4月28日

 星矢くんが来たのは3時過ぎだったと思う。いつもは長谷さんと一緒に来るのに、今日はひとりだった。ありさの熱はすっかり下がっていたから、「走ったりしないでね」と言い聞かせて遊びに出した。

ありさはスケッチブックやお気に入りのおもちゃをいっぱい入れたリュックサックを背負って、星矢くんと手を繋いで出て行った。

 あたしはスマホの画面をまた見る。

夕べ、あたしはスマホで子どもの描く絵について調べてみた。しかし、何歳ならこのくらいの絵が描けるという保育や子どもの育ちのページしかでてこない。ありさの絵は年齢に比べてやはり上手なことはわかった。画像を検索してみて、ありさの絵と似ているものをやっと見つけたが、それはホラー映画のパンフレットだった。でも、怖い映画に出てくるような絵を子どもが描くということは、やっぱり問題なんだろうか。

次に、発達障害と検索した。いくつかの病院のホームページを見た。ありさの行動は、たしかにそこに書いてあった発達障害チェックリストに当てはまるものもあったが、そうでないものも多かった。ありさは言葉に遅れはなかったし、指さしもあった。癇癪を起こしたことはあるが、一日中泣き止まないようなことはなかった。どこにも、心配なら受診と検査をと書いてあったが、ありさの受診は4ヶ月後だ。

 その時、スマホが震えた。メッセージの着信だった。LINEの通知には、幸田さんのアイコンが光っている。

「今度、就活で東京に行きます。久々に会えますか?」

 絵文字を使わない丁寧な文章。いつもの幸田さんだった。

あたしはすぐに返信した。今は東京に住んでいないが、電車で一時間くらいで東京駅まで出られること。それから、子どもが一緒でもいいかということ。

幸田さんは、それなら、新検見川の駅ではどうかと提案した。明日はその近くの会社で説明会があるのだという。ここから20分かからないくらいだ。あたしは了解のスタンプを送った。そういえば、幸田さんは子連れでもいいかということに反応しなかったなと、その時は少し不思議に思った。

 久しぶりに友達と会う。幸田さんは確か地元の公立大学に合格したんだった。高校も県立の頭がいい人が行くところだったし、きっとかっこいい女の人になっているんだろう。あたしの頭の片隅に、日下部さんがちらついた。いつもぱりっとしたスーツを着て、踵の高いパンプスでさっそうと歩いている女の人。水橋さんがいうには、旦那さんの分まで稼いでいるという、有名な塾の先生。あんな風になっていたら、ちょっといやだな。あたしは同じマンションに棲んでいる人のことを勝手に嫌っている。そんな自分が少し嫌になった。

 大宮さんが焚火の前で言っていたことを思い出した。箱の方法。

あたしは、頭の中に箱を思い浮かべた。それはやっぱりあのあちこちがボロボロで汚れたピンク色のキャリーケース。それしか浮かんでこない。あれに嫌な気分を入れるのはできなかったので、あたしはあたしなりに別の方法を試すことにした。

 昨日、ありさと眺めた鯉のぼりを思い浮かべる。青い鯉はお父さん、赤い鯉はお母さん、小さい水色の鯉は赤ちゃんと指さして教えて、あたしはしまったと思った。「うちにはどうしてお父さんがいないの?」訊かれたらどうしよう。

ありさには、お父さんはありさが産まれてくる前に死んじゃったんだよとは言ってあったが、それを理解できているとは思えなかったからだ。しかし、ありさは鯉のぼりを、その大きな目でじっと見つめていた。

「ありちゃんのパパもお空にいるね」

そして、ポールのてっぺんで揺れている吹き流しを指さして「あれは?」と尋ねた。

あたしはそれの意味を知らなかったので、「なんだろうね」と返した。

――パパもお空にいるね。

この子には、やはり不思議なものが見えているのではないか。

このことを思い返して、あたしはふーっと息を吐いた。貴文さんは空の上にいるんだ。

 頭の中に思い浮かべる。空を舞う鯉のぼりと、ありさの奇麗な大きな目。それから、空の上であたしたち2人を見守っている貴文さん。笑っている。ありさが無事に大きくなったことを喜んでいる。どうか浮かばれていてください。あたしは、その幸せなイメージを、頭の中のキャリーケースに詰めた。

心がすっと軽くなったような感じがする。これからもこれを試そう。なにか辛いことがあったら、いい思い出を箱に詰めておこう。本当に苦しいことがあった時にそこから取り出せるように。すでに箱の中には昔の大事な思い出が入っている。友達と過ごした中学の日々。その後にやりとりしたメッセージ。


 気が付けば辺りが夕暮れに包まれていた。あたしはずいぶん長い間、思い出を箱に詰めるのに熱中していた。アパートでのおばあちゃんたちとの思い出や、もっと昔のお母ちゃんが祝ってくれた誕生日など。それらを箱に詰めていた。箱はいっぱいにならなかった。

あたしは立ち上がり、急いで冷凍庫を探った。冷凍のミートソーススパゲティをレンジで解凍しているうちに、冷蔵庫に残っている玉ねぎと小松菜を刻む。

料理は地元にいた頃からやっていたから苦にはならなかった。

フライパンにバターを落とし、玉ねぎをいため、小松菜も入れる。ありさは好き嫌いが少ない子だが、ほうれん草は苦いと言っていやがる。でもこっちは食べられる。

解凍が終わった冷凍パスタをフライパンに戻して、軽く炒める。野菜の分、味が薄くなるから、プライパンの隅にケチャップを足した。ジャーっという音とちょっと焦げたケチャップがバターと混ざるいい香りがする。フライパンを揺すって全体を混ぜ、食器棚から取り出したお皿に盛りつける。前のアパートから持ってきた、ワンタッチ型の蝿帳をかぶせた。レースの傘の上半分みたいな可愛い蝿帳をくれたのは、アパートの大家のばあちゃんだった。地元でも使っていたというと、ばあちゃんは「これ便利よお」と笑った。この思い出も頭の中のキャリーケースに入れて、あたしはありさを探しに出た。


 マンションはすっかり夕焼けの色だった。廊下に窓から差し込んでくる光が、柱や窓枠の長い影を作っている。影は真っ暗で、なんだかいやな感じがする。

星矢くんと一緒なら、きっと7階だ。最近お気に入りらしい花壇には2人の姿はなかった。あたしは水橋さんが言っていたことも思い出した。

「二人が生き物を殺して遊んでいるんじゃないかって、管理人さんが言ってたの」

あの時はそんなことしないと咄嗟に言ってしまったし。水橋さんも納得してくれた。きっと管理人さんの勘違いだ。でも。あたしの胸にまた、暗い不安が広がってきた。

 小学6年生の時、キヨセが小さい生き物を殺すのにハマったことがある。トカゲとか、カエルとか、トンボとか。キヨセはカエルに爆竹を詰めたり、トンボの翅をむしったりした。最初は好奇心からやっていたんだと思う。でも、あの頃、キヨセの家は荒れていて、新しいお父さんがキヨセのことをひどく叱っていた。協調性がない、愛想がない、可愛げがない、そう言ってキヨセは叩かれていた。腿のつけ根とか、二の腕の裏とか、服を脱がなければ絶対に目立たないところを先が広がった薄い鞭みたいなもので叩かれる。痕が残らないから、誰も気が付かない。そういうための道具があるということをあたしが知ったのはずっと後だった。

 やがてキヨセは猫に手を出すようになった。あたしたちの地元には捨て猫がとにかくたくさんいた。一回テレビで取り上げられたら、観光客が餌をあげるようになって、もっと増えた。ボランティアさんが猫を保護して、これ以上増えないように手術した。そういう猫は片方の耳を小さくカットされていて一目でわかる。でも、猫が増えていくスピードには全然追いつかなかった。印がない猫をキヨセは狙っていじめた。捕まえた足を縛って、棒で叩く。殺しはしない。痛めつけるだけだ。餌付けで人に慣れている猫はキヨセの持っていく餌につられて簡単に捕まった。キヨセはあたしたちが咎めるなんて思っていなかったのだろう。面白いことをやるからと、猫をいじめる現場にあたしたちを呼び出した。それを見て、一番怒ったのは幸田さんだった。卑怯者と幸田さんはキヨセに掴みかかった。ちせが悲鳴をあげ、シマくんとあたしが、ふたりを引きはがした。

「卑怯者!自分より弱いものをいじめるくらいなら、そこからさっさと逃げたらいいんだ!」幸田さんは泣いていた。キヨセも泣いた。泣きながら、お父さんにされていることを話した。あたしたちにできることはなかったが、できるだけキヨセを一人にしないようにした。解決はしなかったが、キヨセはもう、猫をいじめなかった。

 キヨセは経理や簿記の資格が取れるという寮制のよその県にある高校に進学して、それから地元には戻っていない。上手く逃げ切れたんだなとあたしは安心した。

 星矢くんもそうなのかもしれない。キヨセと同じように、もしかしたら長谷さんにひどいことをされているのかもしれない。星矢くんのオドオドとした態度が頭に浮かんで、あたしは首を振った。だめだ。それは想像だ。キヨセと星矢くんは違う。長谷さんはお金持ちだし、頭がいい。そんな人は虐待なんかしない。


 6階から7階に続く踊り場で、ありさの声がしたから、あたしは急いで階段を駆け上がった。ありちゃん、ご飯にするよと呼びかけて、空気がおかしいことにようやくあたしは気が付いた。

星矢くんが泣いていた。

窓枠が作る影の中に、長谷線さんと水橋さんが立っていた。二人の白目だけがなんだか光っているようで、あたしはそこから動けなかった。

「どうしたんですか?」

喉に言葉が張り付いてしまったように、声がかすれた。

「星矢ちゃん」

 長谷さんが星矢くんを呼んだ。星矢くんはビクッと跳ねるようにこっちを向いた。鼻の頭が赤い。泣いていたのだ。

ありさは、あたしは首をひねって辺りを見回した。ありさはじっと立っている。通路の向こうにありさがガチャガチャで撮当てた大きなラメ入りスーパボールが転がっている。

「ありちゃんが、ぼくのおもちゃをこわした。ありちゃんがこわしてした」

星矢くんがありさの足元を指さした。声が震えている。

そこには、プラスチックのおもちゃのロボットが落ちていた。ちょっと前に流行った、変形するおもちゃだ。それは手足がバラバラになって、ごろんと転がっている。

 あたしはようやく一歩踏み出して、おもちゃを拾った。ロボの関節の所が罅割れて、ねじ切ったみたいになっている。

それを拾って、あたしはありさにゆっくりと尋ねた。びっくりするくらいに冷静に。

「ありちゃんがやったの?」

ありさは一度目を泳がせて、星矢くんを見た。星矢くんはパッと顔を背ける。

そして、ありさはにこっと笑った。

「うん!」


 ぱちんとあたしの頭の中で何かがはじけた音がしたと思ったけど、それは、あたしがありさを打った音だった。何?掌がじんと傷んだ。何?あたし、今、何した?

痛いくらいの静けさを、ありさの悲鳴が破った。

ありさが泣いている。なんで?掌がジンジンする。あたしが、あたしが、

あたしが、ありさを叩いたから。

あたしはぎくしゃくと自分の手を見て、ありさを見て、もうそこからは体が動いているだけだった。ぎゅっとありさを抱きしめた。ありさはあたしを押し戻そうとして暴れたが、あたしはそのままありさを抱え上げた。ありさがまだ小さくて、熱を出して痙攣を起こした日も、あたしは無我夢中でこんな風にありさを抱えておじいちゃん先生の病院の扉を叩きまくった。出てきた先生には怒られたけど、よく裸足でこんなとこまでこれたもんだねえと先生は呆れながら感心していた。あの時は重さを感じなかった。今もだ。あたしはありさを抱えて505号室に飛び込んだ。腕の中のありさは、しゃくりあげるばかりだった。部屋の床に座り込んだあたしは、ありさを抱きしめ続けた。

 辺りが真っ暗になったのに気が付いた。カーテンの向こうはもう夜で、時計は8時を指していた。ありさは泣いて真っ赤な目で、「ママ」と呼んだ。

「おなかすいた」

 どっと涙が出た。この子には、あたししかいないんだ。あたしがごはんを上げなければ死んでしまう。たとえ叩いてくる人間であっても、この子にはあたししかいない。あたしは手の甲で涙を拭った。

 テーブルの上のスパゲッティをレンジで温めなおし、流しに出しっぱなしだったフライパンを洗って目玉焼きを作ってその上にのせた。

――あんたも娘さんも、両方が幸せでないといかんよ。難しいことだけどね。

産婦人科のおじいちゃん先生が言っていたことが、心の底から浮いてくるように聞こえた。難しい。それはとても難しい。

 ありさはスパゲティを完食した。あたしはなんだか味を感じられなかった。

「ありちゃん。ありちゃんが、星矢くんのおもちゃを壊したの?」

あたしはゆっくりと訊いた。

ありさは上目遣いであたしを見た。長いまつ毛が顔に影を作っている。

ありさは首を振った。「星矢くんがやった」

「ありちゃんがリュックに入れたの?」

これには頷く。

「星矢くんが、ないしょって」

 ああ、あたしは腕を伸ばして、またありさを抱きしめた。


 翌日の朝、長谷さんにあいさつをしたら無視された。

これはもう予想していたから、あたしはそんなにショックではなかった。

水橋さんはいつも通りで、さっさと帰っていく長谷さんの方を見ながら、「誤解かもしれないのに、ちょっと態度が悪いわねえ」と言った。水橋さんはまだ味方でいてくれている。

あたしはありさの手を引いて、管理人室に会釈した。

「子どもを野放しにしないでくださいね」

管理人さんから投げかけられた言葉は、チクチクと刺さった。この人にも、そう見えていたのか。


 ありさは電車がホームに入ってくるのをじっと見ていた。小さく手を振る。

通勤ラッシュが終わった電車は空いていた。

あたしはありさの靴を脱がせた。ありさは座席に膝立ちで窓の外の景色を見ている。

幸田さん。元気だろうか。

頭が良くて、ハキハキしていて、それに友達思いだった。大学も地元で一番頭がいいところに行った。だから東京で就職できるのだろう。

 新検見川駅は小さな駅だった。北口の所にチェーン店のカフェがあって、そこが待ち合わせ場所だ。約束していた時間よりも10分早い。店内を覗いてみると、幸田さんらしき人はいなかった。コーヒーを飲んでいるおじいさんと、パッチワークのバッグをテーブルの上に並べて楽しそうに話しているおばさんたちと、それから奥のテーブルにいる、太ったおばさん。

 ポケットのスマホが震えた。幸田さんという文字が画面に映っている。

奥のテーブルの太ったおばさんだと思っていた人が、スマホを耳に当てているのが見えた。「ここです」スマホから声がした。


 あたしは目の前の女の人と幸田さんがどうしても一致せずに、何度もまばたきをしてしまった。黒いスーツはボタンがはち切れんばかりに広がっていて。お腹の所に浮き輪みたいな段が2段できている。肩もウエストもパンパンだった。あたしが知っている幸田さんは、顎がほっそりした丸顔に、銀縁の丸い眼鏡が似合う人だった。でもこの人の顔はやはりパンパンに太っていて、顎が首にめりこむようだ。肌も荒れて、ニキビをつぶした後の茶色いかさぶたがファンデ―ションでも隠せていない。ひっつめ髪の遅れ毛が汗でうなじに張り付いていた。それでもよく見ていると、知的な切れ長の目とか、鼻の線はしっかり幸田さんなのだった。

「急に呼び出してごめんなさい。5年?6年ぶり?」

「5年ぶりだね」

ありさは子ども用の椅子に座って、大人しくオレンジジュースを飲んでいる。

幸田さんは、ありさの存在を完全に無視していた。

「幸田さんは元気だった?大学はどう?」

「バカしかいない」

「えっ」とあたしは聞き返した。幸田さんはアイスティーを一口飲んだ。

「全然ダメ。やっぱ田舎の大学は遅れてる。飲み会とか、合コンとかそんなのばっかりで勉強なんてしてないもの。男は性欲猿で、女はそれに媚びてばっかり」

声が大きくなる。幸田さんの目がなんだか怖い。ありさが不安そうにあたしを見た。

「わたし、大学では社会学を専攻したんです。女性の権利を向上したくて、そういう会社に就職するつもりです。国分さんは女性学ってわかる?」

あたしが首を振ると、幸田さんは「そっかあ~知らないんだあ」と鼻を鳴らした。豚の鳴き声みたいな音が出た。

「女性の権利を向上し、女たちがもっと自由生きるための学問。それが女性学。フェミニズムくらいは聞いたことがありますよね?」

「女の人を大切にしようっていうやつ?」

「そういう浅いやつじゃなくて、活動としてのフェミニズです」

また声が大きくなる。幸田さんはスマホを出すと、有名な研究者だという女の人の顔写真を見せてくれた。

「男性の既得権に対抗する、崇高な学問。女はいつだって損をしているんです。その不均衡を解消するための崇高な役目をもつのが女性学です。例えば、あたしはずいぶん太ったでしょ?」

急にそう言われて、あたしは幸田さんの顔をまじまじと見るしかない。

太った。そう。どう少なく見積もっても、15の頃よりは30キロは増えているだろう。2倍になったと言ってもいい。今の幸田さんは、100キロに近いくらいあるように見える。

「これも男性に対する抵抗。そしてわたしなりのボディポジティブです。わかりますか?自分らしい体形で生きていくってこと。痩せていて、胸が大きい女という男性が勝手に作り出したイメージをわたしはこの身をもって打ち砕こうとしているのです」

幸田さんの言葉は、まるで演説だった。

あたしはもっと違うことが話したかった。みんなの近況とか、最近楽しかったこととか、幸田さんの家で飼っていた犬のチロは元気かとか。あたしに本を貸してくれたおじさんは元気かとか、料理の上手いおばさんは元気かとか。でもそれはどれも聞けなかった。幸田さんは、今の世の中はいかに男性が得をしているかとか、女が痩せていることを求められる社会のフキンコウ不均衡とか、賃金の格差とかについて語り、あたしは口をはさむことができなかった。そうして30分ほど喋りまくって、幸田さんは思い出したように、「シマくんのお父さんが亡くなったそうです」と言った。

 シマくんのお父さんはその日漁に出て、そのまま帰らなかった。漁船が見つかったのは3日後で、生存者はなし。乗組員全員が死んだ。その賠償金を払うため、シマくんは大変らしいと他人事のように言った。それに続いた言葉は、さらにあたしを混乱させた。

「自業自得ですよ。だってシマくんのお父さんって、借金を肩代わりしてやる代わりに国分さんのお母さんと寝てたでしょう?あそこの男はそんなのばかり。死ねばいいんです」

 知らなかったわけではない。あたしだって、そういうことがあるのは気が付いていた。でも、少なくとも母は嫌がっていなかった。そう思う。夜になんでシマくんのお父さんがうちに来るのか、わからなかったわけではない。聞こえてくる物音の意味を知らないほど、あたしはバカじゃなかった。

「そんな言い方……」

幸田さんは立ち上がった。あたしを見下ろして、ありさを見下ろして、また鼻を鳴らした。

「だからワカバちゃんなんてあだ名をつけられるんですよ。どうせその子も男に騙されて産んだんでしょう?男の既得権にぶら下がろうとするから、そんな目に合うんです。ちょっとは世の中のことを知って、頭をよくする努力をしたら?」

 国分さんはお店を出ていった。ありさが、ママ、と服の裾を引っ張った。

店員さんがおしぼりを持ってカウンターから出てくる。「大丈夫ですか?何かありましたか?」あたしの顔を覗き込んで心配そうに言った。

あたしは涙が止まらなかった。幸田さんの不満を聞くだけのゴミ箱みたいな役割にされたことよりも、大事な友達が、もう二度と手の届かいないところに消えてしまったことの方が悲しくて痛かった。

 あたしはすぐにシマくんにメッセージを送った。「グループから幸田さんが退会しました」という文字を目に入れないようにした。

 幸田さんから、シマくんのお父さんの船のことを聞きました。大変な時だと思うので、返信はいりません。困ったらいつでも連絡してください。

一文字一文字祈るように押して、あたしは送信ボタンを押した。


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