したこととか、ちょっとした相槌とかが間違ってたんじゃないかって、自己反省会?みたいなのが止まらなくなること、あるっす」

円になったみんながうんうんと頷いた。そう、あるよね、それもある。波の音に交じって、みんなの声が大きくなる。大宮さんは笑って周りを見回した。

焚火の炎が大宮さんの顔を照らしている。

「僕はその解決にこんな方法を使っている。僕が学生時代に悩んでカウンセリングに通っていた時に教わったことだ」

 カウンセリング。カウンセリングとは心の病気とか悩みのある人が通うものではなかったっけ。長谷さんがそう言っていた。それで大宮さんが?自信があって、お金もあって、堂々としているこの人が?

でも、誰も口を挟まなかった。みんな知っていたのかもしれない。

「まず、頭の中に箱のイメージを思い浮かべる。何でもいい。木箱でも、段ボールでも、書類ケースでも構わない」

大宮さんはいったん話をやめた。みんなは目を閉じたり、空を見上げたりしている。箱を頭の中にイメージしているのだろう。あたしが頭の中に浮かべたのは、あのピンク色のスーツケースだった。今はもう使っていない、でも大事なあの箱。

「鮮明に思い浮かべたら、自分の中の嫌な感情や記憶をそこに詰めてみる。箱を開いて、中に入れて、箱の蓋を綴じるんだ」

大宮さんはまた言葉を切った。静かに、周りを見ている。

波の音が響いている。波打ち際の流木に波が当たるちゃぷちゃぷいう音も聞こえてくる。焚火がはじける。

「できたかな?できたらその箱を、海に流そう。さあ、立ち上がって」

えっ?あたしは慌てて頭の中からピンクのキャリーケースをかき消した。

一人、また一人と立ち上がって、波打ち際に歩いていく。ざっざっざという砂を踏む音が重なる。あたしは頭に何も浮かべないまま波打ち際に向かった。

大宮さんが暗い海の向こうを見ながらみんなに言う。

「さあ、箱を海に流して。どこまでも流れていく。もう君たちの手には戻らない。君たちは、悩みから自由になる」

袴田さんが何かを海に放り込む動きをした。井口さんが続く。そっと波に流す人、大きく腕を振って投げる人、押し出すように波に乗せる人。様々だった。

あたしは、何もイメージしないまま、手を海に浸した。


 翌日、ありさが熱を出してしまって、あたしは早めに別荘から帰った。一週間の予定だったが、しかたない。はしゃぎすぎたのだろう。めったに発熱しない子だったからかなり焦ったが、大したことはなさそうだった。赤い顔をしておでこに熱さましのシートを貼ったありさは「うであしおばけ……」と何度も魘されていた。怖い夢を見ているのだろう。

27日には嘘のように熱が下がって、ありさは退屈そうに部屋で過ごしていた。最初はマンションの駐輪場に立てられた鯉のぼりを熱心に見つめて、「お魚さん、お空にいたのね」とご機嫌だったが、2時間もすると外に出たいとぐずり出した。ぶり返すといけないから、今日はしっかり見張っておく。ありさは新しいスケッチブックにたくさん絵を描いた。ふわふわさん、鳥さん、ガチガチさん、クネクネさん。相変わらず、クネクネさんは悪い子らしい。「お魚さんをいじめるの」ありさは次のページに、色とりどりの魚を描きながら「めっ」と怒った。

 その絵を見ながら、あたしはまた不安を感じていた。


 別荘に出かける前の日、日下部さんの奥さんと廊下ですれ違ったのだ。

大宮さんや水橋さんから、旦那さんが休職中だということを聞いていたから、あたしは「大変ですね」と声をかけた。間違った対応じゃなかったと思う。でも、日下部さんはあたしをちょっと怖い目で見た。

「ありさちゃんのこと、ちゃんと見ていないとだめよ。いつもフラフラさせて、事故でもあったらどうするの。4歳でしょう?もっと落ち着く年頃だと思うから、小児科に相談にいったらどう?」

「健診でも、元気だっていわれました」

あたしは日下部さんの言いたいことが理解できなくて、小さな声でそう返してしまった。まずかったなと思ったが、日下部さんはあたしが予想していたよりもずっと優しい声で言った。日下部さんの顔は、あたしのことをバカな子と呼んでいた。バカな子にもわかるように言ってあげるねと声が聞こえる気がする。

「私が言いたいのは、あの子、ここがちょっと普通の子と違うんじゃないかってことよ」

トントンと日下部さんは自分のこめかみを突いた。

「発達障害って知ってる?その中でも動きすぎたり、集中できない子を多動児っていうのよ。早めに医療や福祉に繋がったほうがあなたのためにもなるんじゃない?」

頭の方から血液がさーっと足元に下がっていくようだった。あたしだって一度はその可能性を考えたことがある。でも、大丈夫だって、あたしは思っていた。でも、でも、他の人から見て変なのだったら、ありさは変なのかもしれない。

言葉が出なくなって、あたしはその場に固まってしまった。

「戸建てに引っ越したほうがいいんじゃない?」

ハイヒールの音が遠ざかる。あたしはポケットからスマホを引っ張り出した。

 あたしの担当をしてくれている阿久津さんというワーカーさんは不在だったが、しばらくして電話をくれた。あたしが日下部さんに言われたことを伝えると、三歳児健診でも問題はなかったことを確認してくれた。どうしても心配なら、一度医療センターで検査をしてみようかと言ってくれた。あたしはお願いしますと飛びついたが、検査は4か月待ちというショックな言葉が返ってきた。

「検査を受けたい人がたくさんいるから、今すぐにってわけにはいかないんです」

そんなにたくさん、障害のある子がいるんですかとは訊けなかった。そんなにたくさんいるなら、ありさもそうかもしれないのだ。そういえばこの子の父親は自殺している。そういうものも遺伝するのかな。

「国分さん!国分さん!」

スマホの向こうで阿久津さんがあたしの名前を呼んだ。

「落ち着いて。お母さんが落ち着いてないと、子どもは不安定になりますからね。どっしり構えて。私たちも、産婦人科の佐藤先生も国分さんのこと応援してますからね」

それにあたしは、はいと答えて電話を切った。


 ありさのスケッチブックには、世界中のどんな図鑑を探したっているはずのない生き物がたくさん描かれている。数日前までは、ありさの想像力の産物に見えていたそれが、急に病気の表われみたいに見えてくる。大きな歯を持つ黒いおばけが女の子を食べている。ちょっと前までは大きな口のかわいいキャラクターと仲良くしている女の子にしか見えなかったそれは、今では不気味な化け物が女の子に襲い掛かろうとしているようにさえ見える。

 そして今ありさが黒いクレヨンで描いているものを見て、あたしは悲鳴を上げてしまった。ありさが手を止める。

「それ、なに……?」

「うであしおばけ」

ありさはそれを指さした。

黒い足と黒い腕が、いくつもがっしりと絡み合っている。

あたしにはそれが、裸で絡み合う幾人もの人間に見えてしまった。子どもが描くはずない、いやらしい絵。おかしい。この絵はおかしい。

「ママまた、出てこないでってして」

ありさは糊を取り出すと、キャップを開けてあたしに渡した。そうだ、前にもこんなことを言っていた。

あたしはそのページを糊で封じ込める前に、こっそり写真を撮った。病院に行ったときに見せるためだ。


 


 




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