親子の家 27

 マンション全体を巻き込む問題はありさの死後から始まった。

ありさが死んですぐ、マンションに警察が来たり、児童相談所の職員が来たり、耳聡い週刊誌がやって来た。しかし、野本が予想していたよりも彼らは短時間で引き上げていった。虐待の痕跡はなかった。つまり、マンションの住民が噂していたような事実は発見されなかったからである。

 ありさが死んだ後、亮子は以前よりも頻繁に家を空けるようになった。

我が子が死んだ部屋で暮らすのは心苦しいだろうし、何よりもマンションの連中はまだ亮子の虐待とありさの障害を疑い続けていたのである。水橋と日下部は定例の井戸端会議でそのことを議題に飽きもせず盛り上がり、長谷は亮子に何故か接近した。

亮子がマンションに戻ってくるのに合わせ、何か親し気に話している。5月にお互いの間に諍いがあったことなど忘れたようである。亮子はひどく困惑したように対応していた。

 9月の終わりごろ、7階の世古という住民が野本のところにやってきた。

今まで一度も苦情など入れたことはない住民である。彼女は管理人室の前で長い時間躊躇していた。野本が「どうしました?」と出ていくと、ひどく狼狽えて、「変な話をするんですが」と切り出した。ありさの幽霊をマンションで見たというのだ。

おかしい女だったかと野本は警戒しつつも世古の話に耳を傾けた。彼女の話は簡潔で整然としていて、内容以外はおかしなところはなかった。ありさが死んですぐ、世古はマンションの廊下を歩く幼女の姿を見たという。血まみれでさえなかったら、生きている者と見まごうばかりの鮮明さだったという。すぐに先月に事故で死んだ子だと思い当たったという。世古から聞いた姿は、確かにありさのそれだった。世古はそれを何回か見た。場所は毎回違う。フッと見えて、フッと消えている。浮かばれていないのかもしれない。世古は「変な話をしてごめんなさい」と深く頭を下げた。

さすがにこれを管理日誌に書くのは気が引けた。いつの間にかそんな相談があったことも忘れていった。

 10月に入って、今度はある噂が野本の所にもたらされた。

国分ありさの幽霊がいる。噂を持ってきたのは、案の定水橋だった。しかも水橋は「私も幽霊を見た」と言うのだ。5階の廊下の端にありさが血まみれで佇んでいたという。もの言いたげにこちらを見て、スッと消えた。

「その後になんだか生臭い臭いが残ってて、あっ、これは血の臭いだって思ったの」

 まるで怪談だ。だが、すぐに思い出した。世古が言っていた話が急に信憑性を持ち始める。ありさの幽霊。水橋の話によると、ことの発端は3階の大宮の子どもだという。てっきり世古が話したと思っていた野本は、意外な人物の登場に面食らった。大宮の子ども。確か薫とかいう中学生だ。学校に行っているのかいないのか、変な時間に遊びにでかけるのをよく見る。金髪に黒ずくめという奇抜な、いかにも不健康な素行不良という見た目で、野本は自分の娘がああではなくてよかったと見かけるたびに感じていた。その大宮薫が最初に幽霊を見たのだという。

「日下部さん家の智恵ちゃんがあの子の同級生だったらしいんだけど、昔から幽霊を見る子だったらしくて、学校でも有名人だったんだって。不登校の理由もあんまりおかしなものが見えるから外に出るのが怖くなったからだって言うのよね」

その話を聞いても、野本はまだ半信半疑だった。

 時を同じくして、今度は506号室の日下部が幽霊を見たと電話してきた。

幽霊など真っ先に否定してかかりそうな、知的さを鼻にかけた女の口から、「幽霊が廊下にいる」という言葉を聞いた時、野本は嫌な予感がした。そこからは爆発したように幽霊の目撃談が集まった。場所はいつも違うが、共用廊下が多い。血まみれのワンピース姿。それも一致していた。悪いことに、退去したいという申し出までもが出始めたのだ。子どもが事故で死んだ場所で子育てをしたくないという理由で、3世帯が退去をしてしまった。当てこすりのように管理体制の甘さや防犯カメラの不備を指摘された。それは野本のせいではない。いつまでも動かない本部が悪いのだ。

 幽霊騒動が持ち上がってから、もう一つの噂が囁かれ出した。

。ありさの死後、亮子はほとんど姿を見せなかった。どこにいるのか、たまに大きな鞄を持って出ていき、帰ってくる。誰かが、風俗で働いているのを見たと噂したが、真実はわからない。

だが、噂は幽霊の目撃談に比例して増加した。国分亮子はありさに恨まれている。だから、実の母親の所には姿を見せない。

「亮子さんも悩んでいるみたいよ。ありさが死んだのはあたしのせいなんて泣くもの。これって、そういうこと?」

何故か亮子とよく話をするらしい水橋が、用もないのに管理人室にやってきてわざとらしく意味深に言った。野本はそれどころではなかった。5階の退去者が止まらないのだ。年内で出ていきたいという相談がひっきりなしに寄せられる。それを本部に報告すると、そっちで何とかしてくれという冷たい返事が返ってきた。「幽霊の目撃談」については鼻で笑われ、神社で御札でももらってこいと吐き捨てられた。


「やっぱ最強は角大師っしょ。伊勢神宮もいいんだけど、ネットで買うならこれかなあ」

管理人室のパイプ椅子にふんぞり返った大宮薫が小さなタブレットを操作しながら言った。画面には悪魔のような顔をした黒い異形のものが大写しになっている。厄除けの護符らしい。下に、5000円という文字が点滅していた。

「こんなにするの」

「当たり前っすよ。えらい坊さんが手書きで作るんだから」

バサバサの金髪を指に絡めていじりながら、薫はキヒヒヒと特徴的な気味の悪い笑い声をあげた。

騒ぎを鎮めるには、神仏に頼るほかはない。野本はそう判断したのである。

そして、大宮家の薫に助言をもらおうと思ったのだ。同じマンションの住民だし、何よりもこういうことには詳しそうなのが薫しか思い当たらなかった。

「ボクが思うにあれはかなりの悪霊っすから、並みの御札じゃダメなんですよ。強い人の作った強力なやつじゃないと」

「君はそういうの作れないの?」

野本の問いに、薫は「ボクですかあ?」と声を上げた。

「できないこともないっすけどお、気力を使うしい」

「いくらか払うよ」

「へえ」

薫は上目遣いに野本を見た。茶色くクマが浮いた白い顔。どうせ夜更かしして遊んでいるんだろう。野本が中学生の小遣いには多すぎる額を提示すると薫は「先払いならいっすよ」と承諾した。ちゃっかりと、「経費は後で別に請求します」と続ける。

「ボク、独り立ちを考えてるんすよね。いつまでも親元でぬくぬく育つって言うのもアレだし、どっかに修行に行こうかなって」

紙幣が入った封筒を持って、薫は立ち上がった。

 薫は翌日には和紙に書かれた御札を持ってきた。意外にもそれはよくできていて、神社で配られているものと比べても遜色ない。のたくった文字は判別が不明だが、不思議と下手とは感じなかった。

「墨とか和紙とか、経費で2万です」

明らかに水増しされた金額を請求されたが、野本は黙って自分の財布から金を渡した。


 御札はお知らせの紙と共に集合ポストに入れられた。

翌日、野本は集合ポスト横のダイレクトメールを捨てるためのゴミ箱を見て愕然とした。御札が幾枚も捨てられている。お知らせの封筒と一緒に、いくつもの御札がゴミ箱の底に張り付いていた。騒ぐだけ騒いで、実際に手を打ったところでこの仕打ちをするのか。すべての費用は野本の少ない小遣いから出ているのだ。胃がキリキリと痛み、それ以上に怒りが勝った。クソどもが、地獄に落ちろ。乱暴にゴミ箱を床におろすと、自動ドアが開いて淡い紫のコートを着た国分亮子が出かけていくところだった。手にはモノグラムのバッグを抱えている。ブランド品だ。あの女。

子どもが死んだというのに贅沢三昧とはいい気なものだ。こいつのせいで、今自分はこんなに窮地に立たされているのに。野本は、ゴミ箱の御札をかき集め、余分に薫からもらっていた分をポケットに押し込むと、静かに階段に向かった。

 5階は静まり返っている。すでに3世帯が退去してしまったせいだ。

野本は壊れているカメラの通電がないことを再確認し、505号室の前に立った。

ドアのナンバーパネルを見下ろす。どこか遠くで、やめておけ。これ以上惨めになるなと声がした気がするが無視した。

パネルを押す。ほとんどの住民が初期に与えられたナンバーから番号を変えるから、亮子も変えているだろう。もし、変えていなければ、それはこの行動が正当なことの証だ。やれと言っているのだ。誰が?親に虐げられて死んだ、可哀想な幽霊が、だ。

ピーと言う細い音がして、扉は開いた。

 野本は室内に入る。若い女らしい淡い色の家具。掃除をする気力がないのか、床は汚れていた。汚く汚れた派手なキャリーケースがリビングに置いてある。

カーテンがきちんと閉まっていることを、野本は確認した。

野本は襖を開いた。

四十九日は過ぎたので、後飾りの祭壇はもうない。

折り畳み式の小さなテーブルの上に、ガラスの花瓶に入った桜色の花と、頭巾をかぶったうさぎのぬいぐるみに囲まれて、骨壺があった。横の写真立てには、頬を寄せ合う親子の写真が納まっている。背景はこのマンションだ。

笑ってんじゃねえ。クソが。

野本は骨壺を手に取り、桃色のケースを剥ぎとった。

つるりとした白い陶器が手の中に残る。

 野本は壁に向けてそれを叩きつけた。ぱっと白い灰が舞う。目に入って沁みた。ぼろぼろと涙が出る。それが更に野本の怒りに火をつけた。また叩きつける。5回目で割れた。灰と、細かな骨の破片が部屋中に散る。怒りに任せて踏みつける。踏みにじる。幽霊がいるなら今すぐ出てくればいい。殺してやる。自分の心にこんな溶岩のような怒りがあったとは知らなかった。随分我慢していたのだなあと、妙に冷めた頭の片隅で誰かが言った。そうだ、我慢していたんだよ。俺は。いつもいつも。みんなが邪魔をするんだ。山口も、家内も、娘もだ。あいつがいじめられないように学校に俺が先手を打って俺の無実を連絡したのに、バカみたいなことをやめてと糾弾しやがって。誰が学費を出して、誰が食わせてやってると思ってんだ。たった一発殴っただけで、実家に帰りやがって。殺すぞ。死ね。

柔らかい子どもの骨はすぐにぐじゃぐじゃに潰れた。ポケットから出した御札を、野本は部屋にばら撒いた。紙片は蝶のように舞って、するすると畳の上に落ちた。

 やり遂げた気分だった。野本は靴下を脱いで床に足跡が付かぬよう注意しながら、505号室を出た。

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